@QUTAKUTA

無職1ヶ月、頑張れるようになってきた

無職生活もいつの間にか1ヶ月が過ぎた。

ぼくには、毎週日曜日に前週の振り返りをして、次の日曜までの予定を立てる習慣がある。これは仕事していた頃、休日や定時で帰れる夜をだらだら過ごさないために始めたもので、今も続けている。

退職直後は役所の手続きとか、ほったらかしにしていた不用品の片付けなど、週に2、3日はそういう予定も入っていた。

でもここ2週くらい、「予定として書くことない・・・」ということが続いていて、結果、全部の日に「制作」とコピペするだけになっている。

4月はなんとなくソワソワしたり、根拠のない不安に苛まれる時もあったけど、だんだんこの空白の日常に体が慣れてきた。

最近感じるのは、「人は長期的な見通しがあってこそ努力できる」ということ。これは、仕事をしていた頃と無職になった今とを比べて実感したことだ。

会社勤めをしていた時、連休が来るたび「今度こそやりたいことに集中しよう」と思って制作をしたり勉強したりしていた。

でも、気分が乗ってきた頃に休みが終わり、また仕事が始まる。仕事のストレスや忙しさで、やる気を失い、せっかく積み上げた努力もリセットされてしまう感覚があった。実際、散発的に何かをやるだけで大して何もできていなかったと思う。

「どうせまたリセットされるし・・・」という諦めが常にあった。だから、何かを丁寧に理解しようとか、本気で何かを覚えようとか、そういう気持ちが続かなかった。

毎日虚しくて、何もできない自分を見て自己肯定感も下がるし、モチベーションも湧かないし、ただただ時間過ぎて、それに伴って自分がどんどんダメになっていく実感があって辛かった。

一方、今は無職になって、自分の時間を自由に使えるようになった。誰にも邪魔されず、毎日好きなだけ自分のやりたいことができる。予定表には「制作」とだけ書かれた日が並び、これがしばらく続くという見通しがある。

この「続けられる」という安心感があるからこそ、分からないことがあっても「どうせまた忘れるし」と流すのではなく、しっかり理解してから進もうと思える。日々少しずつでも前に進んでいる実感があって、面倒なことにも自然と向き合えるようになってきた。

頑張るぞ、という意気込みがあるというより、普通にしていても自然と物事にちゃんと取り組める感じ。

4月に入った最初の頃は、勉強計画を立てたりして、チュートリアルをこなしたり、調べ物をしたり、「やってる感」があった。つまりこの時点では、仕事の合間の連休と同じようなテンションだった。でも4月も後半になってくると、そういう感覚は薄れていって、ぼんやり毎日が過ぎていくような感じがした。

でもその感覚は、仕事をしていた頃の、虚しさに溺れる感じではない。

実際は、生活の中で制作や勉強をすることが当たり前になり、迷わず着手し、集中して作業を続け、1日が終わっていく生活になっただけだ。

新鮮さやワクワクは薄まっていくけれど、その分、じわじわとした充実感がある。積み重なっていく感覚があって、ちゃんと毎日に意味があるように思える。

去年のゴールデンウィークもいろいろやっていた。(それも振り返りとして記録されている)

でも結局続かなかったんだよなというのを覚えている。

先行き不透明だけれど、とりあえず今は落ち着いた気持ちで前向きに過ごせている。

背景作画のためにBlenderを勉強

ぼくはよく、漫画の背景にCLIP STUDIO ASSETSで落とせる3D素材を使っている。ありがたく使わせてもらっていて何なのだが、やっぱりベストな素材は見つからないし、自分で作れたらいいよなぁ、と思っていた。

3D素材はアングルを変えながら使いまわせるのがとても便利なのだが、もし1場面でだけ必要な背景だとしても、パース定規などを使って紙面に線を引いて空間を作っていくより、モデリングして置いてなぞる方が作業効率がよさそう、と思う場面は結構多い。

そういう意味では、「3D素材を作るため」だけでなく、「描画ツールの延長」として3Dモデリングができようになりたいという気持ちがずっとあった。

ということで、無職になって時間もできたので早速Blenderの勉強を始めた。

YouTubeにBlenderのチュートリアルが豊富にあるのはなんとなく知っていたので、1週間取り組んでみた。

最初にこちらの動画を見てハンバーガーを作った。細かい操作方法や今何をしているのかとか考えずに、言われた通りにやって、ハンバーガーができていく体験をした、という感じ。最初はとにかく理解より体験。

最近こういう3Dのおもちゃっぽい可愛い画像をよく見るようになった。数年前にそういうトレンドが来て、すでに一般化したという認識はあったけど、3Dには全然馴染みがないし、自分で作ってみようとは思わなかった。この流れに適応して3D使ってる人すごいなぁ、と思っていた。

なので、簡単な操作でこういうルックの物がサクッと作れたのは驚いた(自分が何を操作したのかはほぼ分かってないけど)。

3Dというと、ワイヤーとか無機質なグレーの面をツクツクやってるイメージがあって、そこからこのルックになるのは結構手間とか知識が必要なんだと思っていたが、かなり最低限の操作だけでこれは作れた。

そのあとM designというチャンネルのチュートリアルをやろうと動画を見たのだが、ほとんど説明なく作業がどんどん進んでいくので、30秒くらいで諦めた。

一旦、基本操作をさらってからチュートリアルをやった方が良さそうだと感じて、『サルでもわかるBlender超入門!基礎編』という再生リストをやった。

再生リストを最初から最後まで順番に見ながら、同じ動作を自分でもやった。操作方法を確認しているだけなので、何かが完成するわけでもなく、退屈だった。内容的にも「『溶解』と『削除』の違い」とか言われても、分かったような分からないような。

この段階では「そんな操作がある、用語がある、機能がある」というのが記憶に引っかかっていればいいだろう、という感じで、ざーっと流しながら手を動かした。知識の柱だけ立てている感じで、中身は伴ってない。

そのあと、同じチャンネルの『サルでもできる「Blenderチュートリアル」』という再生リストを上からやった。

最初は面白くて、真面目にやっていたのだが、だんだん白けてきた。

というのも、完成品が違うとはいえ、やっている操作は同じことの繰り返しだからだ。だんだん次に何をやるのか想像がつくようになってくると、驚きも発見も学びもない単純作業になってくる。

これは良いことで、飽きるくらい基本操作が身についてきたという実感があった。

新しい操作が1個もないなら別に作らなくていいやと思って、完成品の画像から、「これはこうやって作るんだろうな」と想像できる物は動画を飛ばし飛ばし見て、新しい操作がなければ自分では作らなかった(バナナとか、ひよことか)。

この再生リストも修了し、基本的な操作は細かく説明されなくても分かりそうだと思ったので、最初に挫折したM designのチュートリアルに取り組むことにした。

再生リストがいくつかあって、5分、10分、20分など、おおまかなチュートリアルの長さで動画が分けられている。

5分が一番簡単なやつかなと思ったので、とりあえず5分のチュートリアルを順番にこなしていった。

『サルでもできる「Blenderチュートリアル」』の最後のあたり(寿司、ロールパン、街)で薄々感じていたのだが、「漫画の背景を作りたい」というぼくの目的を考えると、マテリアル設定やライティング、カメラの設定はすべて不要だ(質感表現は使えるかも)。

正直、最後にマテリアルやライティングの設定をしている時の方がモデリングしている時より楽しい。

どんな制作でもある程度そういう傾向はあると思うのだが、最後の仕上げって、分かりやすくクオリティが上がっていく工程だから、制作の中でかなり楽しいフェーズではある。

細かいこだわりとか自分の好みやテイストを入れられるのも仕上げであることが多いし、それまで細かく用意してきたものが開花するクライマックスだから楽しい。

ただ、ここを飛ばせばチュートリアル中の3分の1から半分くらいの時間を削減できると思ったので、以降はモデリングが終わったら動画を飛ばすようにした。

ということで、5分チュートリアルを終わらせた。

取り組んだのは、かなり単純なモデリングでしかないので、まだまだ奥が深いことは分かっている。でも、幾何学的な形なら細部を作り込んでいくことは同じ作業の繰り返しだし、参考資料があれば作れるんじゃないかという気持ちになってきた。

また、漫画の背景素材にする場合、おおまかな形が作れれば、細部は絵で描けばいいやという気持ちもあり、これくらい作れればあとは実践あるのみという感覚もある。(お手本通りに作るのに飽きてきたので、ゼロから作ってみたい気持ちが大きくなってきた)

とはいえ、今すぐ漫画背景を作らなければいけないタイミングでもないので、これからは1日1時間くらいに時間を絞って、その時間内でこなせるチュートリアルを毎日続けてやっていこうと思う。

夜明け前が1番暗い、ネガティブな意味で。

幸いなことに、4年間勤めていた仕事が終わって、無職になる。

4年契約の仕事だったが、入って2週間で、「この仕事、自分に向いてない」と感じた。この仕事に契約期間がなければ、もっと早くに辞職していたと思う。

4年間働き続けたのは、よく言えば、4年間働くという最初の約束を守るためだが、正直なところ、辞めるためのコミュニケーションを取る踏ん切りをつけられなかっただけだ。終わるまで待てば、しんどい話を切り出さずに済む。

失った時間が大きいが、ぼくはそのコストを払ってでも決断と会話を避けたということだ。

そんなこんなで、ようやく待ちに待った終わりが来た。

あと3年、あと1年、あと半年、あと3ヶ月、あと2ヶ月、最後の1ヶ月。あと3週間、あと2週間、最後の週。最後の日。

本当に指折り数えながら過ごして、終わったらあれをやろう、これをやろう、これはもうやらなくてもいい、この人と会わなくていい、と妄想を膨らませていた。

だから今は、最もポジティブな気持ちであるはずなのだが、どんなに良いことでも、変化には痛みが伴うみたいだ。

仕事を辞めて無職になる。そもそも、この状況がポジティブだと考えることが、一般的な感覚に照らすと変かもしれない。でも総合的に考えると、ぼくにとってはポジティブな状況だと言える。

たしかに、ネガティブなことはどんどん思いつく。給料がなくなる、人脈がなくなる、キャリアの保証がない、今後の生活がどうなるか分からない。

まず、この4年間で十分に貯金は貯めたからお金の心配はまだ先でいい。人脈がなくなっても、自分にとって嫌な人間関係がなくなるだけ、会わなくていい人に会わなくてよくなるだけ。保証がないのは元々だし、気分が悪くなる仕事を一生続けながら生きるのは牢獄と変わらない。

今より悪くなるはずがない。

これはぼくの本心だし、この何年間かずっと考え続けて、何度考えても同じ結論にしかならない。とにかく一度仕事を辞めることが最良だと判断しているし、今もそれに疑いはない。

理性でそう考えても、毎日、不安感、寂寥感、空虚感に襲われる。

まず慣れるしかない部分がある。生活が変わるのだから、そわそわするのは動物的に仕方がない。新しい生活リズムに慣れてしまえば落ち着くだろう。

仕事とお金に対する不安は、制作に打ち込む以外には晴らしようがない。それに打ち込むだけの時間は十分ある。

こういう不安はそれほど心配ではない。変化に対する反応で生じているだけだと分かるからだ。

ただ1つだけ、ここのところずっとモヤモヤを発生させていることがある。

それは、取り残され感。

少し前に大学時代の同期に会うことがあり、話をしていて、同期生の多くが当たり前に結婚していることに驚いた。

よく考えると、みんないい歳だし、晩婚化していると言っても、する気がある人はしている年齢だよなと思ったのだが、そのときに、ぼくの人生にだけ時間が流れていないような感覚に陥った。

今でも大学生の時と同じような部屋に住み、同じような地域で、同じような生活をしている。年相応のキャリアもないし、人脈もないし、来月からまた無職だ。

「普通」に生きていたらありそうないろいろが、ぼくの人生にはない。

そもそもぼくは大学進学前に紆余曲折あり、その時点で普通のレールを踏み外している人間なので、今更そのことに絶望するわけでもないのだが、現実に会える昔の知り合いが着々とライフステージを上がっているのを目の当たりにすると、自分のレールの外れっぷりを自覚せざるを得ず、どこに進んでいるのかよく分からない状況に、やっぱり不安が湧き上がってしまう。

これが夢を追うバンドマンとか、お笑い芸人とか、俳優志望とかだったら、自分の周囲に自分と同じような人間がいそうなものだが、ぼくは本当にひとりだ。

それが結構辛いなと、今思い始めた。

でも、そういう普通の人生を送っていたら不安がないのかと言えば、多分そうじゃないんだろうというのも想像できる。というか、ぼくが想像できないような不安がいろいろあるんだろう。

どう生きていたってどうせ不安なのだから、まあぼくはぼくの不安をやっているだけだなと、そう考えると少し落ち着く。

仕事に行って社会人ヅラして働いている間は、1日8時間+残業時間、そういう不安から目を背けられた。

来週からは、24時間この不安に直面するのかと思うと、気が重い。

「夜明け前が一番暗い」という言葉は、「その状況が打開する直前が最も苦しい、だから今、今までで一番苦しいだろうけど、あと少しだから頑張れ」という、ポジティブな意味で使われる言葉だ。

でも逆に、打開する直前は最も苦しくなる、という意味でもある。

終わるかどうか分からない時には、「もうすぐ終わるはずだから頑張れ」という鼓舞だけれど、終わること分かっている今、「最後に最悪に苦しくしてやる」という意地悪に聞こえなくもない。

まあもう、ことここに及んだらどうしようもない。早くこの陰鬱とした気分を吹き飛ばして制作に打ち込みたい。

今はただ、明けるのを待つ。

なぜ集団の中にいると傲慢になってしまうのか

正確な文言や出典は不明だけど、赤塚不二夫さんの言葉で「自分が一番劣っていると思っていたらいい」という名言がある。

10代の頃にネットで見つけて以来、この言葉はずっと正しいと思っている。傲慢になって得することは何もない。

にも関わらず、なぜぼくは傲慢になってしまうんだろうか。

今の職場で働いていて、他人を貶めるような考え方をしてしまうことが増えた。今までの人生ではあまりそういうことはなかった。

これは、ぼくの性格が良かったというより、そういう考え方をしなくて済むような生き方をしてきたからだと思う。今の職場がぼくの性格を変えたのではなく、ぼくの中の悪い部分を露わにしてしまっただけだと感じている。

職場で働いていると、嫌なことがいろいろ起こる。

嫌なことが起きた時に、その原因を作った人を責めるとか、その人にムカつくとか、そういう気持ちが湧き立つのはしかたないと思う。

ただ、悪い感情はなかなかそこでは止まれない。

あいつは仕事ができないから、人の気持ちに対する想像力がないから、責任感がないから、いつも被害者ヅラしやがってとか、結局自分のことしか考えてないんだよなぁ、みたいに、相手を貶める言葉が溢れてくる。

つまり、起きた出来事とそのダメージを超えて、相手の人間性へ攻撃が向いてしまう。

これは多分、因果関係を探してしまう人間の特性から来る自然な流れなんだと思う。

嫌なことが「ただ偶然に起きた」とは人間は納得できない。納得するためには原因が必要で、その原因を相手の人間性に求めてしまう。

そこまではただ相手を攻撃しているだけだから、それでイコール傲慢ということにはならない。ただ、人間の思考には論理が付きまとう。この論理がぼくを傲慢にしているんじゃないか、というのが今の仮説。

つまり、相手の人間性を攻撃できるのは、「自分はそうじゃない」という前提が成り立っているからだ。

「仕事ができない」と言う時には、「自分は仕事ができる」と思わざるを得ない。「想像力がない」と言う時には、「自分は想像力がある」と思わざるを得ない。「自己中心的だ」と言う時には、「自分は周囲のことを考えている」と思わざるを得ない。

攻撃が攻撃として機能するためには、その攻撃から自分を除外しないといけない。

そのときに傲慢さが発生するんじゃないか。

相手を貶める為には、相対的に自分を持ち上げないといけない。それが傲慢さを生み、自分にも他人にも一貫性を求めてしまう習性が、この傲慢さを固着させてしまう。

この発生をどこで抑えられるか。

まず、傷つかなければ最強だ。傷つかなければ他人を攻撃する必要が生じない。

そういう意味で、集団の中に入らないという選択肢はありえる。ぼくは20代はわりとこの戦略を取っていたと思う。ただ、職場によってはこの戦略は難しい。

集団の中にいても一切傷つかないほど強靭な心を育てる、という方法もあると思うけど、これは人生賭けて取り組むことだから、すぐの解決策にはならない。

傷つかないのが無理だとすると、傷ついても相手を攻撃しない、という方法もある。

心に余裕がある状態で、メタ認知できる状態あれば、これはギリギリ可能だと思う。「まあ、そういうこともあるよね」と思って右から左に受け流す。

でも、実際傷ついてはいるから、自分にストレスがかかる。また、常に我慢している状況なので、良好な人間関係を築くのは難しい。

(今のぼくに一番近いのはこの状態だと思う。ぼくは基本悪口は言わない(言う相手がいない)ので、客観的に見れば攻撃はしてない。ただ内心では結局他人を攻撃している。外面と内面で齟齬が出ている=我慢している・嘘をついているから、うまく人間関係を作れない)

次に、攻撃はしてしまうが、攻撃を相手の人間性まで及ぼさないようにすること。(この辺りが一番妥当なラインなのではないかと思う)

傷つきはする。攻撃もしてしまう。でも、攻撃はあくまで起きた出来事の範囲内で止める。

でも先にも書いた通り、どんな出来事にも因果関係を見繕ってしまう人間の特性からして、これは自然にはできない。

あと、ある意味で言うと、これは相手を理解しない態度にもつながる。

人間関係は良くも悪くも「この人はこういう人だ」という偏見の深まりと一緒に進んでいく。出来事を相手の人間性と絡めないというのは、常に相手への判断を保留するということであり、「相手のことが分からない」という関係を維持することでもある。

今思いつく限りでは、防波堤としてはこの3段階(傷つかない>攻撃しない>人間性まで攻撃しない)があって、これより先は傲慢さを生んでしまう(相手の人間性を攻撃する→自分の人間性を相対的に高く見積もる)と思う。

悪い感情・出来事・相手の人間性をつなげたら、絶対に自分の傲慢さにつながる。

それを避ける為には、相手の人間性を出来事や悪い感情から切り離さないといけないが、それは因果関係を認知してしまう人間の特性を抑え込み、相手を理解する人間関係の深まりも阻害する諸刃の剣である。

そんなこんなで、傲慢さを断ち切りたい人は山に篭って修行するのかもしれない。

正直ぼくも、自己嫌悪に陥るくらいなら独りの方がいいなと思ってしまう。

感情とメタ認知の反作用

またちょっと仕事の嫌なことを思い出してモヤモヤしてしまったので、考えをまとめようと思ったのだが、ちょっと前の記事を読み返すと完全に今書こうとしていたことが書かれていた。

傲慢にはなりたくない2

記録として文章を書いていると便利だなという気づきと、結局、同じところでグルグルしてしまっているんだという不毛感を感じた。

前回は、とにかく周りに流されず自分が正しいと思う生き方を貫こうという結論で自分を納得させる文章だった。

この結論がいいかどうかは置いておいて、こういう風にメタに思考することによって負の感情の連鎖を断ち切ることはできると思う。といっても、今回みたいに、結局、負の感情は再び湧き上がるものだけど。

ストレスへの対処法とか、グズを治す方法とか、そういうセルフコントロール系の本をよく読んでいた時期があった。メタ認知が大事だという話はどこにでも出てくる。

メタ認知の定義は状況によりけりだと思うけど、「自分を突き放して他人であるかのように観察すること」だとぼくは理解している。

このときに「突き放している対象」ってなんなんだろう、とふと思った。

「自分」と言ったって、メタ認知をしているのも「自分」なんだから、「自分」全部を突き放したら、認知やそれに伴う思考自体ができなくなってしまう(いわゆる「マインドフルネス」はこの状態を目指しているのかもしれない)。

考えている自分は維持しながら、考えるのに邪魔な自分の一部を突き放している、というのが正しそう。

では、ぼくがメタ認知できていない時は、何が原因なのかと考えてみると、それは感情や情動なんじゃないかと思った。

前の記事でも書いたけど、傷つけられると、防衛反応として怒りが湧き起こる。怒っていると思考が妨げられて、決まった結論に向かう思考しかできなくなってしまう。

怒りがマックスの時は、物事は全て相手のせいだ。「もしかしたら自分にも非があるかもしれない」という思考はメタ認知であり、これは怒りを抑制する。多分、怒りがおさまった分だけ、メタ認知ができる。

これはポジティブな感情のときも同じで、例えば飲み会でもライブでもいいが、楽しくてテンションが爆上がりしている時には何も感じないのに、あとになって自分の言動を振り返り、気恥ずかしさや後悔が発生することがある。その言動の最中にメタ認知が発動してしまい、急にテンションが下がったり白けたりしてしまうこともある。

メタ認知できる量と感情の量は反比例の関係にある。

そう考えると、感情に飲まれていると考えることができないということになる。

逆に言えば、思考していれば感情を抑制することもできるかもしれない。

実際、ぼくはモヤモヤすることがあると、そのことについて考え続けることでその感情に対処するという方法をよく取っていると思う。

では感情は考えることに不要なのかと言えば、それも違うと思う。

怒ったり悲しんだり悔しかったりしなければ、そもそもぼくは何も考えないだろうと思うから。

怒ったから善悪について考えるわけだし、悲しかったから物事の価値について考えるわけだし、悔しかったからより良い方法を考えるわけだ。

だから、感情の昂りと冷静沈着さを往復することが大事だと思う。

その上で、冷静に考える時には、自分の感情は、それが赤の他人の感情であるかのように切り離さないといけない。じゃないと結局、「冷静に、自分の感情を肯定する」だけになってしまう。

自分の感情を肯定するためだけに思考するのは、感情に飲まれているのとあまり変わらない。それだとメタ認知の意味がない。

そう考えると、メタ認知で大事なのは自己否定なのかもしれない。

自己否定はだいぶネガティブな雰囲気をもった言葉だけど、実際問題、現状の自分を否定しない限りは、人間はずっと同じところをグルグル回り続けるだけになってしまう。

多分、自分の過去の感情を否定することができる状態というのは、その過去の自分を外から見られているという意味で、ひとまわり大きくなった状態なんだと思う。

それを人間の成長と言えるのかもしれない。

感情が生まれ、それを切り離し、否定できる認識を身につける。

こういうサイクルでぼくは成長しているのかも。

傲慢にはなりたくない2

悪口を言っている人間が嫌いなのに、気づけば自分も悪口を言っていた。むしろ悪口を言いながら生きていた方が得なのではないかとすら考えてしまっている。

長年の自分の価値観が揺らいでしまい、不安な(不安定な)状態が続いて精神的にしんどかったので、そのことについてじっくり考えてみた。

結論としては、ぼくは今までの生き方のままでいいやと思っている。正しいか間違っているか、損か得か、ではなく、自分がどういう人間に成りたいか、から結論をだした。

そもそも、ぼくはなぜ悪口が嫌いなのか。嫌いというか、誰かが話す悪口に対してずっと違和感があって、そこに乗り切れない。乗り切れないから気まずくなるし、楽しくないから、自然とそういう人から離れる。

誰かが悪口を言っている時、ぼくが感じている違和感を改めて見つめ直してみると、そこには「不正確さ」と「政治性」と「甘え」があると気づいた。

悪口をよく言う人は、それほど慎重に事態を把握していない、と感じることが多い。そこには強いバイアスがかかっていて、対象が悪いと主張するための情報が過剰に語られ、それを覆すような情報は無視される。どんな出来事もそれほど単純なはずがないのに、それを単純化して堂々と「悪い」断言していることに不正確さを感じる。

なぜ悪口を言う人は、自分がそんな不正確なことを言うことを許容できるんだろう、と考えてみたときに、悪口が好きなタイプの人は、ぼくとは全く違う欲望を持っているんだろうと思った。

人間は、「真実が知りたい人間」と「勝ちたい人間」のふたつに分けられるんじゃないか。

悪口が好きな人は、「勝ちたい」んだと思う。勝てるなら事実はどうでもいい。とまで言わなくても、会話している相手に納得してもらえる程度の事実があれば、それでよいと考えているように見える。

最初から結論が決まっていて(その結論は、ある出来事が生じた時の直感的な不快感や嫌悪感から直接引き出されていると思う)、その結論を正当化するための情報だけを集めてくるし、その情報を最大化するように語られる。これは不正確さを意図的に使った政治だ。つまり、自分を不快にさせる「敵」に勝つために語られるのが悪口だと思う。

不快な者を攻撃するのは許されていいんだろうか。そうは思えない。なぜならそれを不快だと感じている自分のほうがおかしいという可能性がいつだってあるから。そういう慎重さがなければ、世界にある差別は全部正当化されてしまう。

でも、悪口を言う人は、そういう自分の言動を許している。自分が不快だと思ったものを敵認定し、自分に都合よく攻撃してもいいという風に振る舞っている。それは、その人のその人自身に対する甘えだと思う。

自分はすでに正しい人間であり、そんな自分を不快にさせた出来事は間違っているに決まっている。だから攻撃して潰してもいい。そういう傲慢さを感じる。この傲慢さの正体は、もう自分はこれ以上成長したり変化したりする必要がないという甘えだと思う。

いや、これは単なる甘えではないかもしれない。ということに、自分が他人の悪口を発してしまうようになってから思い至った(詳しくは昨日書いた)。

悪口は、自分の価値が傷つけられる不安や恐怖から生じた。自分に降りかかってきた攻撃を無化すために、発生するのが悪口のようだった。

たしかに誰しも傷つきたくはない。ぼくも傷つきを受け入れられなかった。でも、傷は同時に成長や変化のきっかけでもあるわけだから、実は、傷つかないようにするのは成長しないようにすることと同義だ。

そう考えると、傷つく余裕がある時は適度に傷ついておいた方がいい。

ぼくは仕事のミスをなすりつけられたことがある。明らかな相手のミス(ある仕事を忘れていた)を、ぼくが伝え忘れていたことにされた。これはかなり無理のある主張だったので、ぼく以外の人もさすがにそれはないだろうということになっていたと思うし、ぼくもその瞬間はかなりイラついたけど、わりとすぐどうでもよくなった。

その相手は嘘をついたわけではなく、「自分はミスをしていない」と信じるために、自分がミスをしたのかもしれないという可能性は考えず、消去法でぼくがミスをしたことにしたんだろう。

でも、なぜその人はそのミスを認められなかったのか。別に大したことじゃなかった。「あ、忘れてました、すみません」で済むような話だった。

多分、その人は自分に自信がなかったんだと思う。というか、周囲が自分の能力を低く見ているという不安があったんだと思う。実際はそんなことはないのだが、悪口まみれの職場で働いてたらそうなるのは理解できる。

そんな不安がある中で、その人は、それ以上、傷を増やせない状況だったんだと思う。

そう考えると、悪口を言う人は、自分に自信がないから傷を回避するために悪口を言うが、そうやって傷を回避しているから成長できず、成長できないから自信もつかず、だからまた傷が受け入れられない、という悪循環に陥っていると思えてしかたがない。

成長できなくても、自分の所属しているグループの中で有利に立ち回れるのであればそれでよい、という考え方もあると思う。お山の大将で心地よく生きればよい。これが「勝ちたい人」の生き方なのかもしれない。

ぼくは、そういう風にはなりたくない。例えば、自分の周りにいる人がみんなぼくのことを肯定してくれても、ぼくは「そんなわけない」と思って居心地が悪い。そんな単純なわけがない。ぼくは尊敬されるより理解されたい。ぼくには悪いところも弱いところ醜いところもたくさんあるから、本当に理解されたら全肯定されることなんてありえない。そんな嘘の関係は全然心地よくない。

脳内で悪口が止まらなかった時、ぼくは傲慢になっていた。自分は悪くない、自分は優秀だという前提で他人を攻撃していた。ぼくも疲れていて、それ以上傷を増やせなかった。

でも同時に、この悪口は単純すぎて嘘っぽいとも感じていたし、他人を攻撃している自分が全然好きじゃなかった。

悪口を言うのはやっぱりやめておこうと思った。立場が悪くなっても、事実を知る努力をしようと思ったし、自分はそれでいいと納得した。

いろいろ考えたので、悪口を言わないことが正しいとか、悪口を言わない方が得だとか言うことはできると思うけど、最終的には単純に、ぼくは悪口を言って安心したり心地よくなったりする感性を持っていないんだから、その方向でうまく生きるのは無理だと思った。

傲慢にはなりたくない1

今は治ったのだが、2、3日前、何をしていても職場であった嫌なことを思い出してしまい、イライラとモヤモヤが続いて、やろうとしていることに集中できない状態になってしまった。

妄想や空想に耽ってしまったり、早くあれがやりたいなぁとか、あれを買ったらこういう風に使えるなぁとか、そういう思考でぼーっとしてしまうことは子供の頃から癖みたいになっている(マインドワンダリングと言ったりもするらしい)。

それによってやるべきことができなくなるので、どうにかしたいと思って、メタ認知とか、先延ばしにしないメソッドとか、いろいろ調べたり試したりしている。うまく回避できる時もあるのだが、咳や鼻水みたいなもんで、意志ではどうにもならないときもあるなぁ、というのが今の認識である。

ただ、誰かを非難する気持ちが止まないとか、脳内で悪口を言いまくってしまうのは明らかに今の職場で働き始めて、ここ1、2年で発症した症状だ。

ぼくはこれまでの人生で、周囲の人に悪い感情を強く持ったことがなかった。だから、自分はそういう性格なんだと思っていたけど、実際は、自分が悪意を抱くような人間とは関わらないように生きてきた(生きてこられた)だけだったんだと今は思う。

今の職場は空間的にも人間関係的にも狭くて、仕事をしていると否応なくそこの人間関係に巻き込まれる。正直言って、そこで働いている人たちと仲良くなりたいと思ったことはない。性格悪いな、と思ってしまう人が揃っているというか、性格の悪い人ほど発言力があり、そういう空気ができてしまっているので、その集団に関わりたくない、という方が正確かもしれない。

仕事の嫌なことはいろいろあるのだが、脳内で反芻してイライラしてしまうことを整理してみると、自分の評価に関わるような出来事が原因だと分かった。理不尽な仕事の組まれ方をして大変だったとかは、その時「ふざけんなよ」と思った記憶はあるけど、思い出してイライラすることはない。

評価に関わるような出来事というのは、例えば手柄を横取りされたとか、自分のした仕事を否定されたりとか、ちゃんとやったことをやってないみたいに吹聴されたりとか、そういうことだ。明らかに悪意の被害を受けている時もあるし、勘違いされているときもある。実際ぼくのミスだったと思う時もある。ぼくが職場のおしゃべりに参加しないこともあって、都合よく言われてんなぁ、と思うことがよくある。反論したい気持ちもあるのだが、この人たちと喋るくらいならもうそういうことでいいや、という諦めの気持ちの方が強い。

その場その場では諦めていても、やっぱりモヤモヤはしているから、数日前みたいに、急に脳内をそういう記憶が走り回って、ぼくの生活を妨害してくる。ここ1、2年で時々こういうことが起こるようになった。

そういう記憶に対して、「どいつもこいつも馬鹿ばっかり」とか「人としてのレベルが低すぎる」とか「お前が仕事できないのをこっちのせいにすんな」とか、相手を非難する言葉が噴出しているのに気づく。

ぼくは本気の悪口を言うことはない。いや、なかった。むしろ悪口を話している人を見下していると思う。そんな自分が、(口には出さないとはいえ)他人の悪口を言っている。それが意外だった。

同時に、少しだけ、悪口をいう人の気持ちが分かるような気もした。

ぼくの感情をかき乱すのは、ぼくの評価を下げるような出来事の記憶だ。そのときに、ぼくはその出来事に関わっている人の悪口を言っている。

それで気づいた。この悪口は防衛反応なんだ。ぼくの評価を下げる誰か。その誰かの評価を下げる(馬鹿、レベルが低い、仕事ができない)ことによって、自分が食らった攻撃の傷を相対的に減らそうとしているんだろうと思った。

そう考えると、日々悪口ばかり言っている人は、常になんか傷ついている(傷つけられている)んだろう。

その上で、だからそれでしょうがないとも思わない。やはり、悪口ばかり言ってる奴はクソだと思うし、仲良くする気にはならない。

でも、さらにその上で、今の職場で働いていると、もっと性格が悪くて、想像力がなくて、矛盾した思考で平気で他人を傷つけられる人間になった方が、得なんじゃないかという思いが頭をかすめる。

もっとズルく立ち回れなかった自分が馬鹿みたいに思える。

そういう奴がでかい顔をしている職場で働いていると、本当に惨めな気持ちになる。慎重に考えたり、相手の気持ちを慮ったり、正確なことを言おうとする努力に何の意味があるんだろう、という気持ちになる。

なんだかただの愚痴になってきたので、今日はここで終わる。これは書きたかった話ではない。

でも、書きたい話の前提になる。

ドラマ『ストレンジャー・シングス』シーズン1

エンタメ作品を観る場合、ぼくは比較的一般的な感覚を持っていると思う。ヒットしている作品は大体面白いと感じる。

でももちろん、すごく評価が高いけど、自分はイマイチ楽しめなかったなという作品もある(誰でもそういう作品はあると思う)。『ストレンジャー・シングス』はぼくにとってそういうドラマだった。といっても、シーズン1しか観てないので、2以降を観れば意見は変わるかもしれない。

こういう作品に出会うと、自分はどこで楽しさから離脱してしまったんだろうかと考える。

これの前に『私のトナカイちゃん』というドラマを観た。こちらはグッと惹き込まれる感じではなかったけど、観続けていると中盤から面白さ立ち上がってくる印象だった。

『ストレンジャー・シングス』は逆で、1話ですごく惹き込まれたのだが、だんだん白けていってしまったという感想だ。

素人の文句にすぎないけど、「なんかこのへんで乗り切れなかったなぁ」という点を考えてみると概ねこの3つだ。

・物理的にも目的意識としても悪役が弱い
・エルと怪物の関係性があるようでない(超常現象についてはシーズン1では説明されない)
・子供が無茶していること自体に乗れなくなっている

シーズン1の最後でも言い訳がされているように、出来事のいろいろなことが説明されないままストーリーが進んでいく。ぼくが「シーズン2以降を観たら印象が変わるかもしれない」と感じるのは、この言い訳のせいではある。

とはいえ、ぼくは設定の整合性にはあまり頓着しない方なので、白けてしまったのは、その設定の不明解さ自体のせいではない。そうではなくて、それによってドラマ(キャラクターたちの感情)に乗り切れなくなったのが問題だった。

その中でも1番問題として大きいと感じたのは、悪役の弱さだ。

捜査を妨害したり、邪魔者を殺したり、偽装工作をしたり、そういう点ではかなり大きな力を持っているように描かれている。しかし、自転車で逃げる子供を捕まえられないし、1番真実に迫っている署長のことは野放しだし、死体の隠蔽に綿人形を使っている(!)。

また、怪物を倒すためにエルを利用しているという設定なのだが(それがエルが追われる理由になっている)、終盤で高校生が怪物を誘き出して攻撃し、ダメージを与える場面が描かれることで、あれだけ巨大な組織のわりに、やってることが高校生以下であるように感じられる。

向こうの世界には誰でも入れるし、怪物にはそれなりに物理ダメージが効くし、こちらの世界に誘き出すこともできる。だとすれば、あんな大掛かりな装置まで作って手をこまねいている悪役は相当アホなんじゃないか、という印象を受けてしまう。

繰り返しになるけど、ぼくはこの辺の設定がゆるいこと自体で白けているのではない。

このドラマを支える設定として「悪役が怖いこと」「怪物が強いこと」は重要だ。じゃないと少年たちや署長の頑張りが空回りしてしまうし、怪物を怖がっているエルの気持ちにも乗り切れない。バンバン人員がエルに殺されながらも、組織がエルにこだわることにも納得できない。(エルに殺された人数全員で怪物退治に行った方が良かったのではと思ってしまう)

だから、組織の全体像が見えないことや怪物や異世界の設定が分からないことは、ぼくはそれほど気にならないのだが、悪役が弱そう・間抜けそうに見えることで、どうしても白けてしまう。

あと、設定が不明解でもいいとはいえ、やっぱり、エルと怪物の関係性は分かりたかった。というのも、エルと怪物は 表裏一体な関係に見える。だからこそ、組織はエルに執着しているように見える。

ラストでも、エルは怪物に言葉をかけながら怪物を殺し、エル自体も消滅する。この2人は何か特別な関係があったんだろうと思わせるのだが、そこにも特に説明はない。ここはちゃんと説明がほしかった。というか、ここが説明されているだけでかなりいろいろなことに納得できたと思う。

ここが分かれば絶対もっと面白かったのに・・・という歯がゆい部分である。結局めちゃ強い超能力少女だからエルは追われている、というだけになってしまった感がある。そうなると父親との微妙な関係(エル本人には優しいが残酷な任務を与えている)も、単に理解不能な 関係性になってしまう。

「エルでなければならない」という設定だけはちゃんと伝える必要があったのではないか。

それから、これは完全にぼくの問題なのだが、子供だけで何かをやろうとしている場面でワクワクより心配が勝るようになってしまっている。「やめとけ」「大人を呼べ」という気持ちになってしまい、そういう場面が勇敢で感動的に描かれていること自体に違和感を感じてしまった。

これに関しては完全に、ぼくがターゲットではないということでしかないので、ドラマ自体への感想というより、ドラマを観た自分に対する感想である。

そもそも悪役が間抜けなのも、「子供がギリギリ立ち向かえそうな大人の悪役」というチューニングにしたからである可能性が高い。だから、本当にこれはぼくの「外野からの文句」でしかないと思う。

あと、これも好みの問題でしかないし、これによって白けたという話ではないけれど、このドラマは確実にあえて王道から外している点がある。

1番分かりやすいのは、最後にヒロインが彼氏とよりを戻す展開である。どう考えてもヒロインは根暗お兄ちゃんと結ばれるのが王道(視聴者の多くが期待すること)だ。でも、あえてそこは裏切っている。後味が悪くなりすぎないように、終盤に彼氏が反省してヒロインのために頑張るシーンを描いている。ここに関しては、明らかな嫌われ役にこそセカンドチャンスをあげようという意図なのかなと思って、ぼくはわりと納得できた。

問題は、ヒロインの善い友達があっさり死んだ方である。彼女は最後実は生きてました、という展開を期待したし、せめて、生きるか死ぬかでもうちょっと粘らせてほしかった。異世界の怖いビジュアルを見せるためにあっさり葬られてて、どうなんだろう。ダサい女友達は死ねということか。そこが後味悪かった。

そういえば、エルを保護してくれたオジサンもサクッと殺されていた。あれはこのドラマの厳しさ(組織のヤバさ)を印象付ける展開だったと思う。でも、その後、悪役が弱そうなので、違和感がより際立つ。それと連関して感じるが、エルがバンバン人を殺しているのも若干ひく。そういうところで、善悪や恐怖感のバランスの悪さを感じてしまう。

という感じでぼくはあまり楽しめなかったが、評価されるだけの質の高いドラマであることは間違いない。というか、そういう前提なのであえて良い点は考えなくてもいいかという気持ちがある。

個人的に1番好きなのは、狂人だと思われても息子を探し続ける母親と、真実を知った署長に「君が正しかった」と母親が言われた展開をきっかけに、それまでバラバラに真相に迫っていた家族・署長・友達が合流して解決に向かって動き出す流れは良かった。大人が加わったことでようやくワクワクできた。

あと、そもそも80年代を舞台にした世界観やビジュアル、オタクの友達関係、世界に裏表があるという設定自体も、すべて面白かった。だからこそ、序盤でグッと惹き込まれた。

逆にいえば、どれだけ世界に惹き込まれても、人間ドラマで白けてしまうと観続けるのは難しいんだなと思った。

自作キーボード「Keyball44」を作った

ちょっと前に電動昇降デスクのFlexispot E7という物を買った。

昇降デスクに興味があったわけではない。

3年前に買って使っていたテーブル(高さ72cm)がちょっと高く感じていた。低い物を書い直そうと思ったのだが、70cmを買えばいいのか、69cmを買えばいいのか、71cmなのか、分からない。そもそも好みのデザインでその高さの物が売っているとも限らない。

そのテーブルも気に入ってはいたので、木工屋さんで足だけ切ってもらおうと思った。ただ、いちいち足を外して、徒歩で持っていって、また戻すのは面倒くさい。それに結局何センチ切ればいいんだ。5mm刻みでベストを探すか。それは本当に面倒くさい。それに68cmくらいまで切り進めて、「いや低すぎる」となったら悲惨すぎる。

ということで、ここ3年「ちょっと高いんだよなぁ」と思いながらも、どうすることもできずにいた。

去年の10月に思い立って昇降デスクをかった。電動昇降デスクを買えばベストな高さを探れる。それが分かったらもうそれでいい。昇降デスクを捨てて、その高さのテーブルを買い直してもいい。それくらいの気持ちで電動昇降デスクを買った。悩むのが面倒くさかった

そのときに昇降デスクについていろいろ調べたからか、ぼくのYoutubeにデスク環境系の動画がよく流れてくるようになった。

昇降デスクに取り付ける収納用品、モニターアーム、ディスプレイなどなどの紹介動画の中、流れてきたのがkeyballという自作キーボードを激推しする動画だった。

サムネイルをパッと観た瞬間に、キーボードとトラックボールが一体化されたデバイスなんだということは分かった。

キーボード沼に落ちる気はなかったが、これはたしかにめちゃくちゃ便利そうだと直感的に思った。とはいえ、そこそこ値段もするし、自分で半田付けしなければいけないことは紹介動画を見て分かったので、「いやさすがに買わないよなぁ」と思っていたのだが、それから1週間後くらいには本体と、半田付け用品一式を注文し届くのを待っていた。

値段の高さはネックではあったが、便利なデバイスを使えることに加え、プラモデルの楽しさが含まれていると考えれば、まあ納得できた。

keyball44と、組み立てるために買った商品が届いた。一度開封し、部品が全部あるかを数えたが、組み立てる時間がなかった。

ご飯を食べながら、Youtubeで半田付け初心者向けの解説動画を見たり、keyball44の組み立て動画を見たりして、イメトレをしながら2週間が過ぎた。

それでようやく、今週組み立てる時間ができたので、なんとかかんとか完成させた。

半田付け用品は、keyball44を買った遊舎工房のキットを参考に自分で必要な物をamazonでまとめて買った(持ってる物もあったので)。全くの初心者なので、とにかくキットにあった物を揃えたのだが、「これ本当に必要なのか・・・?」と思っていた。

注文した時は半田付け解説動画を見る前だったので、フラックスとか、半田吸収線とか、何に使う物かも分からなかったし、半田ゴテだけあれば、台は別に必要ないのでは(別売りなので)・・・とか思っていた。

結果から言うと、意外と全部使った。

まず半田ゴテの台は絶対あった方がいい。台と言うか、スポンジとタワシみたいなのが大事。半田は意外とコテ先につくし、ついているとうまく半田を流すのが難しい。あと、マニュアルとか、動画とか確認しながら作っていると、長時間半田ゴテを置きっぱにする時間も出るので、安全のためにも台はあってよかった。

フラックスも、記事によっては「必ずしも必要ない」と書かれていた。というのもヤニ入りの半田ならあえてフラックスを使う必要はないから。「なんだ買わなくてもよかったのか・・・」と思ったのだが、このフラックスは大活躍した。

たしかに、手早くミスなく半田付けできるのであればフラックスはいらない。でもぼくは初心者なので、半田を温めすぎたり、量が多すぎたり、コテに溜まってうまく基盤に流せなかったり、ミスが多かった。その時に、フラックスをちょんちょんと塗ってしまえば、そのくらいのミスはリカバリーできた。あと、先に盛った半田を溶かしながらダイオードを留める時、フラックスを塗っておいた方が落ち着いて作業できた

同じ理由で半田吸収線も1回だけ使った。手元がくるって変なところに半田を乗せてしまったとき、解説動画で吸収線を使っていたのを思い出して、真似してやったら綺麗に半田が取れた(あまりにも綺麗に取れたのでちょっと感動した)。でも、よく分からず吸収線の銅線部分をつまんで作業したので指先が焦げるところだった。

そんなこんなで、実は無駄な物は買っておらず、買い物は成功していた。

実際の組み立てについて、ネットを見回すと「半田付けは意外と大したことないから、興味があるなら臆せずやってみよう」という意見が多い気がした。

感想としては、たしかに大したことないが、初っ端はかなり難しいと感じた。

というのも、最初にダイオードという部品をつけるのだが、これが本当に小さい。動画で小ささは見ていたし、部品チェックの時にも見ていたが、実際にピンセットで作業する段になると、もう本当に小さい。

人生でこれより小さい何かを「部品」として取り扱ったことはないと思う。入れ物から出す時、小さすぎて虫みたいに飛んでいく。

さらに、その虫みたいなダイオードの背中に、方向を示す印がついている。老眼でないぼくでも結構目が辛かった。

「熱しすぎると半田の状態が悪くなる」「熱に弱い部品もある」「コテ先は350度」

こういう情報を事前に読んでいたので、「手早くやらなきゃ」と思って、最初の4個くらいはダイオードを綺麗に付けられず、溶かして剥がしては半田をスポンジに擦り付けてやり直す、みたいな感じだった。

半田の、液体から一気に固体になる感覚はとても不思議なものだ。液状になるから、ボンドでつけるみたいにちょっとずつピンセットで位置調整しようとしてしまうのだが、途中で固まって絶対に失敗する。

でも、コツを掴んだら難しくない。仮置きした半田を溶かしたら、スッとダイオードを滑らせて、焦らず位置をちゃんと合わせる。そのあとピンセットは動かさず、コテを抜いて、カッチカチになったらピンセットを放す。これを落ち着いてやれば、まあ失敗はしない。

ただ不安なのは、うまく付けられたと思っていても実はうまく付いていなかったとか、部品を壊してしまっていた、ということだ。だから、動作テストするところまでは安心できなかった。

ネットを見ると、「反応しないキーがあって、ある装置(電圧を測ったりするやつ?)で問題のダイオードを特定し、半田付けしなおしたら無事直せたよ」みたいな記事があった。いやそんな装置は持ってない、反応しなかったら自分は絶対原因特定できないと思っていたので、全部のキーが反応したときは本当に安心した。

といっても、最初テストしたとき(ピンセットを金属に当ててチェックする)、たしかYか何かのキーが反応しなかった。あー終わった・・・と思ったのだが、よく見るとダイオードの片方しか半田付けされていないところがあって、そこをつけたらちゃんと反応した。

実は完成後、もう一箇所反応しないキーを見つけてしまった。テストの時は反応してたはずだけど・・・と思いながらネットで調べたら、「キースイッチのピンが折れていることが多い」という情報が最初に出てきた。キースイッチを抜いてみたら本当にピンが折れていて、キースイッチを取り替えたらちゃんと動いた。

それで一安心かと思ったら、何度か左親指キーの真ん中が効かなくなる時があって、今度こそ終わった・・・と思ったのだが、こちらもよく見たらソケットを片方半田付けし忘れてたみたい。多分、ソケットはちゃんと半田付けしていなくても、金属自体が基盤と接触していれば一応キーが押せてしまうんだと思う。だから反応はするけど接触不良みたいな感じになっていたみたい。

ということで、なんだかんだでキーボードはちゃんと完成させられた。

でも、物理的に完成させてもまだ全然完成じゃない。このキーボードは、どのキーで何を入力するかを自分で決められる。そもそも普通のキーボードよりキー数が少ないので、キー入力にレイヤーを作って、同じボタンにいくつかの入力を配当することになる。シフトキーで文字が変わる仕組みがより多階層になっている感じ。

この割り当てのカスタマイズ性がまたすごい。これは多分2ヶ月くらいかけてベストな配置を探っていく感じになる。

それをやりながら気づいたのだが、keyball44で入力するとUS配列キーボードの入力になってしまうみたい(ぼくのパソコン側での設定でそうしてしまっているだけかも)。

それで、JIS配列にできないのかと調べていたら、今まで全く興味がなかったのだが、US配列の方がJIS配列より記号の配置とか便利なのではと思い始めた。

それはそうと、このキーボード、ミルフィーユみたいになっていて、メカメカしくてカッコいいんだけど、ホコリとか入りまくりだなぁと思って、ケースもメルカリで買ってしまった。

自作キーボード界には、こういうそれ用のパーツを作って売っている方がいるみたい。

そういう物を買いつつ、せっかく作ったので入力の練習していたら、手首に違和感がある。やはり紹介動画で言われていたように、キーボードを斜めにするいわゆるテンティングが必要だと実感して、テンティング用の部品をまた買ってしまった。

本体24,800円、キースイッチやトラックボールなどの部品と、半田付けのために必要で買った工具類が合わせて2,6000円くらい。さらにテンティングに必要な物が合わせて1万円くらいしたから、結局6万くらいはかかっている。久々に無節操に散財している感じがある。

前に、指紋認証が使いたくてAppleのMagic Keyboardを買った時、キーボードに2万弱かかるとかアホなのかと思っていたのだが、Magic Keyboard3台買える。指紋認証ついてないのに。

でもとにかく、keyball44は楽しい。

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ドラマ『私のトナカイちゃん』

上京してからテレビを買わなかったので、しばらく見ていなかったのだが、年末年始に久々にバラエティ番組を見た(TVerにも初めて登録した)。ここのところドラマや映画を観たいという欲がかなり衰えている。代わりになったのがバラエティ番組だったのだが、1ヶ月くらい見続けていたら、それもだんだん見飽きてきた。でも何かコンテンツは観たい。

何か観たいけど、何も観たいものがない、というのは謎の現象だけど結構しんどい。

具体的に何かを観たいのではなく、「観る」という抽象的な行為が欲望の対象になっていて、でも具体的にはその欲望の中身は空っぽなので、ネットフリックス、Youtube、TVerの動画サムネイル画面を無限にスクロールするだけで30分経ち、「今の時間でアニメ1話観られたな」という焦燥感に苛まれる。

という状態で、なんとなく上の方に出てきたので何気なくクリックしたドラマが『私のトナカイちゃん』だった。なんとなく怖いコンテンツが観たくて、ちょっと不気味そうだから観てみるかという感じだったと思う。

正直、一気に視聴者を引き込む系のドラマではないと思う。途中で主人公の過去が分かってから、序盤の展開が興味深く感じられるようなドラマだった。

ぼくは1、2話時点であまり興味を持てず、もう切ってもいいかと思ったのだが、先述のようにコンテンツを探すこと自体が面倒になっていたので、特に期待せず「視聴中のコンテンツ」の中のリンクを押して、ダラダラ見続けた。

なぜ序盤で乗り切れなかったかというと、主人公の行動に全然納得感がなかったからだ。

このドラマはストーカー被害にあう男性が主人公だ。だから序盤はストーカー被害の恐怖がメインで描かれるのだが、それがイマイチ怖くない。もちろん、厄介だとか面倒だとか、自分がこの状況になったら嫌だというくらいの恐怖はあるのだが、主人公がそこまで怖がったり追い詰められているように感じられない。

実際、演出やストーリー展開としても、恐怖を全面に押し出したものにはなっていないと思う(後半の展開を考えれば、この感覚は意図通りの感覚のはず)。

主人公は全力でストーカーを遠ざけようとしていないというか、「本当に嫌だったらもっとこうするのでは?」「自分がこの状況だったらこの行動は取らないよな・・・」と思わされような行動をとり続ける。だから、いまいち主人公の感情に乗ることができず、興味を惹かれる楽しさがなかった。

ストーカーの女性も、全く話ができないというタイプではなく、一応、最低限の社会性はあるし(自分をよく見せるための嘘をついているくらいだから)、住んでいる場所や暮らしぶりも描かれるので、未知のモンスターではない。

観られないほど退屈というわけではないのだが、異常さ(コンテンツとしてのエッジ)という点ではイマイチだし、主人公に感情移入もしにくく、ストーリー序盤は面白さより退屈さが勝ってしまって、「次へ」ボタンをクリックしたい衝動は起きなかった。

ただ、ドラマが後半へ入っていくと、むしろこの序盤のダラダラした感じは狙って作られたものだったと思えるし、なるほどそういうことかと思った。

実はこの主人公は性被害を受けていて、そんな苦悩の中でストーカーに出会ったことが語られる。自分を全肯定してくれるストーカーは、厄介だけれど、同時に心の支えにもなっていた、ということが明かされる。

主人公のストーカーに対する感情はねじれたものになっていて、だから、序盤での彼の行動は視聴者にとって納得できなくても、それはあたりまえだった。

視聴者であるぼくからすると、ストーカーは単に「厄介な人物」なんだけど、主人公にとっては「厄介だけど、遠ざけたくない人物」だから、そうなっていたのか、と分かる。

ドラマの途中で「性被害はさまざまな形で人生に影響を与えます」的なテキストが挿入される。このドラマの肝はその部分だと思った。

つまり、「普通そうはしないだろう」という序盤のぼくの感想は、その「さまざまな影響」を考慮しないから生じる感想だ。

4話以降に主人公の過去エピソードを知ることによって、ぼくは、1〜3話の内容を遡って納得する。そこで退屈だった1〜3話が、興味深い内容に変わる。(アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』のことを思い出した)

ドラマ後半は、ストーカー被害も拡大していくし、主人公の状況の複雑さを前提に観ることになるので、結構面白く観られた。

(ちなみに、このドラマは実話ということになっているが、ストーカー女性側からの反論もあり、どこまでが事実なのかは分からないみたい。)

バラエティ番組を見ていると、30分で人を面白がらせるスマッシュ感を感じる。ちょうどここ数ヶ月のぼくはその感覚を求めていて、だからバラエティ番組とか、少しエグい感じのドラマや映画を探していた。正直、今もその感覚があって、『私のトナカイちゃん』は今いちばん面白く観られるタイミングではなかったなと思う。

でも、4話かけてエンジンをかけていくタイプの面白さもあるんだということを思い出させてくれた。

部屋とダウンロードフォルダと休み

ここのところ部屋の片付けが進んでいる。

ここ数年、要らない物をどうすることもできなかった。その時々でどこかに積んだり押し込んだりして、どうにかしなければ、と思いながら放置していた。

パソコンの中も同様で、ファイル分けするのがめんどくさくて、ダウンロードフォルダやデスクトップにいろんなデータが散らばっていた。

それがここ数ヶ月、タイミングを見つけてはせっせと整理を進めて、かなり部屋が片付いてきた。今、次の不燃ゴミ回収の日を待っている。

何年も放置していた物も、実際片付け始めれば1、2時間でどうにかなる物が多かった。ここ数年も、1、2時間掃除の時間を確保することは難しくなかった(ゲームで1日溶かしたりしていたし)。

ぼくはもともと物を整理するのは嫌いじゃないし、細かいタイプだったと思う。大学生の頃のぼくが、適当に積まれた書類や整理されていないデスクトップやお札の向きがバラバラな財布の中を見たら意外がるだろう。

やろうと思えばいつでも片付けられたのに、今まで全然できなかったのはなぜだろう。逆に最近、突然思い立って片付けられたのはなぜだろう。

それで気づいたのだが、ここ数ヶ月はかなり仕事が落ち着いていたからだと思い至った。

今の仕事は今年度で退職する。ここ数ヶ月は残業もほとんどない。自分がメインでやらなければいけない仕事もどんどん減って、時間もそうだが、それ以上に精神的な負担がかなり下がっている。

意識には上っていなかったけど、仕事の負担が下がった分の心の余白が、ずっとやらなければと思っていた部屋やデータの片付けに使用されたのだろう。

自分は大雑把な人間になってしまった、と思っていたけど、実際は単に片付けに割く精神的なエネルギーがなくなっていただけだったようだ。

だから、やはり細かいのが自分の本性なんだ・・・。そう思うのもちょっと難しい。

しんどかったときに、そういった細々したことすべてがどうでもよかった感覚もよく覚えているし、そのときにはそれが本当の思考や感情だった。実際、それで数年生きていたんだから、部屋なんか散らかっていてもいいじゃないかとも思う。

前に、「貧困層は合理的な判断ができず余計な出費をしてしまう」という分析を何かで読んだことがある。不合理だから貧困になってしまうのではなく、貧困であることの負担がその人の合理性を押し下げて、場当たり的に出費をしてしまうそう(出典も忘れたし事実かどうか分からない)。

これはつまり、生活をなんとか維持することに精神的エネルギーが使われてしまって、やらなければいけない何かにじっくり向き合えなくなってしまっている状況だと思う。

誰かにとっては貯金せず博打をすることが、ぼくにとっては片付けずに散らかすことだった。

ぼくの場合は、貧困ではなく仕事だったし、その負担の増減があったから、その変化による自分の思考や行動の変化を体感できた。

貧困の中で生まれて、貧困なまま死んでいく人がいたとすると、その人が、合理的な人なのか、不合理的な人なのかは分からずじまいだ。ぼくも、もっと大きな視野で見れば、ある偏った状況の中で生きているに過ぎない。

部屋を片付けられない自分が本当なのか、片付けられる自分が本当なのか分からない。

どっちが本当なのかは分からない。でも、ひとつ言えるのは、ぼくは今の職場で働いている自分が好きではない。だから、さっさと職場から帰ってきて、部屋の片付けをしている自分の方が望ましいと感じている。

もちろん、この感覚自体が、今の状況から生じたものに過ぎないとも言えるし、これは単に不快をさけ快楽に近づこうとする動物的な行動に過ぎないと思う。

でも、合理的になるためには不快を減らす必要がある。合理性が生産性につながるのだと考えれば、不快な仕事をするのは貧困のもとだ。

ドラマ『サンクチュアリ』と学びの話

年末年始にネットフリックスでドラマ『サンクチュアリ』を観た。

ビジュアルからもっとドロドロしたストーリーかと思っていたら、比較的王道なヤンキー漫画っぽい内容だった。主人公も空気を読まない以外は素直で不器用な良い奴で、ヤバい奴かと思わせたライバル役も普通に家族思いの、相撲に真剣な奴だった。

金のために相撲を始めた主人公が、次第に相撲にのめり込み、相撲自体が目的化していく内容で、個人的には好きなパターンなので面白かった。

1番の面白さは、やっぱり題材が相撲というところだと思った。力士の身体の凄さ、取組の迫力がよく伝わってきて、これはたしかに、普通のスポーツとは違う、神事的なすごい闘いだという説得力があった。それがあるからこそ主人公の破天荒さも際立つし、気持ちいいし、でも最後真剣になる主人公の心情にも共感できた。

そんなド迫力と裏表で、いわゆる不合理な教育や文化が描かれる。そこをナビゲートする役として帰国子女の国嶋が一般人代表として登場する。

指導の不合理さの中に暴力がある。これに関しては、そもそも相撲(というか格闘技)自体が暴力をはらむものなので、その訓練の中に暴力が含まれていても、比較的ドン引きを避けられていると感じた。

たとえば、野球の指導であの暴力が起きたら、どれだけストーリー上で説明や弁明があっても、普通についていけないと思う。

個人的にもっと重要だと思ったのは、指導のコミュニケーション不足だ。なぜこの訓練が必要なのか、どんな効果があるのか、ほとんど説明されないまま、「とにかくやれ」という指導がなされる。主人公も「意味ないだろ」と文句を言いまくっている。

これについては、相撲が題材だという事に関係なく、「もっとちゃんと説明すればよいのでは」と思わないでもない。

ただ、個人的に、この不合理性には実は合理性があるのではないかと感じた。

ここからはドラマの感想ではなく、ぼくの個人的な意見なのだが、細かく説明せず「見て学べ」という不合理さは、たしかに教育方法としては不合理なのだが、そもそも「そいつが教育するに足る人間かどうか」を選別する意味では合理的なんじゃないかと思っている。

ぼくは今、学校で働いている。そこで、生徒に何かを教える機会がときどきある。そういう経験からそう思うようになった。

何もわからない状態で「教えてくれ」と言ってくる人には、どれだけ丁寧に教えても身につかない感覚がある。一方で、自分なりに試行錯誤した上で「ここがうまくできないから教えてくれ」と言ってくる人は、最低限のアドバイスだけで全てが伝わる。

労力がかかる割に伸びない人間と、最低限の労力だけで大きく成長する人間を選別する場合、自分で勝手に見て学べるタイプかどうか、で線引きをするのは、教える側からするとかなり合理的である。

可能性が低いのに時間ばかり取られる人を教えていたら、せっかく伸びるはずの人に向き合う時間が少なくなってしまう。

そのときに、「とにかくやれ」「見て学べ」と言って、相手の反応を見るのは比較的うまいやり方なのではと思う。

もちろん、いわゆる「学校」では、どんな生徒にもちゃんと教えないといけない。学費を払っているし、生徒にはその権利があると思う。

でも、そういう権利があることと、その人が成長するかどうかはまったく別である。ただ教育を受けたいだけならお金を払って丁寧に教えて貰えばいいが、成長したいなら自分の頭と体を使わないといけない。

教えてもらう権利が人を成長させるわけではない。

だから、実は教えられる側からしても、この不合理な指導のウザさは、自分が本当にそれをやりたいかどうか考えるきっかけとしては、合理的な意味があるかもしれない。

今の日本では、なんとなく小中高大学と進学していってしまう。学ぶ意志がないのに学校に来るのは本当に非効率な時間の使い方だと思う。よくサボったりズルしたりする人がいるのだが、だったら最初から学校にこないでバイトでもして遊んだらいいのに、と思う。

本当に学びたいというタイミングが来た時に学校に来ればいいだろ、と。嫌味ではなくて、本当にそう思うことがしょっちゅうある。

優しくて丁寧な指導は居心地がいい。その居心地の良さが、その人の本当の思考や意志の確認をさせない要因になって、その人の成長を遠回しに阻んでいるかもしれないと感じることも多い。

もちろん、厳しさが絶対に正しいとも思わないし、こんなの個人や状況でケースバイケースに決まっている。

でも少なくとも、「不合理だ」といって切り捨てられるほどシンプルじゃないと思った。

HTMLに原点回帰

なんとなく、文章を書く場所が欲しいと思うことがよくある。

面白い映画を見たときとか、本を読んだ時、創作活動をしていて感じたことを、てきとーに書ける場所があるといい。今はSNSとかブログサービスが豊富にあるから、そういう場所を使うのが一般的だと思う。

ぼくもそういうサービスは一通り使ったことがある。はてなブログ、Wordpress、note、Twitter、今はもうなくなってしまったサービス。公開しない前提なら、手書きのノート、Googleドキュメント、Apple純正のメモ、Goodnotes、Evernote、Notionなどなど、そういうツールも使ってきたけど、ここ2、3年は文章を書かなくなっていた。

書く習慣は、ほとんどイコール考える習慣だったみたいだ。文章を書かないと、ぼんやり頭の中で考えられる量しか考えなくなる。前に考えたことも覚えてないから、考える軸がなくなっている。本当になにもちゃんと考えられてないかも・・・。最近そういう実感が湧いてきて、やっぱりどこかに自分が文章を書く場所を作ろうと思った。

書く場所を決めるにあたって、過去の経験から、いくつか必要な条件があった。

公開できる。アーカイブしやすい。継続しやすい。ぼくが死ぬまで使えそう。

これら全部を満たせそうなものをいろいろ考えて、もはやめちゃくちゃ簡素なHTMLを組んで、それを公開するのが1番いいという結論に至った。

「公開できる」と「継続しやすい」は、ぼくの中では結構つながっている。

考えるために書くだけなら、テキストファイルとか、ノートにでも書いていればいい。実際、iPhoneのメモも使っているし、手書きのノートも使っている。でも、なぜか自分しか読まないところに書いていると、一定以上の深さで考えて書けない。自己ツッコミが弱くなるというか、書き手も読者も自分だと、論理や説明がおざなりになる。

だから、「誰かに読まれるかもしれない」という緊張感がぼくには必要みたいだ。

だったら、SNSとかブログの方がいいだろうと思うのだが、経験上そういう場所だと、だんだんとリアクションを気にする気持ちが大きくなり、それが嫌になってやめてしまう。これはどんなに「反応は気にしない」と自分に言い聞かせても無理だったので、「継続しやすい」を考えると、リアクションや通知やアクセス数、インプレッション数が見られてしまう場所は条件を満たさない。

そういう意味で、ウェブサーバーに上げれば公開可能だが、そもそもリアクションボタンがなく、アクセス解析をつけなければアクセス数も分からない、こういう原始的なHTMLサイトは最適かもしれないと思った。

また、HTMLはアーカイブのしやすさと、ぼくの寿命を超えて使えそうな点でも条件を満たしている。

以前にWordpressで作ったブログサイトを閉じる時、どうにか見やすい形でローカルにデータを移したいと思ったのだが、結構めんどうだった。無理ではないけど、厄介だった。そういうサービスを使ってしまうと、素人の自分からは見えない部分が大きくなってしまう。

その点HTMLサイトは自分のパソコンにあるファイルとサーバーに上がっているファイルは同じ物だし、自分で把握していないファイルがない。また、ブラウザを使えばウェブ上のファイルも、自分のパソコンにあるファイルも同じ表示で簡単に開くことができる。

また、HTMLという仕様と、それを見るためのブラウザというアプリケーションは、個別のアプリやサービス、SNSより寿命が長いだろう。少なくとも、消えてしまう不安が1番小さい。

そんなこんなで、今この文章はVSCodeというアプリ(このアプリが終了しても、テキストエディタアプリは存在するだろう)を使って、ベタ打ちしている。そして、Cyberduckというアプリ(このアプリがなくなっても、FTPアプリは存在するだろう)を使ってサーバーにアップロードし、Google Chromeというブラウザ(このアプリが…)で表示している。

書いた文章はいちいちPタグで括らないといけないし、目次部分のリンクも毎回書き足さないといけなくてめんどうだ。アプリやブラウザ上で全てが完了し、投稿したら瞬時にリンクが張り巡らされる時代に、不便極まりない。

だけど、変に心煩わされるよりシンプルでいいなと、今は感じている。

まあ、またすぐ飽きてやめるかもしれないけど。

今年は漫画家になる年

今日は2025年1月1日。一人暮らしで誰にも会わない人間にとってはただの連休の中の1日でしかない。その上で、今年は漫画家になる年になりたいというのもあって、こういうサイトを立ち上げてみた。

4年契約でやっていた仕事が今年度で終わる。だから4月からは無職。無職の期間がどれくらい続くのかは分からないけど(できればすぐ終わってほしいけど)、次は漫画家になる。

ひらめきマンガ教室に通ったのが2020年9月からで、21年8月に終わった。今の仕事は2021年4月から始まったから、マンガ教室の最終講評会は、今の仕事に少し慣れ始めた頃だった。その頃は絶対に漫画家になろうと思っていたわけでもなく、今の仕事の延長で働き続けるかもしれないとも思っていた。漫画は描き続けるつもりだったけど、本業になるか副業になるかはまだ未定だった。

最終講評会で声をかけてくれた編集さんに「2025年までは仕事があるから、本格的に描き始められるのはその年からになると思います・・・」といったら「え、2025年ってめっちゃ先じゃん!」と驚かれたような呆れられたような記憶がある。「仕事しながらで描けるように頑張ってみよう」と励ましてくれたし、自分もそのときはそのつもりだったけど、この3年半、ほぼ漫画は描けず、その「めっちゃ先」の2025年になってしまった。

持ち込みもしていないし、投稿もしていないし、外から見える活動は何もしていない。でも、何もしていなかったわけではなく、何を描くべきか、何を描きたいか考え続けてはいたし、アイデアを出したり、ネームを描いたり、いろいろもがいてはいて、今1本読み切りを描いている。だからわりと前向きな気持ちではある。

この3年半、休みや仕事終わりにちょこちょこしかやれなかったことを、今年の4月からはフルでできると考えると、気分が良いばかりで、無職になる不安がほとんどない。大丈夫かと思う気持ちも少しはあるが大丈夫だという気持ちの方が大きい。

とにかく今年は、漫画家になる年になりたい。