悪口を言っている人間が嫌いなのに、気づけば自分も悪口を言っていた。むしろ悪口を言いながら生きていた方が得なのではないかとすら考えてしまっている。
長年の自分の価値観が揺らいでしまい、不安な(不安定な)状態が続いて精神的にしんどかったので、そのことについてじっくり考えてみた。
結論としては、ぼくは今までの生き方のままでいいやと思っている。正しいか間違っているか、損か得か、ではなく、自分がどういう人間に成りたいか、から結論をだした。
そもそも、ぼくはなぜ悪口が嫌いなのか。嫌いというか、誰かが話す悪口に対してずっと違和感があって、そこに乗り切れない。乗り切れないから気まずくなるし、楽しくないから、自然とそういう人から離れる。
誰かが悪口を言っている時、ぼくが感じている違和感を改めて見つめ直してみると、そこには「不正確さ」と「政治性」と「甘え」があると気づいた。
悪口をよく言う人は、それほど慎重に事態を把握していない、と感じることが多い。そこには強いバイアスがかかっていて、対象が悪いと主張するための情報が過剰に語られ、それを覆すような情報は無視される。どんな出来事もそれほど単純なはずがないのに、それを単純化して堂々と「悪い」断言していることに不正確さを感じる。
なぜ悪口を言う人は、自分がそんな不正確なことを言うことを許容できるんだろう、と考えてみたときに、悪口が好きなタイプの人は、ぼくとは全く違う欲望を持っているんだろうと思った。
人間は、「真実が知りたい人間」と「勝ちたい人間」のふたつに分けられるんじゃないか。
悪口が好きな人は、「勝ちたい」んだと思う。勝てるなら事実はどうでもいい。とまで言わなくても、会話している相手に納得してもらえる程度の事実があれば、それでよいと考えているように見える。
最初から結論が決まっていて(その結論は、ある出来事が生じた時の直感的な不快感や嫌悪感から直接引き出されていると思う)、その結論を正当化するための情報だけを集めてくるし、その情報を最大化するように語られる。これは不正確さを意図的に使った政治だ。つまり、自分を不快にさせる「敵」に勝つために語られるのが悪口だと思う。
不快な者を攻撃するのは許されていいんだろうか。そうは思えない。なぜならそれを不快だと感じている自分のほうがおかしいという可能性がいつだってあるから。そういう慎重さがなければ、世界にある差別は全部正当化されてしまう。
でも、悪口を言う人は、そういう自分の言動を許している。自分が不快だと思ったものを敵認定し、自分に都合よく攻撃してもいいという風に振る舞っている。それは、その人のその人自身に対する甘えだと思う。
自分はすでに正しい人間であり、そんな自分を不快にさせた出来事は間違っているに決まっている。だから攻撃して潰してもいい。そういう傲慢さを感じる。この傲慢さの正体は、もう自分はこれ以上成長したり変化したりする必要がないという甘えだと思う。
いや、これは単なる甘えではないかもしれない。ということに、自分が他人の悪口を発してしまうようになってから思い至った(詳しくは昨日書いた)。
悪口は、自分の価値が傷つけられる不安や恐怖から生じた。自分に降りかかってきた攻撃を無化すために、発生するのが悪口のようだった。
たしかに誰しも傷つきたくはない。ぼくも傷つきを受け入れられなかった。でも、傷は同時に成長や変化のきっかけでもあるわけだから、実は、傷つかないようにするのは成長しないようにすることと同義だ。
そう考えると、傷つく余裕がある時は適度に傷ついておいた方がいい。
ぼくは仕事のミスをなすりつけられたことがある。明らかな相手のミス(ある仕事を忘れていた)を、ぼくが伝え忘れていたことにされた。これはかなり無理のある主張だったので、ぼく以外の人もさすがにそれはないだろうということになっていたと思うし、ぼくもその瞬間はかなりイラついたけど、わりとすぐどうでもよくなった。
その相手は嘘をついたわけではなく、「自分はミスをしていない」と信じるために、自分がミスをしたのかもしれないという可能性は考えず、消去法でぼくがミスをしたことにしたんだろう。
でも、なぜその人はそのミスを認められなかったのか。別に大したことじゃなかった。「あ、忘れてました、すみません」で済むような話だった。
多分、その人は自分に自信がなかったんだと思う。というか、周囲が自分の能力を低く見ているという不安があったんだと思う。実際はそんなことはないのだが、悪口まみれの職場で働いてたらそうなるのは理解できる。
そんな不安がある中で、その人は、それ以上、傷を増やせない状況だったんだと思う。
そう考えると、悪口を言う人は、自分に自信がないから傷を回避するために悪口を言うが、そうやって傷を回避しているから成長できず、成長できないから自信もつかず、だからまた傷が受け入れられない、という悪循環に陥っていると思えてしかたがない。
成長できなくても、自分の所属しているグループの中で有利に立ち回れるのであればそれでよい、という考え方もあると思う。お山の大将で心地よく生きればよい。これが「勝ちたい人」の生き方なのかもしれない。
ぼくは、そういう風にはなりたくない。例えば、自分の周りにいる人がみんなぼくのことを肯定してくれても、ぼくは「そんなわけない」と思って居心地が悪い。そんな単純なわけがない。ぼくは尊敬されるより理解されたい。ぼくには悪いところも弱いところ醜いところもたくさんあるから、本当に理解されたら全肯定されることなんてありえない。そんな嘘の関係は全然心地よくない。
脳内で悪口が止まらなかった時、ぼくは傲慢になっていた。自分は悪くない、自分は優秀だという前提で他人を攻撃していた。ぼくも疲れていて、それ以上傷を増やせなかった。
でも同時に、この思考は単純すぎて嘘っぽいとも感じていたし、そういう風に考えている自分が全然好きじゃなかった。
悪口を言うのはやっぱりやめておこうと思った。立場が悪くなっても、事実を知る努力をしようと思ったし、自分はそれでいいと納得した。
いろいろ考えたので、悪口を言わないことが正しいとか、悪口を言わない方が得だとか言うことはできると思うけど、最終的には単純に、ぼくは悪口を言って安心したり心地よくなったりする感性を持っていないんだから、その方向でうまく生きるのは無理だと思った。
今は治ったのだが、2、3日前、何をしていても職場であった嫌なことを思い出してしまい、イライラとモヤモヤが続いて、やろうとしていることに集中できない状態になってしまった。
妄想や空想に耽ってしまったり、早くあれがやりたいなぁとか、あれを買ったらこういう風に使えるなぁとか、そういう思考でぼーっとしてしまうことは子供の頃から癖みたいになっている(マインドワンダリングと言ったりもするらしい)。
それによってやるべきことができなくなるので、どうにかしたいと思って、メタ認知とか、先延ばしにしないメソッドとか、いろいろ調べたり試したりしている。うまく回避できる時もあるのだが、咳や鼻水みたいなもんで、意志ではどうにもならないときもあるなぁ、というのが今の認識である。
ただ、誰かを非難する気持ちが止まないとか、脳内で悪口を言いまくってしまうのは明らかに今の職場で働き始めて、ここ1、2年で発症した症状だ。
ぼくはこれまでの人生で、周囲の人に悪い感情を強く持ったことがなかった。だから、自分はそういう性格なんだと思っていたけど、実際は、自分が悪意を抱くような人間とは関わらないように生きてきた(生きてこられた)だけだったんだと今は思う。
今の職場は空間的にも人間関係的にも狭くて、仕事をしていると否応なくそこの人間関係に巻き込まれる。正直言って、そこで働いている人たちと仲良くなりたいと思ったことはない。性格悪いな、と思ってしまう人が揃っているというか、性格の悪い人ほど発言力があり、そういう空気ができてしまっているので、その集団に関わりたくない、という方が正確かもしれない。
仕事の嫌なことはいろいろあるのだが、脳内で反芻してイライラしてしまうことを整理してみると、自分の評価に関わるような出来事が原因だと分かった。理不尽な仕事の組まれ方をして大変だったとかは、その時「ふざけんなよ」と思った記憶はあるけど、思い出してイライラすることはない。
評価に関わるような出来事というのは、例えば手柄を横取りされたとか、自分のした仕事を否定されたりとか、ちゃんとやったことをやってないみたいに吹聴されたりとか、そういうことだ。明らかに悪意の被害を受けている時もあるし、勘違いされているときもある。実際ぼくのミスだったと思う時もある。ぼくが職場のおしゃべりに参加しないこともあって、都合よく言われてんなぁ、と思うことがよくある。反論したい気持ちもあるのだが、この人たちと喋るくらいならもうそういうことでいいや、という諦めの気持ちの方が強い。
その場その場では諦めていても、やっぱりモヤモヤはしているから、数日前みたいに、急に脳内をそういう記憶が走り回って、ぼくの生活を妨害してくる。ここ1、2年で時々こういうことが起こるようになった。
そういう記憶に対して、「どいつもこいつも馬鹿ばっかり」とか「人としてのレベルが低すぎる」とか「お前が仕事できないのをこっちのせいにすんな」とか、相手を非難する言葉が噴出しているのに気づく。
ぼくは本気の悪口を言うことはない。いや、なかった。むしろ悪口を話している人を見下していると思う。そんな自分が、(口には出さないとはいえ)他人の悪口を言っている。それが意外だった。
同時に、少しだけ、悪口をいう人の気持ちが分かるような気もした。
ぼくの感情をかき乱すのは、ぼくの評価を下げるような出来事の記憶だ。そのときに、ぼくはその出来事に関わっている人の悪口を言っている。
それで気づいた。この悪口は防衛反応なんだ。ぼくの評価を下げる誰か。その誰かの評価を下げる(馬鹿、レベルが低い、仕事ができない)ことによって、自分が食らった攻撃の傷を相対的に減らそうとしているんだろうと思った。
そう考えると、日々悪口ばかり言っている人は、常になんか傷ついている(傷つけられている)んだろう。
その上で、だからそれでしょうがないとも思わない。やはり、悪口ばかり言ってる奴はクソだと思うし、仲良くする気にはならない。
でも、さらにその上で、今の職場で働いていると、もっと性格が悪くて、想像力がなくて、矛盾した思考で平気で他人を傷つけられる人間になった方が、得なんじゃないかという思いが頭をかすめる。
もっとズルく立ち回れなかった自分が馬鹿みたいに思える。
そういう奴がでかい顔をしている職場で働いていると、本当に惨めな気持ちになる。慎重に考えたり、相手の気持ちを慮ったり、正確なことを言おうとする努力に何の意味があるんだろう、という気持ちになる。
なんだかただの愚痴になってきたので、今日はここで終わる。これは書きたかった話ではない。
でも、書きたい話の前提になるから一応残しておく。
エンタメ作品を観る場合、ぼくは比較的一般的な感覚を持っていると思う。ヒットしている作品は大体面白いと感じる。
でももちろん、すごく評価が高いけど、自分はイマイチ楽しめなかったなという作品もある(誰でもそういう作品はあると思う)。『ストレンジャー・シングス』はぼくにとってそういうドラマだった。といっても、シーズン1しか観てないので、2以降を観れば意見は変わるかもしれない。
こういう作品に出会うと、自分はどこで楽しさから離脱してしまったんだろうかと考える。
これの前に『私のトナカイちゃん』というドラマを観た。こちらはグッと惹き込まれる感じではなかったけど、観続けていると中盤から面白さ立ち上がってくる印象だった。
『ストレンジャー・シングス』は逆で、1話ですごく惹き込まれたのだが、だんだん白けていってしまったという感想だ。
素人の文句にすぎないけど、「なんかこのへんで乗り切れなかったなぁ」という点を考えてみると概ねこの3つだ。
・物理的にも目的意識としても悪役が弱い
・エルと怪物の関係性があるようでない(超常現象についてはシーズン1では説明されない)
・子供が無茶していること自体に乗れなくなっている
シーズン1の最後でも言い訳がされているように、出来事のいろいろなことが説明されないままストーリーが進んでいく。ぼくが「シーズン2以降を観たら印象が変わるかもしれない」と感じるのは、この言い訳のせいではある。
とはいえ、ぼくは設定の整合性にはあまり頓着しない方なので、白けてしまったのは、その設定の不明解さ自体のせいではない。そうではなくて、それによってドラマ(キャラクターたちの感情)に乗り切れなくなったのが問題だった。
その中でも1番問題として大きいと感じたのは、悪役の弱さだ。
捜査を妨害したり、邪魔者を殺したり、偽装工作をしたり、そういう点ではかなり大きな力を持っているように描かれている。しかし、自転車で逃げる子供を捕まえられないし、1番真実に迫っている署長のことは野放しだし、死体の隠蔽に綿人形を使っている(!)。
また、怪物を倒すためにエルを利用しているという設定なのだが(それがエルが追われる理由になっている)、終盤で高校生が怪物を誘き出して攻撃し、ダメージを与える場面が描かれることで、あれだけ巨大な組織のわりに、やってることが高校生以下であるように感じられる。
向こうの世界には誰でも入れるし、怪物にはそれなりに物理ダメージが効くし、こちらの世界に誘き出すこともできる。だとすれば、あんな大掛かりな装置まで作って手をこまねいている悪役は相当アホなんじゃないか、という印象を受けてしまう。
繰り返しになるけど、ぼくはこの辺の設定がゆるいこと自体で白けているのではない。
このドラマを支える設定として「悪役が怖いこと」「怪物が強いこと」は重要だ。じゃないと少年たちや署長の頑張りが空回りしてしまうし、怪物を怖がっているエルの気持ちにも乗り切れない。バンバン人員がエルに殺されながらも、組織がエルにこだわることにも納得できない。(エルに殺された人数全員で怪物退治に行った方が良かったのではと思ってしまう)
だから、組織の全体像が見えないことや怪物や異世界の設定が分からないことは、ぼくはそれほど気にならないのだが、悪役が弱そう・間抜けそうに見えることで、どうしても白けてしまう。
あと、設定が不明解でもいいとはいえ、やっぱり、エルと怪物の関係性は分かりたかった。というのも、エルと怪物は 表裏一体な関係に見える。だからこそ、組織はエルに執着しているように見える。
ラストでも、エルは怪物に言葉をかけながら怪物を殺し、エル自体も消滅する。この2人は何か特別な関係があったんだろうと思わせるのだが、そこにも特に説明はない。ここはちゃんと説明がほしかった。というか、ここが説明されているだけでかなりいろいろなことに納得できたと思う。
ここが分かれば絶対もっと面白かったのに・・・という歯がゆい部分である。結局めちゃ強い超能力少女だからエルは追われている、というだけになってしまった感がある。そうなると父親との微妙な関係(エル本人には優しいが残酷な任務を与えている)も、単に理解不能な 関係性になってしまう。
「エルでなければならない」という設定だけはちゃんと伝える必要があったのではないか。
それから、これは完全にぼくの問題なのだが、子供だけで何かをやろうとしている場面でワクワクより心配が勝るようになってしまっている。「やめとけ」「大人を呼べ」という気持ちになってしまい、そういう場面が勇敢で感動的に描かれていること自体に違和感を感じてしまった。
これに関しては完全に、ぼくがターゲットではないということでしかないので、ドラマ自体への感想というより、ドラマを観た自分に対する感想である。
そもそも悪役が間抜けなのも、「子供がギリギリ立ち向かえそうな大人の悪役」というチューニングにしたからである可能性が高い。だから、本当にこれはぼくの「外野からの文句」でしかないと思う。
あと、これも好みの問題でしかないし、これによって白けたという話ではないけれど、このドラマは確実にあえて王道から外している点がある。
1番分かりやすいのは、最後にヒロインが彼氏とよりを戻す展開である。どう考えてもヒロインは根暗お兄ちゃんと結ばれるのが王道(視聴者の多くが期待すること)だ。でも、あえてそこは裏切っている。後味が悪くなりすぎないように、終盤に彼氏が反省してヒロインのために頑張るシーンを描いている。ここに関しては、明らかな嫌われ役にこそセカンドチャンスをあげようという意図なのかなと思って、ぼくはわりと納得できた。
問題は、ヒロインの善い友達があっさり死んだ方である。彼女は最後実は生きてました、という展開を期待したし、せめて、生きるか死ぬかでもうちょっと粘らせてほしかった。異世界の怖いビジュアルを見せるためにあっさり葬られてて、どうなんだろう。ダサい女友達は死ねということか。そこが後味悪かった。
そういえば、エルを保護してくれたオジサンもサクッと殺されていた。あれはこのドラマの厳しさ(組織のヤバさ)を印象付ける展開だったと思う。でも、その後、悪役が弱そうなので、違和感がより際立つ。それと連関して感じるが、エルがバンバン人を殺しているのも若干ひく。そういうところで、善悪や恐怖感のバランスの悪さを感じてしまう。
という感じでぼくはあまり楽しめなかったが、評価されるだけの質の高いドラマであることは間違いない。というか、そういう前提なのであえて良い点は考えなくてもいいかという気持ちがある。
個人的に1番好きなのは、狂人だと思われても息子を探し続ける母親と、真実を知った署長に「君が正しかった」と母親が言われた展開をきっかけに、それまでバラバラに真相に迫っていた家族・署長・友達が合流して解決に向かって動き出す流れは良かった。大人が加わったことでようやくワクワクできた。
あと、そもそも80年代を舞台にした世界観やビジュアル、オタクの友達関係、世界に裏表があるという設定自体も、すべて面白かった。だからこそ、序盤でグッと惹き込まれた。
逆にいえば、どれだけ世界に惹き込まれても、人間ドラマで白けてしまうと観続けるのは難しいんだなと思った。
ちょっと前に電動昇降デスクのFlexispot E7という物を買った。
昇降デスクに興味があったわけではない。
3年前に買って使っていたテーブル(高さ72cm)がちょっと高く感じていた。低い物を書い直そうと思ったのだが、70cmを買えばいいのか、69cmを買えばいいのか、71cmなのか、分からない。そもそも好みのデザインでその高さの物が売っているとも限らない。
そのテーブルも気に入ってはいたので、木工屋さんで足だけ切ってもらおうと思った。ただ、いちいち足を外して、徒歩で持っていって、また戻すのは面倒くさい。それに結局何センチ切ればいいんだ。5mm刻みでベストを探すか。それは本当に面倒くさい。それに68cmくらいまで切り進めて、「いや低すぎる」となったら悲惨すぎる。
ということで、ここ3年「ちょっと高いんだよなぁ」と思いながらも、どうすることもできずにいた。
去年の10月に思い立って昇降デスクをかった。電動昇降デスクを買えばベストな高さを探れる。それが分かったらもうそれでいい。昇降デスクを捨てて、その高さのテーブルを買い直してもいい。それくらいの気持ちで電動昇降デスクを買った。悩むのが面倒くさかった
そのときに昇降デスクについていろいろ調べたからか、ぼくのYoutubeにデスク環境系の動画がよく流れてくるようになった。
昇降デスクに取り付ける収納用品、モニターアーム、ディスプレイなどなどの紹介動画の中、流れてきたのがkeyballという自作キーボードを激推しする動画だった。
サムネイルをパッと観た瞬間に、キーボードとトラックボールが一体化されたデバイスなんだということは分かった。
キーボード沼に落ちる気はなかったが、これはたしかにめちゃくちゃ便利そうだと直感的に思った。とはいえ、そこそこ値段もするし、自分で半田付けしなければいけないことは紹介動画を見て分かったので、「いやさすがに買わないよなぁ」と思っていたのだが、それから1週間後くらいには本体と、半田付け用品一式を注文し届くのを待っていた。
値段の高さはネックではあったが、便利なデバイスを使えることに加え、プラモデルの楽しさが含まれていると考えれば、まあ納得できた。
keyball44と、組み立てるために買った商品が届いた。一度開封し、部品が全部あるかを数えたが、組み立てる時間がなかった。
ご飯を食べながら、Youtubeで半田付け初心者向けの解説動画を見たり、keyball44の組み立て動画を見たりして、イメトレをしながら2週間が過ぎた。
それでようやく、今週組み立てる時間ができたので、なんとかかんとか完成させた。
半田付け用品は、keyball44を買った遊舎工房のキットを参考に自分で必要な物をamazonでまとめて買った(持ってる物もあったので)。全くの初心者なので、とにかくキットにあった物を揃えたのだが、「これ本当に必要なのか・・・?」と思っていた。
注文した時は半田付け解説動画を見る前だったので、フラックスとか、半田吸収線とか、何に使う物かも分からなかったし、半田ゴテだけあれば、台は別に必要ないのでは(別売りなので)・・・とか思っていた。
結果から言うと、意外と全部使った。
まず半田ゴテの台は絶対あった方がいい。台と言うか、スポンジとタワシみたいなのが大事。半田は意外とコテ先につくし、ついているとうまく半田を流すのが難しい。あと、マニュアルとか、動画とか確認しながら作っていると、長時間半田ゴテを置きっぱにする時間も出るので、安全のためにも台はあってよかった。
フラックスも、記事によっては「必ずしも必要ない」と書かれていた。というのもヤニ入りの半田ならあえてフラックスを使う必要はないから。「なんだ買わなくてもよかったのか・・・」と思ったのだが、このフラックスは大活躍した。
たしかに、手早くミスなく半田付けできるのであればフラックスはいらない。でもぼくは初心者なので、半田を温めすぎたり、量が多すぎたり、コテに溜まってうまく基盤に流せなかったり、ミスが多かった。その時に、フラックスをちょんちょんと塗ってしまえば、そのくらいのミスはリカバリーできた。あと、先に盛った半田を溶かしながらダイオードを留める時、フラックスを塗っておいた方が落ち着いて作業できた
同じ理由で半田吸収線も1回だけ使った。手元がくるって変なところに半田を乗せてしまったとき、解説動画で吸収線を使っていたのを思い出して、真似してやったら綺麗に半田が取れた(あまりにも綺麗に取れたのでちょっと感動した)。でも、よく分からず吸収線の銅線部分をつまんで作業したので指先が焦げるところだった。
そんなこんなで、実は無駄な物は買っておらず、買い物は成功していた。
実際の組み立てについて、ネットを見回すと「半田付けは意外と大したことないから、興味があるなら臆せずやってみよう」という意見が多い気がした。
感想としては、たしかに大したことないが、初っ端はかなり難しいと感じた。
というのも、最初にダイオードという部品をつけるのだが、これが本当に小さい。動画で小ささは見ていたし、部品チェックの時にも見ていたが、実際にピンセットで作業する段になると、もう本当に小さい。
人生でこれより小さい何かを「部品」として取り扱ったことはないと思う。入れ物から出す時、小さすぎて虫みたいに飛んでいく。
さらに、その虫みたいなダイオードの背中に、方向を示す印がついている。老眼でないぼくでも結構目が辛かった。
「熱しすぎると半田の状態が悪くなる」「熱に弱い部品もある」「コテ先は350度」
こういう情報を事前に読んでいたので、「手早くやらなきゃ」と思って、最初の4個くらいはダイオードを綺麗に付けられず、溶かして剥がしては半田をスポンジに擦り付けてやり直す、みたいな感じだった。
半田の、液体から一気に固体になる感覚はとても不思議なものだ。液状になるから、ボンドでつけるみたいにちょっとずつピンセットで位置調整しようとしてしまうのだが、途中で固まって絶対に失敗する。
でも、コツを掴んだら難しくない。仮置きした半田を溶かしたら、スッとダイオードを滑らせて、焦らず位置をちゃんと合わせる。そのあとピンセットは動かさず、コテを抜いて、カッチカチになったらピンセットを放す。これを落ち着いてやれば、まあ失敗はしない。
ただ不安なのは、うまく付けられたと思っていても実はうまく付いていなかったとか、部品を壊してしまっていた、ということだ。だから、動作テストするところまでは安心できなかった。
ネットを見ると、「反応しないキーがあって、ある装置(電圧を測ったりするやつ?)で問題のダイオードを特定し、半田付けしなおしたら無事直せたよ」みたいな記事があった。いやそんな装置は持ってない、反応しなかったら自分は絶対原因特定できないと思っていたので、全部のキーが反応したときは本当に安心した。
といっても、最初テストしたとき(ピンセットを金属に当ててチェックする)、たしかYか何かのキーが反応しなかった。あー終わった・・・と思ったのだが、よく見るとダイオードの片方しか半田付けされていないところがあって、そこをつけたらちゃんと反応した。
実は完成後、もう一箇所反応しないキーを見つけてしまった。テストの時は反応してたはずだけど・・・と思いながらネットで調べたら、「キースイッチのピンが折れていることが多い」という情報が最初に出てきた。キースイッチを抜いてみたら本当にピンが折れていて、キースイッチを取り替えたらちゃんと動いた。
それで一安心かと思ったら、何度か左親指キーの真ん中が効かなくなる時があって、今度こそ終わった・・・と思ったのだが、こちらもよく見たらソケットを片方半田付けし忘れてたみたい。多分、ソケットはちゃんと半田付けしていなくても、金属自体が基盤と接触していれば一応キーが押せてしまうんだと思う。だから反応はするけど接触不良みたいな感じになっていたみたい。
ということで、なんだかんだでキーボードはちゃんと完成させられた。
でも、物理的に完成させてもまだ全然完成じゃない。このキーボードは、どのキーで何を入力するかを自分で決められる。そもそも普通のキーボードよりキー数が少ないので、キー入力にレイヤーを作って、同じボタンにいくつかの入力を配当することになる。シフトキーで文字が変わる仕組みがより多階層になっている感じ。
この割り当てのカスタマイズ性がまたすごい。これは多分2ヶ月くらいかけてベストな配置を探っていく感じになる。
それをやりながら気づいたのだが、keyball44で入力するとUS配列キーボードの入力になってしまうみたい(ぼくのパソコン側での設定でそうしてしまっているだけかも)。
それで、JIS配列にできないのかと調べていたら、今まで全く興味がなかったのだが、US配列の方がJIS配列より記号の配置とか便利なのではと思い始めた。
それはそうと、このキーボード、ミルフィーユみたいになっていて、メカメカしくてカッコいいんだけど、ホコリとか入りまくりだなぁと思って、ケースもメルカリで買ってしまった。
自作キーボード界には、こういうそれ用のパーツを作って売っている方がいるみたい。
そういう物を買いつつ、せっかく作ったので入力の練習していたら、手首に違和感がある。やはり紹介動画で言われていたように、キーボードを斜めにするいわゆるテンティングが必要だと実感して、テンティング用の部品をまた買ってしまった。
本体24,800円、キースイッチやトラックボールなどの部品と、半田付けのために必要で買った工具類が合わせて2,6000円くらい。さらにテンティングに必要な物が合わせて1万円くらいしたから、結局6万くらいはかかっている。久々に無節操に散財している感じがある。
前に、指紋認証が使いたくてAppleのMagic Keyboardを買った時、キーボードに2万弱かかるとかアホなのかと思っていたのだが、Magic Keyboard3台買える。指紋認証ついてないのに。
でもとにかく、keyball44は楽しい。
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上京してからテレビを買わなかったので、しばらく見ていなかったのだが、年末年始に久々にバラエティ番組を見た(TVerにも初めて登録した)。ここのところドラマや映画を観たいという欲がかなり衰えている。代わりになったのがバラエティ番組だったのだが、1ヶ月くらい見続けていたら、それもだんだん見飽きてきた。でも何かコンテンツは観たい。
何か観たいけど、何も観たいものがない、というのは謎の現象だけど結構しんどい。
具体的に何かを観たいのではなく、「観る」という抽象的な行為が欲望の対象になっていて、でも具体的にはその欲望の中身は空っぽなので、ネットフリックス、Youtube、TVerの動画サムネイル画面を無限にスクロールするだけで30分経ち、「今の時間でアニメ1話観られたな」という焦燥感に苛まれる。
という状態で、なんとなく上の方に出てきたので何気なくクリックしたドラマが『私のトナカイちゃん』だった。なんとなく怖いコンテンツが観たくて、ちょっと不気味そうだから観てみるかという感じだったと思う。
正直、一気に視聴者を引き込む系のドラマではないと思う。途中で主人公の過去が分かってから、序盤の展開が興味深く感じられるようなドラマだった。
ぼくは1、2話時点であまり興味を持てず、もう切ってもいいかと思ったのだが、先述のようにコンテンツを探すこと自体が面倒になっていたので、特に期待せず「視聴中のコンテンツ」の中のリンクを押して、ダラダラ見続けた。
なぜ序盤で乗り切れなかったかというと、主人公の行動に全然納得感がなかったからだ。
このドラマはストーカー被害にあう男性が主人公だ。だから序盤はストーカー被害の恐怖がメインで描かれるのだが、それがイマイチ怖くない。もちろん、厄介だとか面倒だとか、自分がこの状況になったら嫌だというくらいの恐怖はあるのだが、主人公がそこまで怖がったり追い詰められているように感じられない。
実際、演出やストーリー展開としても、恐怖を全面に押し出したものにはなっていないと思う(後半の展開を考えれば、この感覚は意図通りの感覚のはず)。
主人公は全力でストーカーを遠ざけようとしていないというか、「本当に嫌だったらもっとこうするのでは?」「自分がこの状況だったらこの行動は取らないよな・・・」と思わされような行動をとり続ける。だから、いまいち主人公の感情に乗ることができず、興味を惹かれる楽しさがなかった。
ストーカーの女性も、全く話ができないというタイプではなく、一応、最低限の社会性はあるし(自分をよく見せるための嘘をついているくらいだから)、住んでいる場所や暮らしぶりも描かれるので、未知のモンスターではない。
観られないほど退屈というわけではないのだが、異常さ(コンテンツとしてのエッジ)という点ではイマイチだし、主人公に感情移入もしにくく、ストーリー序盤は面白さより退屈さが勝ってしまって、「次へ」ボタンをクリックしたい衝動は起きなかった。
ただ、ドラマが後半へ入っていくと、むしろこの序盤のダラダラした感じは狙って作られたものだったと思えるし、なるほどそういうことかと思った。
実はこの主人公は性被害を受けていて、そんな苦悩の中でストーカーに出会ったことが語られる。自分を全肯定してくれるストーカーは、厄介だけれど、同時に心の支えにもなっていた、ということが明かされる。
主人公のストーカーに対する感情はねじれたものになっていて、だから、序盤での彼の行動は視聴者にとって納得できなくても、それはあたりまえだった。
視聴者であるぼくからすると、ストーカーは単に「厄介な人物」なんだけど、主人公にとっては「厄介だけど、遠ざけたくない人物」だから、そうなっていたのか、と分かる。
ドラマの途中で「性被害はさまざまな形で人生に影響を与えます」的なテキストが挿入される。このドラマの肝はその部分だと思った。
つまり、「普通そうはしないだろう」という序盤のぼくの感想は、その「さまざまな影響」を考慮しないから生じる感想だ。
4話以降に主人公の過去エピソードを知ることによって、ぼくは、1〜3話の内容を遡って納得する。そこで退屈だった1〜3話が、興味深い内容に変わる。(アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』のことを思い出した)
ドラマ後半は、ストーカー被害も拡大していくし、主人公の状況の複雑さを前提に観ることになるので、結構面白く観られた。
(ちなみに、このドラマは実話ということになっているが、ストーカー女性側からの反論もあり、どこまでが事実なのかは分からないみたい。)
バラエティ番組を見ていると、30分で人を面白がらせるスマッシュ感を感じる。ちょうどここ数ヶ月のぼくはその感覚を求めていて、だからバラエティ番組とか、少しエグい感じのドラマや映画を探していた。正直、今もその感覚があって、『私のトナカイちゃん』は今いちばん面白く観られるタイミングではなかったなと思う。
でも、4話かけてエンジンをかけていくタイプの面白さもあるんだということを思い出させてくれた。
ここのところ部屋の片付けが進んでいる。
ここ数年、要らない物をどうすることもできなかった。その時々でどこかに積んだり押し込んだりして、どうにかしなければ、と思いながら放置していた。
パソコンの中も同様で、ファイル分けするのがめんどくさくて、ダウンロードフォルダやデスクトップにいろんなデータが散らばっていた。
それがここ数ヶ月、タイミングを見つけてはせっせと整理を進めて、かなり部屋が片付いてきた。今、次の不燃ゴミ回収の日を待っている。
何年も放置していた物も、実際片付け始めれば1、2時間でどうにかなる物が多かった。ここ数年も、1、2時間掃除の時間を確保することは難しくなかった(ゲームで1日溶かしたりしていたし)。
ぼくはもともと物を整理するのは嫌いじゃないし、細かいタイプだったと思う。大学生の頃のぼくが、適当に積まれた書類や整理されていないデスクトップやお札の向きがバラバラな財布の中を見たら意外がるだろう。
やろうと思えばいつでも片付けられたのに、今まで全然できなかったのはなぜだろう。逆に最近、突然思い立って片付けられたのはなぜだろう。
それで気づいたのだが、ここ数ヶ月はかなり仕事が落ち着いていたからだと思い至った。
今の仕事は今年度で退職する。ここ数ヶ月は残業もほとんどない。自分がメインでやらなければいけない仕事もどんどん減って、時間もそうだが、それ以上に精神的な負担がかなり下がっている。
意識には上っていなかったけど、仕事の負担が下がった分の心の余白が、ずっとやらなければと思っていた部屋やデータの片付けに使用されたのだろう。
自分は大雑把な人間になってしまった、と思っていたけど、実際は単に片付けに割く精神的なエネルギーがなくなっていただけだったようだ。
だから、やはり細かいのが自分の本性なんだ・・・。そう思うのもちょっと難しい。
しんどかったときに、そういった細々したことすべてがどうでもよかった感覚もよく覚えているし、そのときにはそれが本当の思考や感情だった。実際、それで数年生きていたんだから、部屋なんか散らかっていてもいいじゃないかとも思う。
前に、「貧困層は合理的な判断ができず余計な出費をしてしまう」という分析を何かで読んだことがある。不合理だから貧困になってしまうのではなく、貧困であることの負担がその人の合理性を押し下げて、場当たり的に出費をしてしまうそう(出典も忘れたし事実かどうか分からない)。
これはつまり、生活をなんとか維持することに精神的エネルギーが使われてしまって、やらなければいけない何かにじっくり向き合えなくなってしまっている状況だと思う。
誰かにとっては貯金せず博打をすることが、ぼくにとっては片付けずに散らかすことだった。
ぼくの場合は、貧困ではなく仕事だったし、その負担の増減があったから、その変化による自分の思考や行動の変化を体感できた。
貧困の中で生まれて、貧困なまま死んでいく人がいたとすると、その人が、合理的な人なのか、不合理的な人なのかは分からずじまいだ。ぼくも、もっと大きな視野で見れば、ある偏った状況の中で生きているに過ぎない。
部屋を片付けられない自分が本当なのか、片付けられる自分が本当なのか分からない。
どっちが本当なのかは分からない。でも、ひとつ言えるのは、ぼくは今の職場で働いている自分が好きではない。だから、さっさと職場から帰ってきて、部屋の片付けをしている自分の方が望ましいと感じている。
もちろん、この感覚自体が、今の状況から生じたものに過ぎないとも言えるし、これは単に不快をさけ快楽に近づこうとする動物的な行動に過ぎないと思う。
でも、合理的になるためには不快を減らす必要がある。合理性が生産性につながるのだと考えれば、不快な仕事をするのは貧困のもとだ。
年末年始にネットフリックスでドラマ『サンクチュアリ』を観た。
ビジュアルからもっとドロドロしたストーリーかと思っていたら、比較的王道なヤンキー漫画っぽい内容だった。主人公も空気を読まない以外は素直で不器用な良い奴で、ヤバい奴かと思わせたライバル役も普通に家族思いの、相撲に真剣な奴だった。
金のために相撲を始めた主人公が、次第に相撲にのめり込み、相撲自体が目的化していく内容で、個人的には好きなパターンなので面白かった。
1番の面白さは、やっぱり題材が相撲というところだと思った。力士の身体の凄さ、取組の迫力がよく伝わってきて、これはたしかに、普通のスポーツとは違う、神事的なすごい闘いだという説得力があった。それがあるからこそ主人公の破天荒さも際立つし、気持ちいいし、でも最後真剣になる主人公の心情にも共感できた。
そんなド迫力と裏表で、いわゆる不合理な教育や文化が描かれる。そこをナビゲートする役として帰国子女の国嶋が一般人代表として登場する。
指導の不合理さの中に暴力がある。これに関しては、そもそも相撲(というか格闘技)自体が暴力をはらむものなので、その訓練の中に暴力が含まれていても、比較的ドン引きを避けられていると感じた。
たとえば、野球の指導であの暴力が起きたら、どれだけストーリー上で説明や弁明があっても、普通についていけないと思う。
個人的にもっと重要だと思ったのは、指導のコミュニケーション不足だ。なぜこの訓練が必要なのか、どんな効果があるのか、ほとんど説明されないまま、「とにかくやれ」という指導がなされる。主人公も「意味ないだろ」と文句を言いまくっている。
これについては、相撲が題材だという事に関係なく、「もっとちゃんと説明すればよいのでは」と思わないでもない。
ただ、個人的に、この不合理性には実は合理性があるのではないかと感じた。
ここからはドラマの感想ではなく、ぼくの個人的な意見なのだが、細かく説明せず「見て学べ」という不合理さは、たしかに教育方法としては不合理なのだが、そもそも「そいつが教育するに足る人間かどうか」を選別する意味では合理的なんじゃないかと思っている。
ぼくは今、学校で働いている。そこで、生徒に何かを教える機会がときどきある。そういう経験からそう思うようになった。
何もわからない状態で「教えてくれ」と言ってくる人には、どれだけ丁寧に教えても身につかない感覚がある。一方で、自分なりに試行錯誤した上で「ここがうまくできないから教えてくれ」と言ってくる人は、最低限のアドバイスだけで全てが伝わる。
労力がかかる割に伸びない人間と、最低限の労力だけで大きく成長する人間を選別する場合、自分で勝手に見て学べるタイプかどうか、で線引きをするのは、教える側からするとかなり合理的である。
可能性が低いのに時間ばかり取られる人を教えていたら、せっかく伸びるはずの人に向き合う時間が少なくなってしまう。
そのときに、「とにかくやれ」「見て学べ」と言って、相手の反応を見るのは比較的うまいやり方なのではと思う。
もちろん、いわゆる「学校」では、どんな生徒にもちゃんと教えないといけない。学費を払っているし、生徒にはその権利があると思う。
でも、そういう権利があることと、その人が成長するかどうかはまったく別である。ただ教育を受けたいだけならお金を払って丁寧に教えて貰えばいいが、成長したいなら自分の頭と体を使わないといけない。
教えてもらう権利が人を成長させるわけではない。
だから、実は教えられる側からしても、この不合理な指導のウザさは、自分が本当にそれをやりたいかどうか考えるきっかけとしては、合理的な意味があるかもしれない。
今の日本では、なんとなく小中高大学と進学していってしまう。学ぶ意志がないのに学校に来るのは本当に非効率な時間の使い方だと思う。よくサボったりズルしたりする人がいるのだが、だったら最初から学校にこないでバイトでもして遊んだらいいのに、と思う。
本当に学びたいというタイミングが来た時に学校に来ればいいだろ、と。嫌味ではなくて、本当にそう思うことがしょっちゅうある。
優しくて丁寧な指導は居心地がいい。その居心地の良さが、その人の本当の思考や意志の確認をさせない要因になって、その人の成長を遠回しに阻んでいるかもしれないと感じることも多い。
もちろん、厳しさが絶対に正しいとも思わないし、こんなの個人や状況でケースバイケースに決まっている。
でも少なくとも、「不合理だ」といって切り捨てられるほどシンプルじゃないと思った。
こういうサイトを作ろうと決心したきっかけは、本当に15年ぶりくらいに小説を読んだからだ。
いや、多分それは嘘で、ちょこちょこつまみ読みはしていたような気はするのだが、「ちゃんと小説読むぞ」と思って読んだのがすごく久しぶりだった。
それでいろいろ感じたり思うことがあって、「この気持ちを言葉にしておきたい」と思ったのだが、SNSやブログに書こうと思うたび、過去にそういうツールを使っては辞めた経験がチラついて、結局何も書かずじまいになっていた。
そんなこんなの葛藤はありつつ、HTMLサイトという方法を思いついて、ちょうど人生の節目感のある年でもあるし、と思ってこのサイトを作ったのは前回、前々回の記事で書いた。
ちなみに読んだのはドフトエフスキーとかではなく、『成瀬は天下を取りにいく』と『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』と『コンビニ人間』である。
話題になったので名前は知っていて、どこかのタイミングでKindleセールになったのを買っていて、ずっとスマホにはさまっていたけど、特に小説を読む習慣もないので読んでいなかった本たちである。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に至っては小説だと思って読んだらエッセイだった。
10代の頃はちょこちょこ小説を読んでいたけど、話題の小説や好きな作家を読んでいたのではなく、本屋や図書館で背表紙がいい感じのやつをランダムに読んでいただけだったから、メディアで話題になっている本を、そういう文脈も込みで読む、という経験が初めてだった。
昨年の12月はだいぶ仕事が落ち着いていて、正直、暇だった。家に帰りたかったが、そこにいるのが仕事みたいな仕事でもあるので、デスクにはいないといけない。でも仕事はない。堂々と動画配信を見たりゲームをするわけにもいかず、なんとなくiPhoneでKindleアプリを開いたら、無目的に買った表紙だけよく知っている本が並んでいた。たしか東村アキコさんが帯文書いていたような記憶があって、とりあえず『成瀬は天下を取りにいく』を開いて読み始めた。
(動画やゲームがダメで本が良いという道理はないけど、まあ、文章を読んでいるんだからほとんど事務作業だと考えた。
タイトルと、野球のユニフォームを着た主人公の表紙絵から、もしドラ的な女子高生が野球チームを率いて世界一を目指すドタバタストーリーだと思っていたら、ある女子高生の日常を描いたストーリーで意表をつかれた。
小説を読むってこういう感覚だったっけ、だったような、違うような、思ったより漫画を読んでる感覚に近いなぁ、といろいろ思いながら読んでおり、このときの感情や思考をどこかに書いておいた方がいい!思った。
その次に読んだ、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』も異国で頑張る少年が主人公のジュブナイル物だと思っていたら、そのお母さんが書いたエッセイだった。『コンビニ人間』は比較的思っていた世界観とストーリーだった。
3冊とも面白くて、読んでいる最中、読み終わった直後は感想が溢れていた。
それからあっという間に2、3、4週間くらい経ってしまった。その間にしっかりとこのサイトも作った。それでいざ感想を書こうと思ったのだが、いまいち何を感じていたのか思い出せず、言葉にならない。
思い出しながら無理やり書くことはできると思うんだけど、多分、書くために書くような文章になってしまうし、そういう文章ならわざわざ書かなくてもいいやと思ってしまった。
ということで、やっぱり感想は、鑑賞した後の熱量が残っているうちに書いてしまわないと。
ちなみに同じ期間、映画も『マトリックス』を1から見返して、子供の頃に見たのとは全く違う感想を抱いたり(簡単にいうと1がズバ抜けて良くて、2と3が微妙だったのだが、子供の頃はアクションシーンしか見ていないからどれも同等に面白かった)、その懐かし鑑賞の流れで『ハリー・ポッター 賢者の石』を見たら、普通に嫌いなタイプのストーリーだったことに気づいたり、『シビル・ウォー』を見た直後に『トップガン マーヴェリック』見たり、『ゴジラ-1.0』を見て、これは普通にダメなのでは、と思ったり、Amazonが激推ししてくる『レッド・ワン』を見ていろいろ思ったりしているのだが、時間が経ってしまうと、もうそのときの感情と言葉を取り戻すのは難しい。
こういうのはさっさと書くのが大事だと思った。これからはサクッと書くようにしたい。
なんとなく、文章を書く場所が欲しいと思うことがよくある。
面白い映画を見たときとか、本を読んだ時、創作活動をしていて感じたことを、てきとーに書ける場所があるといい。今はSNSとかブログサービスが豊富にあるから、そういう場所を使うのが一般的だと思う。
ぼくもそういうサービスは一通り使ったことがある。はてなブログ、Wordpress、note、Twitter、今はもうなくなってしまったサービス。公開しない前提なら、手書きのノート、Googleドキュメント、Apple純正のメモ、Goodnotes、Evernote、Notionなどなど、そういうツールも使ってきたけど、ここ2、3年は文章を書かなくなっていた。
書く習慣は、ほとんどイコール考える習慣だったみたいだ。文章を書かないと、ぼんやり頭の中で考えられる量しか考えなくなる。前に考えたことも覚えてないから、考える軸がなくなっている。本当になにもちゃんと考えられてないかも・・・。最近そういう実感が湧いてきて、やっぱりどこかに自分が文章を書く場所を作ろうと思った。
書く場所を決めるにあたって、過去の経験から、いくつか必要な条件があった。
公開できる。アーカイブしやすい。継続しやすい。ぼくが死ぬまで使えそう。
これら全部を満たせそうなものをいろいろ考えて、もはやめちゃくちゃ簡素なHTMLを組んで、それを公開するのが1番いいという結論に至った。
「公開できる」と「継続しやすい」は、ぼくの中では結構つながっている。
考えるために書くだけなら、テキストファイルとか、ノートにでも書いていればいい。実際、iPhoneのメモも使っているし、手書きのノートも使っている。でも、なぜか自分しか読まないところに書いていると、一定以上の深さで考えて書けない。自己ツッコミが弱くなるというか、書き手も読者も自分だと、論理や説明がおざなりになる。
だから、「誰かに読まれるかもしれない」という緊張感がぼくには必要みたいだ。
だったら、SNSとかブログの方がいいだろうと思うのだが、経験上そういう場所だと、だんだんとリアクションを気にする気持ちが大きくなり、それが嫌になってやめてしまう。これはどんなに「反応は気にしない」と自分に言い聞かせても無理だったので、「継続しやすい」を考えると、リアクションや通知やアクセス数、インプレッション数が見られてしまう場所は条件を満たさない。
そういう意味で、ウェブサーバーに上げれば公開可能だが、そもそもリアクションボタンがなく、アクセス解析をつけなければアクセス数も分からない、こういう原始的なHTMLサイトは最適かもしれないと思った。
また、HTMLはアーカイブのしやすさと、ぼくの寿命を超えて使えそうな点でも条件を満たしている。
以前にWordpressで作ったブログサイトを閉じる時、どうにか見やすい形でローカルにデータを移したいと思ったのだが、結構めんどうだった。無理ではないけど、厄介だった。そういうサービスを使ってしまうと、素人の自分からは見えない部分が大きくなってしまう。
その点HTMLサイトは自分のパソコンにあるファイルとサーバーに上がっているファイルは同じ物だし、自分で把握していないファイルがない。また、ブラウザを使えばウェブ上のファイルも、自分のパソコンにあるファイルも同じ表示で簡単に開くことができる。
また、HTMLという仕様と、それを見るためのブラウザというアプリケーションは、個別のアプリやサービス、SNSより寿命が長いだろう。少なくとも、消えてしまう不安が1番小さい。
そんなこんなで、今この文章はVSCodeというアプリ(このアプリが終了しても、テキストエディタアプリは存在するだろう)を使って、ベタ打ちしている。そして、Cyberduckというアプリ(このアプリがなくなっても、FTPアプリは存在するだろう)を使ってサーバーにアップロードし、Google Chromeというブラウザ(このアプリが…)で表示している。
書いた文章はいちいちPタグで括らないといけないし、目次部分のリンクも毎回書き足さないといけなくてめんどうだ。アプリやブラウザ上で全てが完了し、投稿したら瞬時にリンクが張り巡らされる時代に、不便極まりない。
だけど、変に心煩わされるよりシンプルでいいなと、今は感じている。
まあ、またすぐ飽きてやめるかもしれないけど。
今日は2025年1月1日。一人暮らしで誰にも会わない人間にとってはただの連休の中の1日でしかない。その上で、今年は漫画家になる年になりたいというのもあって、こういうサイトを立ち上げてみた。
4年契約でやっていた仕事が今年度で終わる。だから4月からは無職。無職の期間がどれくらい続くのかは分からないけど(できればすぐ終わってほしいけど)、次は漫画家になる。
ひらめきマンガ教室に通ったのが2020年9月からで、21年8月に終わった。今の仕事は2021年4月から始まったから、マンガ教室の最終講評会は、今の仕事に少し慣れ始めた頃だった。その頃は絶対に漫画家になろうと思っていたわけでもなく、今の仕事の延長で働き続けるかもしれないとも思っていた。漫画は描き続けるつもりだったけど、本業になるか副業になるかはまだ未定だった。
最終講評会で声をかけてくれた編集さんに「2025年までは仕事があるから、本格的に描き始められるのはその年からになると思います・・・」といったら「え、2025年ってめっちゃ先じゃん!」と驚かれたような呆れられたような記憶がある。「仕事しながらで描けるように頑張ってみよう」と励ましてくれたし、自分もそのときはそのつもりだったけど、この3年半、ほぼ漫画は描けず、その「めっちゃ先」の2025年になってしまった。
持ち込みもしていないし、投稿もしていないし、外から見える活動は何もしていない。でも、何もしていなかったわけではなく、何を描くべきか、何を描きたいか考え続けてはいたし、アイデアを出したり、ネームを描いたり、いろいろもがいてはいて、今1本読み切りを描いている。だからわりと前向きな気持ちではある。
この3年半、休みや仕事終わりにちょこちょこしかやれなかったことを、今年の4月からはフルでできると考えると、気分が良いばかりで、無職になる不安がほとんどない。大丈夫かと思う気持ちも少しはあるが大丈夫だという気持ちの方が大きい。
とにかく今年は、漫画家になる年になりたい。