映画

空の青さを知る人よ

概要

両親を亡くした姉妹。姉:あかねは高校生の頃から自分の人生より妹:あおいのために生き、地元の市役所で社会人として生活している。高校3年生のあおいはこれ以上姉の重荷になるまいと高校卒業と共に上京するつもりでいる。

市役所のイベントで読んだ大物歌手のバックバンドとして、夢を追って上京したあかねの元恋人:慎之助が地元に帰ってくる。慎之助はあかねと共に上京したかったが、幼かったあおいはそれに反対し、あかねもあおいのために地元に残った。

あおいがいつもベースを練習しているお堂に高校生の慎之助(あだ名:しんの)が登場。しんのはお堂から出ることができない地縛霊のような状態で、あおいと交流を始め、優しいしんのにあおいは恋心を抱くが、しんのは大人になった慎之助があかねと無事結ばれるようにあおいにお願いする。

あかねと慎之助は急行を温め、慎之助は地元に帰ろうかとあかねに相談する。あかねは慎之助への想いがありながら、彼はまだ夢を追うべきだと考え、あっけなく慎之助の申し出を断る。

すべてを犠牲にして自分のために生きてくれた姉への想いと、恋心を抱くしんのに消えて欲しくないという葛藤に苛まれるあおい。

そんな中、ある事故にあかねが巻き込まれたことをきっかけに、慎之助としんのが対面。夢を追う苦しみを知る慎之助と、すっかりやさぐれた大人になった自分を見て苛立つしんのは口論になるが、しんのは慎之助の上京という決断を肯定し、あかねに対する気持ちを思い出させる。

事故現場からあかねが助けられ、あおいとあかねは姉妹の絆を再確認。あおいは慎之助とあかねの関係を後押しするため、2人でドライブできるように取り計らい、自分のしんの(過去)に対する失恋を受け入れる。

レビュー

面白かった。

田舎で平凡に生きている感じ。姉:あかねの落ち着いた魅力とこの世界観がマッチしていて良かった。同時にその閉塞感から抜けたいという妹:あおいの気持ちにも説得力を持たせていた。

高校3年生と31歳という、人生の選択を迫られる絶妙な年齢設定。恋心を軸に、交錯するそれぞれへの温かい感情。素直に吐き出せない好意と、それを吐き出す心地よさを感じられた。

「誰かが誰かを想って行動する」という心地よい関係性のみで構成されながら、ちゃんとそれぞれのキャラクター(メイン3人に加え、あおいとあかねに好意を寄せるサブキャラまで)が葛藤しており、見応えがあった。

今の自分を過去の自分が説教するというダイレクトなシーンも熱くて良かった。またこのシーンで、地縛霊になった側:しんのは、彼の弱さの象徴であったことも分かり、過去の自分の決断(強さ)を肯定することで今の自分を勇気づけている、という展開も良かった。

また、最後の荒唐無稽な疾走シーンに、アニメっぽい開放感があって、映像作品としてとても見心地が良かった。

序盤では、突然現れた地縛霊(?)しんのの謎がミステリーとして駆動しつつ、13年越しに再開したあかねと慎之助の恋がサスペンスとして起動する。

そこに、あおいの姉に対する想い、しんのに対する恋心が、このあかねらの恋への協力を阻むものとして立ち上がって来ながら、ここで姉妹愛やあかねの気持ちや慎之助の苦悩を感情移入の対象として描いていく。

しんの(謎の存在・他者肯定・ミステリー)

「突然、13年前の姿のまま旧友が現れる」という状況がこのストーリーの最初の惹きになっている。

普通に幽霊かなと想像させるのだが、現実の慎之助が登場することで謎は深まる。といいつつ、これがなんだったのかの説明は最後まで特になされない。が、それほど消化不良な感じはしない。

あかねを置いて上京するために、13年前に慎之助が置いて行った「弱さ」の象徴だと考えれば、ストーリー的に納得できるから、これが生霊だったのか何なのかは、それほど問題にならないのだと思う。

同時に、途中からはあおいの恋の相手となり、時間のずれたな三角関係を作り、「あかねの恋が成就してしまうと、あおいの恋が成就せず」という二者択一の状況を作ることで、あおいの葛藤を深めている。

また、あおいの恋心や告白シーンを描くことで見せ場を作りつつ、あおいの成長のきっかけとしている(告白の後、あおいは友人に非礼を詫びているし、最後は失恋を受け入れることによってあおいを成長させている)。

さらに、「過去」としてキャラクターたちと交流を持つことで、各キャラクターの「今」を肯定する存在として、安心感を与える役目を担っている。

慎之助のことは上京し頑張ったことを肯定するし、あおいのために生きたあかねの人生も肯定する。これによって、輝かしくない、または上手くいっていない人生を応援する存在として、感動を与えている。

また、ずっと出られなかったお堂からだの脱出シーン、その後の疾走シーンでは、映像的なカタルシスや心地よさを描き出している。

あおい(自責・恋・諦め)

まず孤独にベースを弾いている女子高生という時点で惹きつけるキャラクターである。

無邪気で可愛かった頃の過去回想と、無計画に上京してバンドをやる話、姉に悪態をつく、市役所のイベントを避難する無愛想な今のあおいを交互に描くことで、このキャラクターに興味を持つ。

映画中盤でしんのと会話するシーンでようやく、あおいのあかねに対する自責の念が語られることで、あおいの好感度が上がる。(このシーンでしんのに対する恋心も明確になる)

あおいはある意味狂言回し的に、さまざまなキャラクターをつなぐ役としてストーリーを引っ張っている。

たしかに、あおいはしんのに恋心を抱き、姉への想いとの間で葛藤するのだが、あおい自身が決断し、それによって進展するは基本的にない。

なし崩し的に慎之助と同じバンドに一時メンバーとして入り、しんのに告白するがそれがどうなるわけでもないし、慎之助と対話するわけでもない。姉と腹を割って話すでもないし(暴言を吐いたシーンも一方的な怒りとして終わってしまう)、上京云々の話もストーリー上では特に進展しない。

意外とあおいは重要なことをしていない。ストーリーは周囲の人間や事故(しんのの登場、食中毒や地滑りなど)によって進展していく。

ただ、あおい自身の苦しみに共感できるので、ストーリーを動かしていなくても主人公として問題なく機能している。

あおいは苦しみを度々表出している(姉への罪悪感ゆえ上京したいこと、悪態をつく慎之助への怒り、優しすぎる姉への暴言、成就することのないしんのへの恋の告白、最後の失恋)。

また、ラストでしんのを諦めるという重要な選択はしていて、主人公として成長し、それにちゃんと満足感がある。

あかね(自己犠牲・救い)

あかねはとにかく頼れる「大人」として描かれる。

あおいを世話する様子、慎之助に言い寄られてもサバサバとかわし、正道の気遣いにも毅然と「自分は自分の決断で生きてきた」と返答し、あおいの暴言にも言い返さない。

これによって、あかね自身の欲望が満たされてほしい、という気持ちが芽生える。つまり、彼女の人生が報われてほしいという気持ち。

それは、慎之助との会話の後、地元に戻ろうかという彼の相談(=あかねにとっては悪くない話)をされつつも、まだ夢を諦めるような歳ではないと慎之助を勇気づけた後、1人になって泣いているあかねの姿で最も高まる。

その後、あおいがあかねの料理ノートを発見することで、あかねの献身がさらに強調される。

あかねが救われる=慎之助と結ばれるという展開は、主人公であるあおいの気持ち(しんのへの想い)とは矛盾する。

だから、あおいに感情移入しながら、あかねが救われてほしいと感じると、強い葛藤を生む。

ラストでは、あおいのために生きたあかねの選択は間違っていなかった、としんのが語ることであかねの人生は肯定され、さらにエンドロールで慎之助との結婚によりハッピーエンドになっている。

良かったね、という気持ちがあかねの人生を通して描かれている。

慎之助(自己否定・後悔・再生)

あおいの持つギャップ(子供の頃と現在)と同じく、慎之助も過去と現在でギャップのあるキャラクターとして興味を惹く。

終盤になるまでは、ずっと嫌な奴キャラが強化されていく(いきなりあかねを誘うシーンやバンド練習時の悪態、あかねの友人との密会など)。

終盤になると、実は悪い奴ではないという情報がいくつか出され、その後、あかねと楽しく会話するシーンで好感度を上げる。

さらに、過去の自分にコテンパンに言われることで、現実の辛さを知る大人代表として共感を呼ぶ。

同時に、上京を決断し、ある程度のところまでキャリアを築いていることを過去の自分に評価され、ダメダメだと思っていた自分の人生を肯定される。

ダメダメだと思っていた人生を肯定される嬉しさは、妹のために生きたあかねの人生が肯定される展開と重ねられる。

だからこの映画は、30歳くらいで「自分の人生これで良かったのだろうか」と思っている大人に刺さる映画になっているに違いない(もちろん、それなりに自分の人生を肯定する材料がある大人に限られるだろうが)。

ラストでは、自己卑下していた自分のキャリアを「まだ途中だ」と再認識し、再出発の希望を感じさせる。同時に、「ツナマヨ」=妹よりも慎之助を優先するというあかねの言葉によって救われる。

映画

ソフィーの選択 

概要

優しい作家志望の田舎出身の若者:スティンゴが、夢を追って引っ越した都会で出会った謎の多いカップルと友人になる。カップルの男性:ネイサンは精神的に不安定で、カップルの女性:ソフィーはアウシュビッツの生き残りで、生きることに罪悪感を抱えている。

カップル2人は大げんかをしているかと思えば、仲直りを繰り返し、お互い精神的依存関係にある。スティンゴはソフィーに恋心を抱きながら、ネイサンにも親愛の情を持つ。嫉妬深いネイサンはスティンゴとソフィーの関係を疑い、ついには銃を持ち出す。

ソフィーを連れて逃げるスティンゴだが、ソフィーはスティンゴの説得に応じず、自分の過去(アウシュビッツでの経験)を話して、スティンゴの元をさり、ネイサンの元へ帰っていく。

レビュー

正直、あまり面白く見られなかった。というのが素直な感想。その前提でレビューを書く。

このストーリーの惹きになっているのは、スティンゴのソフィーに対する恋(共感・恋愛)、不安定なネイサンの行動(不安・サスペンス)、ソフィーの過去(好奇心・ミステリー)。

スティンゴの恋(共感・恋愛)

まず夢を追う若者が都会で一人暮らしを始め、同じアパートに住む隣人ソフィーに恋をするというオーソドックスな展開。

ソフィーはいきなり恋人ネイサンとケンカしており、スティンゴは優しくソフィーに声をかけ、ソフィーはお礼に夕食を持ってきてくれる。

ソフィーと良い仲になるんじゃないかという期待感と、優しいスティンゴに対する共感を与えつつ、すぐにネイサンと仲直りするソフィーを見せられ、そうそううまくいかない現実を描く。

この恋心は映画全体を流れていき、スティンゴのネイサンに対する友情や、ソフィーの過去と嘘に対する怒りが葛藤となりながら、エンディングで一夜を共にしつつもソフィーにフラれる、という結末まで続く。

この映画のメインストーリーは、この恋愛であり、ソフィーの過去も、ネイサンの行動も、この恋愛を複雑にするように描かれている、と捉えることができる。

といいつつ、この映画は「何をメインと見るか」が個人的な関心に左右される映画だと思う。ただ、ストーリーの流れから考えれば、恋愛が全体の大枠としてあり、その中にネイサンとの関係(さらにその中にスティンゴの夢=小説)と、ソフィーの過去があると整理する方が自然だと考えられる。

ソフィーの話にインパクトがあるので、そちらをメインに見るのも理解できるが、あくまで回想だし、そちらがメインのストーリーだと考えるのは難しい。

その上で、この恋愛があまり面白く描けているとは思えなかった。

まず、スティンゴがソフィーを好きなんだというのが、いまいちよく分からなかった。

途中で一瞬付き合った女性の話が出てくる。セックスができなかったという事実=スティンゴが性に飢えているという説明のためだけに登場したような、取ってつけたエピソードに感じた。

スティンゴが性に飢えているのは分かったが、それとソフィーに対する感情との関係がよく分からなかった。この女性との関係が始まる時、スティンゴが2人の女性の間で揺れ動くという描写も特になく、だからスティンゴのソフィーに対する気持ちがよく分からない。

そして当然、スティンゴはネイサンといちゃつくソフィーと、普通に友人関係として一緒に過ごしている。

この関係が不自然なわけではないのだが、ソフィーとの恋愛がストーリーの大筋であるなら、やはりもうちょっと、このポジションにいる自分に対する葛藤を描かなければいけないのではないか、と感じた。

この友人関係の問題は、スティンゴの葛藤ではなく、ときどきネイサンがキレて面倒なことになるという、物理的な問題としてストーリーを動かすことになる。

スティンゴは常にソフィーを気遣っていて、そういう意味ではソフィーに対する気持ちは分からなくはないのだが、それが友人としての優しさなのか、愛しているからなのか、あまり明確ではない。

もちろん、そういう「微妙な」関係性を描いているのだと言われれば確かにそうなのだが、恋愛のストーリーとしてのパンチには欠ける。

だから、最後にソフィーと結ばれても、そんなに嬉しくないし、それで去られてもそんなに悲しくない。

とにかく、スティンゴの恋愛全体にいまいち共感できず、このメインの話にのれなかった。

不安定なネイサン(不安・サスペンス)

この映画の緊張感を作っているのはネイサンだ。直接的に大きな暴力は振るっていないが、いわゆるDV彼氏。

ストーリーが進むと、実は精神を病んでいることが分かる(でしょうね、という感じだったが)。

ネイサンにはたしかにハラハラさせられた。そして結末も、このネイサンのキャラクターに起因する悲劇になっているので、ストーリーとしても綺麗に収まっている。

陽気で、演技的で、愛情表現も大きく、一緒にいて楽しいタイプ。だが、ときどき妄想に陥り、暴力的な態度に出る。このギャップに魅力を感じるかどうかは人それぞれだが、スティンゴとソフィーが彼を放っておけないことには納得できた。

病気だったソフィーを優しく介抱する姿で強調されるように、とにかく「悪い奴ではない」というラインが描けていたし、病気であることが分かると同情してしまう。

だから、彼の暴力的な態度はある程度許せてしまうし、そんな彼と縁を切ってしまうのも悪いかな、という気持ちにもなってしまう。と同時に、妄想に取り憑かれた時の話のできなさもイライラするレベルで描かれている。

縁を切るのははばかられるが、付き合っていると面倒。この葛藤がちゃんとしている。

ネイサンが明るく振る舞っていても、いつまた面倒を起こすのか気が気じゃない。これがサスペンスを生じさせている。

スティンゴとソフィーが良い感じになるのはある意味で嬉しい展開なのだが、同時にネイサンの妄想を駆動してしまうのではないかという不安も同時に生じる。ネイサンの存在によって、二重の感情がストーリーに流れるようになって、それが見応えにつながっている。

しかし、ネイサンは、道具的なキャラクターとしては機能していると思うのだが、ネイサン自身のドラマは別に描かれていない。そこはやはり残念かなと思う。

途中で彼の兄が出てきて、麻薬をやめさせたいとスティンゴに相談する。

ここからネイサンのドラマが立ち上がるのかと思いきや、その件はスルーで映画は進んでいき、結末でネイサンは死んでしまう。

ネイサンは、作り手が観客を飽きさせないために、ときどき暴れさせる都合のいいキャラクターとしてストーリーに位置付けられている。そんなふうにも感じてしまう。

あと、スティンゴの小説についても、ネイサンとの仲を深めるのに一役買っていたが、それ以外にはスティンゴの作家という個性はそれほど活かされていないように感じた。

ソフィーの過去(好奇心・ミステリー)

この映画最大のポイントは、恋愛の相手役であるソフィーの過去だろう。

たしかに壮絶なものだし、ソフィーのキャラクターを奥深いものにしていると思う。

特に、単なる被害者ではなく、どちらかといえば加害者的な境遇だったのに、被害者側に割り振られてしまったという悲劇性が良い。

また自分が難を逃れるために、その加害者の境遇を利用しようとしたことや、それが更なる悲劇(=選択)を生んだ皮肉なども混みで、とても胸にくるエピソードだった。

しかし、ではこのソフィーの過去が、この映画のストーリーをすごく面白くしているかと言えば、あまりそうは感じられなかった。

ソフィーの過去は、別個のエピソードとしては面白い(という言い方は不謹慎だがく)。だが、この過去によって、メインのストーリーが直感的に面白くなっているかというと微妙だと思った。

回想シーンの宿命として仕方がないが、、メインストーリーを足止めし、やや退屈さを助長していると感じた。

この過去は、メインストーリーに絡めて言えば、単に美しい女性だと思っていた相手が、実は嘘をついていて、それに裏切られて傷つく、というスティンゴの心情を生じさせている。

さらに、ソフィーの持つ罪悪感によって、スティンゴとの結婚に踏ん切りがつかない=恋が成就しない=破滅的な選択をしてしまう、という結末にも関係している。

ということで、それなりにストーリー的な位置付けがちゃんとしているのは分かるのだが、しかし、あまり面白くはなかった。

というのも、このソフィーの過去は、ソフィー自身にとっては大きな問題になっているのだが、スティンゴからすれば「可哀想な過去」でしかなく、ソフィーに対する気持ちを大きく動かすものではないように見える。

スティンゴはソフィーが嘘をついていたことには怒ったが、彼女の過去に対しては常に同情的なので、ソフィーの過去は2人の恋愛をドラマチックにはしていない。

つまり、そんな過去が語られて「にもかかわらず好き」という形で描けていたら、恋愛としてグッと来るのだと思うのだが、ソフィーの過去回想のあとには、この「にもかかわらず」感がない。

ソフィーの告白は、単に「可哀想な目にあったんだね、だから僕が支えるよ」という、すごくストレートな感情としてしか、スティンゴの恋心に寄与していない。

だから、正直に暴力的に言ってしまうと、ソフィーの回想シーンは、やや説教くさい御涙頂戴的な過去シーンに見えてしまった。

観客であるぼくは、主人公のスティンゴを通してストーリーを追っている。そして、ソフィーの過去は、スティンゴの気持ちをそれほど大きく変えはしない。

例えば最後の子供の選択の話でも、スティンゴは、ソフィーが自分を簡単に受け入れない理由が分かっただけであって、ソフィーに対する感情が大きく変わったという展開にはなっていないし、2人はそのあとセックスしているし、スティンゴは単に翌朝ソフィーに去られるのであって、そのことの方がスティンゴにとっては事件なわけだ。

だから、過去エピソードは単に過去のエピソードであって、ストーリーで進行しているドラマにはそれほど寄与していない。にもかかわらず、やはり重たい話だからか、過去エピソードはそこそこの尺が取られている。

そのあいだメインストーリーは止まっている。

正直、うーん、と思ってしまった。そういう感想が許されなさそうな映画ではあるのだが、これが正直な感想だ。

映画

アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル -嘘のない人間関係と栄光と挫折-

概要

当事者インタビューと回想ストーリーを交互しながら、才能あるフィギュアスケーターの活躍と凋落をブラックユーモアも交えて描く。

悲劇的な実話をベースに、厳しい母親、暴力の絶えない夫婦関係、評価されないアスリートの苦しい日々などを描きながらも、強靭なキャラクターたちによって喜劇的に展開するストーリー。

とにかくパワフルな主人公トーニャ、非難殺到必至の子育てをする母親、愛憎の権化のような夫に、虚栄心の強い夫の友人。

アツいドラマと、間抜けな事件。テンポよく進むストーリーとそれを脱線させるインタビュー。映像的な楽しさと共に悲喜劇ドラマを堪能できるエンタメ作品。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

レビュー

夢に向かって突き進むアツさ。キャリアでも私生活でも絶頂と最低を行き来するダイナミックさ。いびつなのに強く清々しい母娘関係。夫婦間の感情のもつれと間抜けな友人のせいで巻き起こる喜劇的な悲劇。悲劇ながら過去の話として距離感を持って観られる軽やかさ。

音楽やダンスとカメラワークが楽しくテンポも心地よい。ドキュメンタリー形式のフィクションとしても面白い。単にインタビューが挟まれるだけでなく、ストーリー中も登場人物がカメラに向かって話しかけるシーンがあるなど、虚実が曖昧に描かれる小気味よさがある。

実話を元にしながら、このある意味では「嘘っぽい」演出によって、事実からは距離をとっている感じが見やすい。

基本的には主人公トーニャに同情的に描かれており、実際のスキャンダルを知る人によっては、そこに違和感があるかもしれない。(個人的にはよく知らない事件だったので、フィクションとして楽しめた。)

ただ、前述の通り、事実を強調するような描かれ方ではなく、「事実から距離を取りながら、ドラマチックに演出している」というのを敢えて強調している描き方だと思ったので、事実のひとつの側面として、冷静さはあるのではないかな、と個人的には思った。

とにかく、トーニャと母親、夫ジェフとその友人ショーンら主要キャラクターが、とても魅力的だと思った。

全員の欠点がトーニャ浮き沈みのドラマにうまく絡み付いていて、

冷たい母娘関係、なのにアツい関係

この映画はタイトルを見ると、あるスキャンダルの顛末をめぐるストーリーかと思うが、実はそこに関してはそれほど踏み込んだ話はなく、重点が置かれているのはトーニャを取り巻く人間関係だ。

その中でも、際立った関係として描かれるのは母親との関係と夫(元夫)との関係だ。

個人的には母親との関係がもっともグッときた。

嘘のなさ

トーニャの母は、今で言えば確実に悪い母親である。

子供を褒めない。暴力は振るう。マナーも最悪。普通に考えてアウトである。もしかしたらこの母親に対する嫌悪感でこの映画を嫌いになってしまう人もいるかもしれないと思えるほど悪い親だ。

しかし、ぼくはどうしてもこの母親に魅力を感じてしまう。

それはなぜかと言えば、彼女に嘘がないからだ。

確かに彼女は悪い母親だとは思うが、しかし、常に本音しか言わないという面では誰よりも誠実である。

そこが、昨今のポリコレ、多様性、自分らしさ、オンリーワン、なんたらかんたら、という世間の風潮の中で生きていて、それに若干の窮屈さを感じているぼくにも心地よかったのかもしれない。

そして、もちろん、この母親の悪辣さにトーニャがめげないことにも原因がある。

映画序盤で母親は「トーニャは怒ると力を発揮するタイプで”どうせできない”とか言わなきゃダメだった」と語る。

これはもちろん母親側の勝手な言い分ではある。

しかし、実際トーニャは母親の暴力にめげずにスケートを続け結果を出していく。

この2人の関係はいびつなのだが、いびつなりに機能している。

母親はトーニャの闘争心を信じて辛辣な言葉を吐く。トーニャもそれにめげずに力を発揮する。

世間的にはアウトな振る舞いでも、この2人の間ではそれが正しく機能してしまう。

ここに物語的な快楽がある。

一般論では悪なことが、個人にとっては必ずしも悪いことではない。統計的に見れば破綻するはずのことが、あるひとりにとっては成功を導く鍵になる。

この映画全体から湧き出る反骨精神は、この母娘関係を起点としてストーリー全体に広がっていく。

世間一般のやり方などクソ食らえで、2人の生き方で勝ち上がっていく。

しかしこの「世間一般」はフィギュアスケートでは審査基準にもなってしまう。だから、トーニャはあるところ以上の評価をされずに苦しむというドラマも生んでいる。

つまり、この嘘のない母娘関係と、虚飾にまみれたスポーツ会が対比されることになる。(もちろん、フィギュアスケートがこれほど単純に悪なのかどうかは怪しいが)

これによって、この母娘関係の率直さ、実直さ、嘘のなさがさらに魅力的に見える。

善人ではない母親の「善さ」

また、母親はたしかに異常な厳しさを持つ人物だが、うまいこと観客の理解を誘うようにも描かれている。

まず、娘の才能を頭から信じているという点では疑いがない。

そして、母親自身の口からは何度も、「自分のお金は全てトーニャのスケートのために捧げている」という発言が飛び出す。

母親がいい歳になってもウェイトレスをしているという描写から、そこに嘘がないことも想像できる。

自分が働いて稼いだお金を捧げるというのは、娘がどう思うかどうかはともかく、本人にとって相当の負担であることは間違いがない。それは働いている人間なら誰でも理解できる。

嘘っぽい優しさより、働いて稼いだお金。これが母親の愛と信頼の示し方なのだと思えば、単に子供に辛く当たっている親だとは思えない。

中盤、母親がウェイトレスをやっている店でトーニャと会話するシーンがある。

自分のことを愛していたかと問うトーニャに、母親は「私はお菓子でなくメダルをやったんだ。私も自分みたいなママが欲しかったよ」と反論する。「ママがイヤな奴で悪いか? 才能に感謝しな」というのは強烈なセリフだ。

もちろん、自分の成し遂げられなかった夢を子供におしつける悪い母親だと判断することもできるし、実際そうなのだろう。

しかし同時に、自分が母親にして欲しかったことを精一杯わが子にしてあげている人間だと思えば、それはそれですごさを感じる。ただその「して欲しかったこと」がやや極端だったのだ。

その上、本人は好かれもしないしお金もなくなるし、良い思いはしていないのだ。だから、そこだけはやはり本当で誠実なんだと思わされる。

なんにせよ、この母親はこの映画的にも「善人」としては全く描かれていない。だから、そこに違和感や嫌悪感はない。

そうではなく、この母親のいびつさ、弱さの中にも「善さ」があるんだという視点を持てるのが、この母娘ドラマの面白いところだと言える。

そして、だからこそ、最後娘との会話を盗聴しようとした母親に対する落胆がすごかった。

ここでだけ、母親は利己的に娘を利用しようとした。

しかも、唯一母親が優しい言葉をかけた直後にこの展開になる。

普通の優しさは見せないが信頼はできる母親が、追い詰められた娘を前に、唯一普通の優しさを見せ、ホッとしたと思いきや、最も最悪なことをする。

ここのドラマ的な揺さぶりはすごかった。

というのはちょっと脱線だが、とにかく母娘関係のアツさがぼくは好きだった。

ダメな奴らの悲喜劇からくる前向きさ

母娘のアツい関係に心打たれつつ、しかしこの映画の登場人物はみんな人としてダメな部類の人間だ。

そこがとても良い。ダメだけどめっちゃ魅力的。その雰囲気が心地よい。

そして、ラストシーンで象徴的に描かれるが、この映画はとにかく前向きさを描いた作品で、そこがとても良かった。

(ラストシーンがどういうシーンかといえば、殴られ、倒れ、血を吐いて、しかし立ち上がって闘い続ける、というシーンだ。)

まずこの映画はドキュメンタリー風な語りで始まり、合間合間に当事者インタビューが挟まれる構成になっている。

つまり始まりからして、「これから描かれるストーリーはすでに終わっていて、その中心人物たちも今やこんな感じ。なんというか、呑気で間が抜けて緊張感がない雰囲気で過ごしている」ということが印象付けられる。

ストーリーが進行して、物語にグッと気持ちが入っていっても、インタビューが挟まれ、観客はフッと緊張を解かれる。また、カメラに向かって語りかけるキャラクターによって、これは作りものなんだと強調される。

この構成自体がこの映画の軽快さを作っている。

ストーリー内で描かれる暴力も悲劇も、今は終わっていて、そして当事者は悪態をつきながら過去を語っている。

つまり、ここで大きな悲劇が起きていても、暴力が巻き起こっていても、しかし当事者はしぶとく強く生きている。

ここにある前向きさ=心地よさは、主人公トーニャの被害者感の希薄さからきている。

トーニャは被害者だと言える。母親からは厳しい教育を受け、夫からは暴力を受け、審査員からは評価されず、おかしな事件に巻き込まれ、最後は全てを失ってしまう。

しかし、トーニャは被害者っぽくない。彼女は何度も「私のせいじゃない」と言い張って、同情を寄せ付けない態度をとっている。

またストーリー内でも、母親の暴力に反発し、夫からの暴力以上に自分も暴力を振るっている。

夫に接近禁止命令などを出しているのだから、かなり面倒なこともいろいろ起きたのだろうが、そういう面倒で停滞する場面はことごとくストーリーからカットされている。

スケートで評価が上がらず感情的に落ちてくるシーンでも、うじうじすることなく、とにかく何か次のアクションを起こし続ける。もしくは感情的にケンカしている。

そしてどれほど悲劇的なシーンがあっても、インタビューで太々しく話しているトーニャが登場して、雰囲気をリセットする。

この映画はとにかくひどい仕打ちを描きながらも「可哀想」と観客が思うことを拒むような作りになっている。

「可哀想」という同情ではなく、それでも強く立ち向かうトーニャの強さに感動させるように演出されている。

ドキュメンタリー形式になっているということは、この映画は二層構造になっているということだ。

地のストーリー部分と、それを俯瞰するインタビュー部分。

さまざまな困難に見舞われながらもフィギュアスケートでトップを目指そうと一途に努力し続けるトーニャの物語は、当然強い前向きさを持つ。

ただ、この映画のその地のストーリーの前向きさを超えている。それがドキュメンタリー部分の効能だ。

「夢を追いかけるのは素晴らしい」という前向きなメッセージを持つスポーツ映画は多くある。この映画にもそういう雰囲気は含まれている。

だが、この映画は悲劇として、最後は夢破れる展開を描いている。

にもかかわらず、しぶとく生き続けるキャラクターたちをインタビューを通して描いている。

つまり、それは「夢を追いかけるのは素晴らしい」という前向きさを超えた、つまり「夢が破れてもなお人間は強く生きられる」という前向きさを描いている。

幸せだから良い。うまくいっているから良い。

そういう条件付きの前向きさではなく、しぶとく生き続けること自体がすごいという生きること自体の前向きさを描いているから、この映画はいいのだ。

主題のスキャンダルはオマケ感

タイトルにもなっている、トーニャ凋落のスキャンダル。

たしかに現実感がないほど間抜けで、コーエン兄弟の映画を見ているような面白さがある。

ただ、事件の詳細はあまりなく、そういう意味での面白さはそれほどない。ただいつの間にか変な友人が暴走し、犯人が間抜けで簡単に捕まり、事件自体は終わる。

あくまで、トーニャの人生を狂わせる悲劇として描かれるのみなので、スキャンダルの中身はかなり淡白だ。

例えば、被害者であるナンシーとの関係も、インタビューで「友人だった」と語られる程度だし、ナンシーの感情は特に描かれない。

実際にどれほどトーニャやジェフが事件に関わったのかが微妙なところだからだろうが、事件自体は判然としないしかたで描かれている。

ただ、そのようなスキャンダルも、時が経てば一瞬で世間に忘れ去られるという描写は良かった。

関連作品

ローラーガールズ・ダイアリー

気の強い女性たちがスポーツに打ち込む姿を描いた青春ストーリー

レディ・バード

ちょっと変わり者の高校生と母親との確執を中心に、親離れ子離れを描く青春ドラマ

セッション

甘えを一切許さない教師と狂ったようにそれについていく生徒の関係を描いたドラマ

はじまりへの旅

風変わりな信念を持つ父親とその父と暮らす子供たちの物語

映画

運び屋 -高齢の麻薬運び屋、男の贖罪ドラマ、変わっていくアメリカ社会-

概要

これまで園芸家として家族を顧みず働いてきたアール。しかし、ネット社会の流れについていけず園芸の仕事を辞めざるを得なくなる。

居場所を無くしたアールは、家族の元へ帰ろうとするが、それまでの身勝手を前妻や娘は受け入れず、行き場を失う。

そんなアールを見て、ある若者が運び屋の仕事を紹介する。

金のないアールは、深く考えずに仕事を引き受け、メキシコマフィアの麻薬を運ぶ運び屋としての仕事を始める。

常に安全運転で気のいいアールは、警官にも疑われることなく着々と仕事を完了させ、マフィアのボスも期待を寄せる有望な運び屋となっていく。

「マフィアの運び屋」というよくある設定の中に、「高齢で真面目な男」というキャラクターを当てはめた意外な面白さ。

家族との確執をドラマとして描きながら、どこか牧歌的な裏家業を描きつつ、クライマックスにかけて緊張感を高める。

オーソドックスな面白さなのだが、新鮮さがある運び屋映画。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

レビューの印象

高評価

  • 主人公の言葉や生き方から、前向きなメッセージを与えられる
  • それぞれのキャラクターの人間臭さや温かさが魅力的
  • 高齢の運び屋という設定が面白い

低評価

  • 「もっと気楽に」「家族を大事に」というメッセージ性に薄っぺらさを感じる
  • マフィアの甘さや杜撰さ、DEAの捜査にご都合主義感がある
  • クライム物としては淡々としており見応えが薄い

ナニミルレビュー

「高齢の運び屋」という意外性と説得力

クレジットのところでも説明されるが、この映画のストーリーの着想は現実のニュース(90歳のドラッグの運び屋がいたというニュース)から得られている。

ニュース自体にある意外性を、映画のキャラクターに流用しており、この設定自体に面白さがあるのは間違いない。

ただ、「意外である」ということは、説得力が薄い可能性があるということ。みんながそう思わないから「意外」なのであって、そこに説得力が伴わなければ、「思いつきでやってみた」という出オチのストーリーになってしまいそうだ。

しかしこの映画は、クリント・イーストウッド自身の存在感や、家族との関係を通して描かれる不器用で無頓着な感じ、切実な金銭的問題、また朝鮮戦争経験者という主人公の背景から、「このおじいさんなら、やりかねない」という説得力を感じられた。

その上で、このど素人のおじいさんが、確かに運び屋として優れている、という気づきも多くあり、彼がこの仕事で成功することにも納得感がある。

そもそも「ドラッグの運び屋」の先入観から大きく外れた風貌であること。対人的にも気のいい男で他人には好意的な印象を与える男であること。真面目な性格ゆえに無茶な運転をしないこと。

「なるほど、たしかにこの人物がこの仕事をすればうまくやるだろう」という納得感がすごくある。ドラマ『ブレイキング・バッド』で教師が麻薬製造で才能を開花させるのに似た面白さがあった。

犯罪に手を染めてしまった主人公が、家族や恋人との関係によって葛藤する(裏社会と表社会のあいだで板挟みになる)という展開もテンプレ的なパターンだ。

このテンプレパターンも、主人公が高齢であること、最愛の元妻もまた高齢であること。娘、孫という多層の人間関係の中にいることによって面白くなっている。

妻と娘にはめちゃ嫌われているけど、孫には好かれている、という設定も、なんだかありそうな家族関係で面白い。

さらに、家族とアールを結びつける最後の糸である孫の失望の言葉によって、クライマックスのアールの行動を生んでいるのもいい。

ヒューマンドラマで見るような展開を、クライム映画の中に位置付けると、こんな風になるのか、と思った。

なんだか、なんのジャンルの映画を見ているのか分からない浮遊感が面白かった。

貧困白人とリッチなメキシコマフィア、若者と老人

この映画には、明確な対比が2つある。

ひとつは人種の違い。もうひとつは年齢の差である。

ステレオタイプとして、白人が有色人種を支配し、年長者が若者を指揮する、という先入観がこれまであったと思う。

この映画ではこれが逆転させられている。

白人であり年長者である主人公アールが、メキシコマフィアの若者たちに指揮され、下っ端として働いている。

2050年ごろにはアメリカの白人(ヒスパニックを除く)の人口における割合は50%を下回ると予想されている。

白人ヒーローのアイコン的存在でもあるクリント・イーストウッドが、年老いた姿でメキシコマフィアの下っ端として働く姿は、そういう社会状況を背景にしてみるといろいろ考えさせられる。

アールが立ち寄った市場の駐車場で屯しているバイカーたちに出会う。

アールが何気なく「Son(兄ちゃん)」と声をかけると、実はそれは女性バイカーで「兄ちゃんって誰のこと?」と言い返される。

ちょっと戸惑ったアールが「ギャルか」と答えると、彼女は「ダイクスだよ」と答える。(ダイクス=dykeの複数形)

アールは去り際に「またな、ダイクス」と挨拶をする。

また、こんなシーンもある。

アールが運転中に、道中でパンクで立ち往生した黒人家族を助ける場面がある。

アールは、「最近の若いやつはタイヤの変え方もしらないのか」とぼやきながらも、タイヤ交換の方法を教えている。

しかし、アールが悪気なく「ニグロ」という単語を使ったことで緊張が走る。

黒人夫妻は「もうその言葉は使わない」と指摘する。アールは「そうか、わかった」と言って笑い、パンク修理を続ける。

アールは運び屋稼業の道中で新しい価値観に出会い、それに驚き戸惑うが、反発はせず笑って受け入れる。

一方で、白人だらけの町に立ち寄った際、アールを監視していた2人の男は、その見た目だけで白人警官から高圧的な尋問を受ける。

この映画は、クライム映画としてはテンプレなストーリーを追いながら、前に書いたように、主人公のキャラクターに意外性を持たせつつ、さらに現在的な問題を散りばめている。

大枠はテンプレでも、ちゃんと見応えも新鮮さもあるストーリーにできるんだ、ということを実感させてくれる。

クライム物ながらほのぼのした雰囲気

アールは自分を監視する若者に「もっと気楽に生きろ」と言っている。

(「気楽に生きすぎたから今、運び屋をする羽目になっているんだろ」と反論されているが・・・)

そのアールの言葉を体現するように、この映画はクライムものでありながら、だいぶほのぼのしている。

もちろん、クライムものと同時に家族ドラマを挟んでいるからだとは言える。しかし、それだけではない。

そもそも、突然の違法な仕事にふらっと乗ってしまうあたりが実はすでにゆるいのではないか。

仕事があると言われた先に行ったら、銃を持った強面の男たちに取り囲まれるなんていう状況になったら、もっとヤバさを感じる空気になりそうなものだ。

クリント・イーストウッドなので、なんとなく納得してしまうのだが、ここでアールがそれほどたじろがないことが、この映画の雰囲気を決定づけていると思う。

マフィアの男はケータイを渡してアールに指示をするが、アールがメールを使えないと知って呆然としている。(ここで後ろの男が「やれやれ」って感じで首を振っているわざとらしい演技が笑える)

本来なら強面で新人を教育するところで、ガクッと出鼻をくじかれる。仕方がないから電話でやりとりをすることにする。

ここはちょっと怖いシーンながら、アールに合わせるマフィアの男に優しさを感じてしまうシーンである。

その優しさもわざとらしいものではなく、アールが高齢でメールを使えないという状況から仕方なしに出てくる優しさだから、嘘臭さが少ない。

この時点で、この映画はわりとほのぼのしている。

ストーリーが進むと、この最初に出会った男たちとはだいぶ仲良くなり、メールの打ち方を習ったりしている。

そんなころ、監視役のフリオがやってくる。フリオはそんなやわな態度は許さないと怒鳴り、アールに厳しく接する。

しかしフリオもまたストーリーが進むとアールに魅了され、温かい人物として演出される。

そうやってフリオとの関係が良くなった後、今度はマフィアの内部抗争が起こり、新しい監視役がつく。

この監視役は、フリオのパートナーを殺してアールに見せ、現実の厳しさをアールに突きつける。

クライマックスでは、この新しい監視役の指示を無視してアールが家族の元で過ごすことでサスペンスフルな展開へと至っている。

結局アールは監視役に見つかり、絶体絶命のピンチとなる。

その次のシーンでは、その監視役がボスに電話している場面になる。

そこで、アールを追い詰めた男たちは、アールが癌だった妻の最期に立ち会うために姿を眩ませたのだと説明し、アールを許すようボスに語る音声が流れる。

ここで、この監視役たちもアールに魅了されてしまっている。

このように、この映画では「恐いと思った人物に実は温かさがある」という展開を3回繰り返している。

つまり、マフィアを温かく描いている。

クライム物ながらほのぼのとした空気が流れているのは、このせいだろう。

また、ラストもDEAに逮捕させることでアールは本当の意味での破滅を免れている。

そして、裁判のシーンでは、犯罪を犯していたアールに対して、家族は特に非難をしていない(個人的に、さすがにそれはどうなのとは思ったが)。

全体的に温かい映画なので、後味としてはそれに合わせて穏当に終わってよかったのだとも思う。

関連作品

ブルー・リベンジ

家族愛から犯罪に手を染めてしまう男のストーリー。ぜんぜんほのぼのしていない。

紙の月

日常の中にある犯罪への誘惑が描かれたストーリー。老成とは逆に超人化していく主人公

海よりもまだ深く

生き方に悩む壮年の主人公と、年老いた母の交流を描くストーリー

映画

ポリーmy love -対照的な2人の恋愛、動機と意外性が希薄-

概要

保険会社で働くルーベンは異常なほど慎重な性格。新婚旅行で妻に浮気され、傷心で1人帰国する。友人に誘われて出かけた展覧会で、給仕として働く同級生ポリーと再会する。

ルーベンは傷心から立ち直るためにポリーにアプローチし、2人のロマンスがはじまる。

慎重なルーベンと対照的に、自由奔放で大らかなポリー。最初はチグハグだったデートもルーベンの努力によってだんだんと上手く行き始める。そんな矢先、浮気したルーベンの妻が2人の前に現れ、ルーベンとよりを戻したいと迫る。

ちょっと下品なギャグも挟みつつ、温かな恋愛を描くロマンスコメディ。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

レビューの印象

高評価

  • 主人公が相手に合わせて健気に頑張る姿が微笑ましい
  • 変人キャラの脇役が魅力的
  • 現実ではなかなか難しい理想のカップルが見られる

低評価

  • ヒロインの印象が薄く、自由人というキャラがいまいち弱い
  • 意外性がなく、内容が薄い
  • ロマンスとコメディのバランスが中途半端

ナニミルレビュー

「正反対の性格の2人の恋愛を描く」というキャッチーな設定のロマンス。ストーリーもシンプルで王道感のあるハッピーな映画だが、ときどき下品なギャグをスパイス的に挟んでいる。

設定は面白いと思うのだけど、全体的に掘り下げが浅いというか、なぜ2人が恋に落ちるのかに納得感がなく、結果、ルーベンの努力や、妻が帰ってきてからの葛藤も取ってつけたような展開に見えてしまう。

またサブキャラとして、落ちぶれ俳優の親友や、保険のクライアントが登場するが、どちらもポリーに似て破天荒なタイプというか、ルーベンと逆の性格の2人である。

これによって、ポリーのキャラが薄まっている。また、ポリーとの恋愛同様「なぜルーベンの親友がこの男なのか」という違和感がある。全体的に人間関係がご都合主義が感じられ、それぞれのキャラクターの魅力がパッとしない。

自分の価値観に固執する主人公。彼を成長させるような、価値観の違う登場人物を配置し、ストーリーが進むことに主人公が追い詰められ、最後に自分の殻を破って成長・行動。同時に親友にもチャンスを与えつつ、恋愛も成就し、仕事も上手く行って大団円!

という教科書的な面白いストーリー展開のはずなのだが、どんなに構造が強くても、ディテールの説得力がなければ面白くならないのだな、と個人的には感じてしまった。

恋愛に説得力がない

「恋愛なんて理屈なしに始まるものでしょ」と言われればその通りだし、それで納得できる人にとっては、このようなレビューは無効だと思う。

しかし、個人的にはやっぱり、「なぜ2人が恋に落ちたのか」が終始ひっかかった。

2人は偶然再開し、特に何か過去があったわけでもなく、出会ったシーンでルーベンが一目惚れしたというような演出もない。

ポリーの方も、特にルーベンに強く惹かれている感じでもないし、デートするようになってもポリーはそこまでルーベンに入れ込んでいるわけではない。

ルーベンは親友サンディとバスケをしながら、妻の不倫から立ち直るためにもポリーをデートに誘ってみると話す。

反対するサンディに対し、中学のころポリーは優秀な子だったし、このタイミングで出会ったのは運命だとルーベンは語る。

突き詰めて言えば、ルーベンがポリーに恋する理由はこのシーンでのセリフに尽きている。

これで納得しろと言われてもさすがに難しい。これだったら、再会時にルーベンがうっとりするとかの方がまだ説得力がある。しかし再会時のやりとりはかなり淡白に演出されている。

その後デートを重ねても、ルーベンとポリーは明らかに相性が悪い。

普通に考えたらご縁がなかったと思って別れるだろうが、ルーベンはそうしない。

ルーベンがそうしない理由がどうしてもわからない。

もちろん、ルーベンがポリーと付き合うためにいろいろ努力して、結果的にルーベンを成長させたのだということは分かる。

でも、これは「結果から逆算すればそう」という話で、そもそもなぜルーベンが努力したのかの説明にはならない。

つまり、「自分とは正反対の女性との恋愛を経て、主人公がこう成長する」という結論ありきで、ルーベンの努力が描かれているように見えてしまう。

ルーベンは、自分の意志で努力をしているというより、映画の結末を描くために努力しているように見える。

それも全ては、ルーベンがポリーに恋する理由が希薄だからだ。

「たしかにこれは諦められない!」と感じられるほどのルーベンの恋心が、ポリーとデートし始めて、さまざまな困難に直面する前に描かれていないからだ。

それが手前で描かれていれば、その恋のためにルーベンが努力しているんだなと納得できるし、きっとそれは感動的になったと思う。

でも、「まあ、不倫もされたし、たまたま出会った同級生とデートしてみるか」ぐらいのノリでしか描かれていないので、ルーベンの努力を見ても「なんで?」という感想しかない。

また同時に、ポリーがルーベンを好く理由もよく分からない。実際ポリーは、ルーベンの妻が帰ってくるとすぐにルーベンと別れようとしている。

ポリーはわりと最後までルーベンに対して真剣ではない。ラストでのルーベンの無茶な行動を見て心動かされるのは、まあ分からないではないけど、ポリーにとってはルーベンでなければいけない理由はないはずだ。

そして正直、ラストのルーベンの無茶もどうなんだろうと個人的には思った。「そういうことじゃなくない?」と感じてしまった。(もちろん、コメディとして半分笑わせようとしているからというのは分かるのだが)

つまり、ここでは確かにルーベンはかなり頑張っているのだが、頑張った結果、別にポリーは何も得ていない。だから、ルーベンが勝手に無茶してるようにしか見えず、「相手のために」という行為に見えないから、全然感動はできない。

というか、この映画、全体的にルーベンが勝手に頑張っているだけ、というストーリーなのではないか。

勝手に運命を感じ、勝手に傷つき、勝手に頑張り、勝手に無茶をしている。

ポリーはそこまでルーベンと真剣交際する気はないから、ルーベンを尊重しようという素振りもあまりないし、いや、だからなんでこの2人付き合ってるの?という疑問がずっとついて回る。

また、恋の最難関として、「不倫した妻の再来」がある。

でも、この妻とルーベンの関係はほとんど描かれておらず、ルーベンにとって妻がどういう存在なのかほぼ何も分からない。

ルーベンは妻の不倫後、わりとすぐ立ち直っているし、だからこそポリーと恋愛しようと考えるわけだ。

素朴に見れば、ルーベンにとってこの妻がそれほど大事な存在だったとは感じられない。

「妻なんだから大事に決まってるだろ!」というのは、頭で補完できたとしても、ストーリー上の説得力としては成立しない。

観客にとっては、新婚旅行で不倫して、突然戻ってきて勝手なことをいう面倒な女でしかない。

だから、ここでルーベンが2人の女性の間で迷ったとしても、「当然ポリーだろ」という感じしかしない。

板挟みにあうルーベンの苦悩は、観客的には他人事であり、妻の存在はストーリーを盛り上げるどころか展開をスローダウンさせる要因なっている。

結果が見えすぎていて、妻とのあれこれは本当にどうでもよかった。

そして「当然ポリーだろ」というのも、そのポリーさえもなぜルーベンが恋しているのかよく分からないから、もうなんかどうでもいいな、というテンションになってくる。

加えて、これは時代的なものもあるし、個人の好みだから言っても仕方ないが、ギャグのセンスは、個人的には笑えない感じだった。

また、ストーリー的な必然がないギャグが多く、取ってつけたようなギャグが多い。

正直サンディ関係のギャグはすべて邪魔くさかった。サンディいる?という感じだった。

あまり楽しめない映画だった。

ちなみに、女性の部屋のトイレで事故を起こすのも、コンピューターで恋愛の評価をして相手に愛想を尽かされるのも、ジェニファー・アニンストンの代表作『フレンズ』のオマージュだと思われる。

関連作品

イエスマン “YES”は人生のパスワード

軽快なラブコメかつ、慎重さと奔放さの正反対カップル映画。無理のある設定をギャグで押し通しつつ、ラストでちゃぶ台返しがあるのもなかなか良い。

奇人たちの晩餐会 USA

”奇人”と関わったことで恋人と不仲になってしまった男が、彼に友情を感じながら、同時に恋人との関係改善を頑張るコメディ映画

明日への地図を探して

運命的な状況なのに、妙に淡白な女性に恋をしてしまう男の奮闘を描いたロマンス

ラブ・アゲイン

熟年離婚を迫られた夫は、ある日バーでプレイボーイと出会い、変身を遂げる。しかしそのプレイボーイが実は・・・。人間関係によって弱さを克服していく王道の面白さがあるストーリー

ドラマ

ヴェロニカ・マーズ(シーズン1) -高校生探偵、スクールカースト、セレブと不良と青春ロマンス-

概要

高校生ヴェロニカの人生は、親友リリーが殺された事件をきっかけに一変する。

ヴェロニカの通う高校は、厳然としたスクールカーストがあり、街全体にもセレブと労働者の間の緊張感が漂っている。(冒頭で「中間層がいない街」と説明される)

ヴェロニカは元々セレブ家庭の彼氏(ダンカン:リリーの弟)がおり、カースト上位のポジションにいた。しかし、ダンカンは突然ヴェロニカから離れていく。

さらに、元保安官だったヴェロニカの父キースは、リリー殺人事件について公式見解とは異なる調査を進め、周囲の反感を買って保安官をクビになり、街の有力者たちからも恨まれる。その機にヴェロニカの母もキースの元を去る。

キースは私立探偵として活動。娘のヴェロニカはその仕事を手伝いながら、高校生探偵として学内のさまざまな事件を解決する生活を送る。

周囲の妨害を受けながらも、ヴェロニカはリリー殺人事件の真犯人、母の行方、ダンカンの真意を知るため独自に調査を続け、ジリジリと真相に迫っていく。

を背景としながら、シーズン全体としては親友の死の真相に迫るミステリー。ここのエピソードは個別の事件を解決していく一話完結ドラマになっている。

また恨まれながらも逞しく過ごすヴェロニカ自身の魅力。そしてセレブとも不良とも人間関係を持つヴェロニカの充実したアメリカンハイスクール青春ドラマでもある。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

レビューの印象

高評価

  • 格差や人種など現実社会を反映した世界観で見応えがある
  • 不遇な状況でも毅然と生きるヴェロニカが魅力的
  • ヴェロニカを取り巻く人間関係が心地いい(特に父)

低評価

  • いくつかのエピソードが足早に並列されたり、複数話を跨いだりすることが多く、混乱する
  • 事件の解決方法が強引に感じる
  • ヴェロニカの行動に問題(プライバシー侵害など)を感じすぎてストーリーに乗れない

ナニミルレビュー

テーマ、モチーフ、キャラクター、葛藤、設定・舞台、音楽、カメラワーク

2000年代の西部劇

『ヴェロニカ・マーズ』は、2000年代のカリフォルニア、架空の街「ネプチューン」を舞台にしている。主人公は小柄で可愛い感じの女性(ドラマ内でこう形容される場面がある)。

いわゆる「西部劇」とはほど遠く思える世界観だが、観始めた時点で、「西部劇っぽい」という印象を持った。

このドラマの面白さは、このギャップのある世界観だと思う。現代が舞台で女子高生が主人公であるにも関わらず、西部劇っぽい。

「西部劇」の定義をするのは難しいのでここではしない。ただ、なぜぼくが「西部劇っぽさ」を感じたのかを書いてみる。

第一話では、次々とヴェロニカの境遇が説明されながら、不良バイカーに目をつけられた転入生ウォレスをヴェロニカが助けつつ、その不良にも恩を売って、結果的にヴェロニカも助けてもらう、というストーリーになっている。

この一連の事件の中で起きることは、ほとんどが不法行為である。窃盗や暴力も起こるが、そこに司法はあまり介入せず、高校生たちの力関係、人間関係で全てが収まっていく。

そこにあるのは、「目には目を歯には歯を」の応酬で、ヴェロニカが賢く立ち回り、権力に頼らず問題を解決していく頼もしい姿が描かれる。

ヴェロニカはまったく権力を頼りにしていない。他の高校生たちも、法律より自分たちのルールで動いている。

なぜそうなのかといえば、権力が頼りないからだ。

この町の司法権力=保安官たちは腐敗している。ヴェロニカは過去に性的暴行を受け、そのことを保安官に相談するが、まともに取り合ってもらえない。

(ちなみに第一話でヴェロニカが転入生のウォレスに「町に警官はいない、保安官だよ」とわざわざ説明している。ここにも西部劇感がある。)

争いのプレイヤーになるのはリッチな白人と、荒くれ者のバイカー(恐らく南米系,アジア系のグループ)、コンビニでバイトする黒人、腐敗した保安官。

そして、元々リッチな白人グループにいたが、そこから弾き出され、どのグループにも属さない代わりにどのグループにもある程度顔がきくヴェロニカ。

お互いに対する緊張感、威嚇や暴力によって落とし所が決まっていく事件の顛末などから、「無法者たちの正義」が感じられ、そういった出来事や人物配置が西部劇っぽさを感じた原因だと思う。

普通に観ていると「いや、それ訴えられたら終わりなのでは」とか、「相手の人権無視しすぎなのでは」と思う場面が何度もあるのだが、ネプチューンではそういう価値観はあまりない。

自分たちのルールで動き、自分が信用できる人間を頼りにしながら生き、正当な手続きを経なくても、悪い奴に罰がくだるならそれでいい、という価値観。

ここには義賊や任侠の面白さがあって、そうやって逞しく生きるヴェロニカの姿が、このドラマの大きな魅力になっている。

2020年代現在の感覚で素朴に観ると問題含みの内容だが、そのラフな世界観にサバサバした魅力を感じてしまった。

セレブの元カレ、不良の友達、父娘関係

探偵ミステリーという側面が強いが、このドラマは高校生の人間関係ドラマも同時に描いている。

第一話で「とにかくヴェロニカは不幸な目に合っている」と強調される。

正直、一話に説明を盛り込みすぎな感じがあるが(登場人物や過去回想が多すぎて全体を把握するのが難しい)、ヴェロニカというキャラクターをしっかり理解してもらいたいという意図があったのだと思う。

不遇でも逞しく賢く生きるヴェロニカの好感度は高い。不良バイカーに取り囲まれても動じず、周りからの挑発も上手く言い返すウィットや強さがあり、応援したくなるキャラクターだ。

「不遇だ」という設定がありながら、ヴェロニカは、ある意味で非常に羨ましい境遇にいる。

セレブと労働者しかいない町で、労働者側にいたヴェロニカが、セレブな彼氏をゲットしていた、という設定はシンデレラ的なものだ。

(ストーリーが始まった時点で、そのシンデレラ設定はすでに過去ではあるけど。)

そして不遇だから辛いかといえば、わりとそうも見えない。

ヴェロニカは誰よりも自由に振る舞っているように見える。そして、探偵業をやっていることもあり、校内でも一目置かれている。

また、セレブたちに蔑まれるが、逆に労働者側の高校生にはそれなりに信頼されているような場面もある。なによりヴェロニカに調査依頼してくる人間は後を経たず、それはヴェロニカに承認を与えている。

また、ヴェロニカがそれほどひどいハラスメントを受けているという場面はあまり描かれず、ただ一部の同級生に嫌われているというぐらいの描かれ方なので、それほど暗い場面やストレスはない。

そして、エピソードが進んでいくほど、ヴェロニカはモテモテになっていく。

不良バイカーのウィーヴィルはなんだかんだでいつも助けてくれるし、ウォレスとは異性の親友(ほぼ兄弟)として非常にいい関係を築く。元彼ダンカンは絶対まだヴェロニカに気があるだろっていう感じだし、第一印象が最悪のローガンとも最後は恋仲になる。

懸命に生きている応援したくなる主人公と、主人公にかまってくるいろんなタイプの男たち。ここに少女漫画的な楽しい人間関係があるのは間違いない。

また、父娘関係も良好で、ちょうどいい距離感でヴェロニカに接する父と、父を愛するヴェロニカの関係は見ていて心地よいものだ。

こういうベースの楽しさがありながら、実は父と本当に血が繋がっているのかという疑いが浮上したり、リリー殺しの犯人が身近な人物なのではないかという疑念が生じたり、去った母をめぐって父と対立したり。

それなりに緊張感のある場面もあって、それはミステリーの引きになりつつ、人間関係を複雑にもしていて、ドラマの面白さを高めている。

特に、ローガンとの関係は、敵から恋人へという変化の大きさゆえに結構見応えがあった。

「絶対相いれなさそうな相手とくっつけよう」というのはアイデアとしては思いつくと思うのだが、これをストーリーとして自然に描くのは難しそうだ。

このドラマでは、「ローガンの母の死をヴェロニカが調査する」という出来事をきっかけにして、2人の関係を近づけ、2人が惹かれあっていくことにそれなりに納得感があって、しかし同時に驚きもあって、上手いストーリーになっているな、と思った。

ストーリーを通して、人間関係がしっかり変化していくのも、このドラマの面白さだった。

高校生探偵

もちろん、高校生探偵として活躍するヴェロニカの活動自体の面白さもある。

だが、その調査方法は正直、「そんなに上手くはいかんだろ」と思うものがほとんどで、ご都合主義感はかなり強い。

ただ、それは『名探偵コナン』を見て、「毛利小五郎が眠ってるのに気づかないわけないだろ」と思うのと一緒で、そう感じるからこのドラマがつまらなく見える、という感じのご都合主義には感じなかった。

いや、最初の数話はそう感じるのだが、だんだんそういうリアリティラインのドラマなのだと思えてくるし、なにより、「西部劇」的な、そもそもがちょっとフィクショナルな世界観なので、あまりそこのリアリティを求めず、楽しむことができた。

そのような態度で見ると、カメラやパソコン、頼れるパートナーたちと連携しながら、情報を集め、事件を解決していく毎回のエピソードはそこそこ楽しい。

そして、シーズン全体として描かれるリリー殺人事件の顛末も結構面白くて、終盤にかけては「こいつが犯人か」と思わされる展開が二転三転して、「え、その人!?」という驚きがあった。

個人的には、全く想像もしない方向でもないし、かといって容疑者としてはそれほど有力ではなかった人が犯人だったので、「おお、そういう結末か!」という面白さがあった。

また、リリー殺人事件が急激に解決されていく終盤では、それまでのからまった人間関係もいい感じでほぐれていき、全体的に「良かったね」という安堵感で終われる話運びになっている。

ぼくは探偵物というより、アメリカ学園ものとして楽しんでいたので、それほどミステリー部分には期待していなかった(実際各話の探偵エピソードは「そこそこ」という印象だった)のだが、この終盤の解決劇はなかなか良くて、最後2、3話は一気見させられた。

関連作品

ハッピー・デス・デイ

嫌われ女子がタイムループを繰り返しながら自分を殺した犯人を探し出すストーリー

ナイスガイズ!

偶然パートナーになった探偵2人組と、その娘が組んで陰謀を追う探偵物

映画

明日への地図を探して -時間の無人島で終末デート、ドラマは弱めだが、みずみずしい青春ロマンス-

概要

高校生のマークはタイムループにハマっており、同じ1日を繰り返し生きている。ある日、そんなマークの前に、自分と同じく1日を繰り返すマーガレットが現れ、2人は一緒に過ごすようになる。

2人は繰り返す毎日の中で、日々新たな「奇跡」を発見しながら、楽しい時間を過ごす。

しかし、いいかげんループから出たいと願うマークに対し、マーガレットはループから出たくないと感じており、2人の関係はギクシャクし始める。

マークは偶然、なぜマーガレットがループから出たがらないのかを知り、マーガレットを誘うのをやめる。一方マーガレットは母の言葉を聞いて、自分の困難に立ち向かい始める。

特殊な状況設定でありつつ、迷える高校生カップルが出会い、仲良くなり、対立し、助け合う、爽やかな恋愛を描く作品。穏やかな空気感と、ポップで可愛い画面。切なさはありつつも概ね前向きなストーリー。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

レビューの印象

高評価

  • 小さな出来事に目を向けることの大事さを感じさせられた
  • 行動を起こす勇気をもらえて前向きになれる
  • ティーンの青春ロマンスとして爽やかで可愛い

低評価

  • ストーリーが平板で大きな事件も起こらず退屈
  • SF設定の部分に納得できない
  • 似た設定の過去作もあり新鮮さがない

ナニミルレビュー

ループ=「世界に2人だけ」の状況

ループ物にもいろいろあるが、本作は真っ直ぐ青春ロマンス映画である。

ループという世界観を使って、真っ直ぐ青春ロマンスを描くというアイデアがこの映画の第一の面白さだ。

なぜこれが面白いか。

まず、「ループしている」という共通点を持たせることで、2人が暮らす社会を維持しながら「世界に2人ぼっち」というロマンチックな状況を作れているから。

「ループする」=場所と時間が切り離されるということだ。

「場所」を残しながら、2人の「時間」だけが世界から分離している。

つまり、2人は「時間的な無人島で2人きり」になっており、場所的には社会の中にいるのだけど、時間的には社会から解放されている。

この状況によって、2人は現実のカップルのように町中でデートを繰り返しながらも、実質的には世界に2人しかいないという、美味しいとこどりなロマンスを謳歌している。

車(どころか重機)を乗り回したり、食べたいものを食べ、お金をばらまき、モデルハウスに忍び込んで破壊に明け暮れたり。

社会(現実)をアトラクションにしながら、全ての責任や帰結から逃れて、自由奔放にデートする2人の姿は、まず映像的に見ていて楽しい。

ある種の終末物とかディストピア物っぽい「ルールから解放された楽しさ」がありながら、暗さや陰惨さ、ネガティブさがない。

そういう意味でもいいとこ取りな楽しい映画である。

一方、SF部分についてはかなりおざなりだ。とはいえ、それで興醒めとも感じなかった。

この映画は、青春ロマンス映画であり、このおざなりなSF設定は映画全体のテイストに合っていて、むしろ良いと思った。

ラストでマーガレットがループから抜ける方法を思いつき、それによって映画はハッピーエンドで終わる。

この辺りの流れはかなり強引で、マーガレットの行う方法でループから脱出できるという説得力は何もない。むしろ「そんなバカな・・・」と思ってしまうようなものである。

ただ、先ほども書いたように、この映画のテイストならこれで全然問題ない、というのがぼくの素朴な感想。

ただ、ぼくはこのラストをもっと好意的に解釈している。

ゲームのような映画の構成

この映画は少しトリッキーな構成になっている。

クライマックスまではマークが主人公であり、クライマックスで主人公がマーガレットにバトンタッチされる。

この転換は、マークのセリフによって「自分が主人公だと思っていたが、俺の物語じゃない」と語られるから、誰が見てもそう見えるように演出されている。

実際、大きな葛藤を乗り越えて成長するのはマーガレットだから、マークの考えは正しい。

なぜループが始まったのか、映画内で客観的事実として語られることはない。

けれど、マーガレットの直感が正しいとすれば、それは「母の死期を悟ったマーガレットが明日が来ないよう願った」からだ。

であれば、最後にループが解けるのは何もおかしくない。

マーガレットの「願い」によって始まったループが、マーガレットの成長を経て、マーガレットの思いついた方法で終わるのは自然と言える。

「それではあまりにマーガレットに都合が良すぎるじゃないか」と思うかもしれないが、このストーリーは、マークが語ったように「マーガレットの物語」なのだ。だから彼女に都合が良くて当たり前だ。

「マーガレットの物語」なのだと捉えると、マークがマーガレットの前に現れ、そして「ループから出よう」と彼女を誘うのも、マーガレットを成長させるための出来事なのだと考えられる。

マーガレットの願いによってループが始まったのであれば、そのループの中にマークが現れたのも彼女の願いだったはずだ。

マークは主人公ではなく、主人公をゴールに導く助手だったのだ。

母の死から逃れるため、マーガレットはループに逃げこんだ。しかしマーガレットは、どこかで「このままではいけない」と思っていた。

その思いがマークを呼び寄せ、そして彼と恋に落ちることがそのままループから脱出する鍵になった。

マーガレットは、ループからの脱出方法のヒントをテレビゲームから得ている。

この映画のストーリーは、「母の死の受容」というクリアに向かって繰り返される、マーガレットのゲームだったと捉えることができる。

この見方は、映画中何度もテレビゲームのシーンが挟まれることを考えると、それほど行き過ぎた見方ではないのではないかと思う。

というか、ループという設定自体がそもそもゲーム的なものだし、映画内で言及される『オール・ユー・ニード・イズ・キル』はモロにゲームのような映画だ。

そう思ってみると、映画冒頭で町中を自由に動き回るマークの器用な振る舞いは、『グランドセフトオート』のようなオープンワールド系のゲーム的な映像だと思える。

という感じで、話がそれたけれど、つまり、あのループ脱出劇は「無理のある展開」であるけれど、この映画としてはこの「無理」こそ正しかったのだ。

なぜなら、そもそもマーガレットの「願い」によってループが始まっているという「無理」がストーリーの前提になっているから。

というのがぼくの感想で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を想起しながら観ていた。

孤独だから、共有したいという根源的感情

青春ロマンスらしい、みずみずしい恋愛感情もこの映画の魅力である。

この映画で描かれる恋愛感情はどういうものか。それは「誰かと何かを共有したい」という素朴な感情だと、ぼくは感じた。

ループの中にいるということは孤独である。マークは孤独にあえいでいる。

(実はマーガレットは孤独ではない。母がいるから。だから出会いの場面でマーガレットはなんだか連れない。このズレが2人のロマンスに葛藤を起こしている)

マーガレットに出会ったマークは、「君に見せたいものがある」と言って、町中で起こる面白い場面を一緒に見に行く。

その後、マーガレットも同じく、マークを川辺に連れて行き、貴重な場面を一緒に見る。

2人はそれから町中で起こる「小さな奇跡」を集めるという活動を始める。

(この活動が結果的にループを解く鍵になる。と書いてみると、すごく比喩的に響く。退屈な繰り返しの毎日を解く鍵は、小さな奇跡を注意深く集めてみることだ、というのが裏にあるメッセージだろう)

2人の間に生じる感情は、「自分が見つけた楽しみを、誰かと一緒に見たい」という欲求である。

この素朴さに、青春ロマンスらしい「みずみずしさ」の正体があると思う。

と言ってもマークの方は前へ進もうとする。

マーガレットのために宇宙セットを作り、彼女を楽しませ、部屋に招き、キスしようとするが断られてしまう。

この後半の、恋愛の紆余曲折も順当な面白さがある。学校でデートするシーンはとてもワクワクするし、互いを思いやりつつ少しずつ関係を深めていく姿はロマンスとして面白い。

でもやっぱり、この映画で特筆すべきは出会ってからしばらくの、お互いの経験を共有しようとする素朴な時間だと思う。

なぜなら、後半の紆余曲折部分は、他の世界観でもよく見られるものだけど、前半の、ただ町中で起こることを一緒に見られるだけで嬉しい、という部分は、この映画の設定ならではの物だからだ。

2人が孤独だからこそ、ただ「自分が経験したことを相手も経験する」という共有が無性に嬉しい。

この「嬉しい」という感情こそが、この映画のロマンスの最も魅力的なところだと思う。

同時に、恋愛の根底にあるのは、実はこんなに素朴な気持ちなのかもしれない、と思わせられる新鮮さがある。

葛藤は浅め

とても面白い映画だ。しかし、ドラマは浅めだと思う。この映画を見て淡白に感じる人がいれば、多分そのせいではないかと思う。

マークの問題は、他人に無関心という性格。マーガレットの問題は母の死を受け入れられないという弱さだ。

ストーリー上では、この2つの問題が解決され、最後はハッピーエンドで終わる。

ただ、いまいち浅く感じるのは、2人が成長する決定的な出来事が曖昧だからだ。

マークはどう成長するか。

最初のきっかけは、妹エマに父のことについて聞かされた場面だと考えられる。(マークはその前にマーガレットにフラれて凹んでいる)

そこで父も「行き詰まっている(stuck)」と知る。つまり、ループにハマっている自分と似た状況だと分かる。

その後、マークはマーガレットともに日付変更線をまたぐ作戦を結構する。

それに失敗したマークは、次のループで、父に書いている本(南北戦争についての研究)について尋ね、さらにエマのサッカーの試合を見にいく。その後、それまで眺めていただけだった町中の人々と積極的に関わっていく場面が続く。

この時点で、マークの「無関心」という問題は解決されている。

だが、何が決定打だったのかはいまいちハッキリとしない。

日付変更線作戦が失敗して、ダルそうに朝を迎え、なんの気無しに父に話を振ったら、その後なし崩し的に人と関わるようになっていくように見える。

だから、マークの問題はいつの間にか解決されたかのように見えてしまい、結果的にドラマが盛り上がらない感がある。

といいつつ注意深く見返すと、マークは飛行機の中で、ループから抜け出せるかもしれないという期待感を持ちながらも、町中の人々の姿を描いた絵を見て、感傷に浸っている。

マークはそこで、ループから抜け出したいと願いつつも、同時に、有り余る時間の中でも自分が町の人としっかり関わってこなかったことを反省したのだと思う。

だから、その作戦が失敗に終わった次のループからは、積極的に人々に関わっていくようになった。

そう納得することはできる。

できるけど、さすがに曖昧すぎるように思う。

そして、この曖昧さでもなんとなくストーリーとして見れてしまうのはなぜか。

それは、そもそもマークの問題がそれほど深刻な物ではなく、出来心程度の感情で解決してしまえるような問題だったからだろう。

マークの問題はそれほど深刻じゃない。家族と不仲なわけでもないし、エマの話も素直に受け入れ、事情を知れば父のこともすぐに理解できる。

マークはそもそも良い人だし、「無関心」とはいえ、町中で人々と愛想良く接する程度には社交的だ。スケボー少女に拍手を送っているから、エマの試合を応援するのもそれほど大きな変化じゃない。

マークの行動の変化は感動的に演出されている。観ているとジーンとくる場面でとてもいい。

だが同時に、マークの成長はかなり小幅であって、そういう意味ではあっさりとしている感、演出でごまかしている感は否めない。

マーガレットはどう成長するか。

実は、これがよく分からない。

もちろん、マーガレットの中に、「いつかは母の死に向き合わなければいけない」という気持ちがずっとあったのだろうということは想像できる。

では、マーガレットは何をきっかけにそうする決心をつけたのか。

流れ的にはこうだ。

ま図、マーガレットはマークと一緒にループから抜ける作戦を途中で降りてしまう。

その後、病床の母と会話し、マークを裏切ったことを後悔していると話す。母は「まだやり直せる」とマーガレットを勇気づける。

その後マーガレットは前に探していた迷子犬を見つけ、なぜかマークの友人の家に行き、一緒にゲームをする。ゲームをしながらマークと同じようにループにうんざりしている。

その後ゲームのクリアがヒントになり、ループを解く方法を思いつき、マークと一緒にループを出る。

ゲームをしている時点では、マーガレットはループから出たいと思っているのがセリフから分かる。だからこの時点でマーガレットはすでに成長し、彼女の弱さは克服されている。

問題は、どの時点でそれを克服できたのかが全く分からない点だ。

マークを裏切った時点ではマーガレットは弱さを克服できていない。ゲームをしている時点では弱さを克服している=ループを解く方法を実行できる。

この間が、どこにもなくて、マーガレットが何をきっかけに成長したのか、全く分からない。

マークの時と同様に、ここでもマーガレットの奮闘がモンタージュされ、最後はマークとのキスがロマンチックに描かれ、感動的な演出でこの辺は押し切られている。

2人の爽やかなロマンスに目を奪われている間に、ストーリーを貫く葛藤部分はおざなりに解決されて、ハッピーエンドになっていく。

そんなわけで、主要キャラクター2人とも、問題の解決がいまいち不明瞭で、感動モンタージュで押し切られている感がある。

感動的ならそれでいい、とも言える。実際、個人的にそれほど嫌な感じはしなかった。

でもやっぱり、ドラマ部分は浅いと言わざるを得ないと思う。

2人の問題も、その解決も、すごく形式的に行われているもので、内面がぼかされ、スルーされていると思う。

マークの孤独に対する絶望感もそれほど描かれないし、作戦が失敗した後もすぐ立ち直る。

この辺りの「軽さ」は、この映画の軽やかさに繋がっているだろうから、必ずしも否定はできない。

でも、しっかりとした人間ドラマを描いた映画ではない、と感じる。

それは仕掛けとして型式的にやりながら、描きたかったのは、この舞台設定で巻き起こる青春ロマンスだったんだろう。

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ザ・ギフト -隠された過去、虐げられた者の復讐、悪い奴vs悪い奴-

概要

妻ロビンと共に故郷近くに引っ越してきたサイモンは、そこで高校時代の同級生ゴードと再会する。

ゴードは世話好きな良い人だが、人との距離感にやや難がある人物。ロビンはゴードに理解を示し良い隣人だと思うが、サイモンはゴードを厄介者だと感じる。

サイモンはある日、ロビンの制止も聞かず、「もう自分たちに関わらないように」とゴードに宣告する。その日を境に、サイモンとロビンの家では不審な出来事が頻発。

!!これより下はネタバレの可能性があります!!

ゴードから送られた手紙にはサイモンの過去の罪を仄めかすような内容があり、ロビンはサイモンを問い詰めるが彼は何も打ち明けず、一時は夫婦仲も悪くなる。しかしなんとか持ち直し、ロビンが妊娠。しばらく平和な日々が続く。

サイモンの過去が気になっていたロビンは、ベイビーシャワーの際、サイモンの兄弟に過去を訪ね、そこからサイモンの過去に迫っていく。自分の知らない夫の一面をしり、ゴードの意図も理解できたロビンは、サイモンにゴードと関係改善を求めるが、自己中心的なサイモンは結局ゴードとの関係を悪化させてしまう。

サイモンはロビンにも上司にも嘘をつき、全ての出来事を上手くやり切ろうとするが、だんだんとボロが出始める。そこに、ゴードからのさらなる仕打ちが明かされる。

静かなスリラーで、極端な残酷さやエグい描写はないものの、比較的リアルさのある人間関係の厄介さを描きつつ、虐げられた側のやや異常な(フィクショナルな)復讐を描いている。

レビューの印象

高評価

  • 考えが読めない人物によって先が気になるストーリー
  • 胸糞ながら、因果応報で悪い奴が報いを受けるカタルシス
  • キャラクターの性格的問題の描写に説得力がある

低評価

  • 主要人物に大きな欠点があり感情移入が難しい
  • 復讐にしては手ぬるい
  • 胸糞悪い/復讐に巻き込まれる妻が気の毒

ナニミルレビュー

ミステリーらしい不穏な空気の演出がよく、ストーリーが進むに従って、キャラクター(サイモンとゴード)の第一印象が変化していくのが面白い。

「ゴードの真意」を全体を貫く謎にしつつ、途中から「サイモンの過去」をかぶせ、観客の好奇心がダレるのを防いでいる。

そのようなミステリーをしっかりやりつつ、妻ロビンの視線から「よく知っている人物が、実は全然知らない側面を持っていたら・・・」という、現実的にあり得る葛藤を描いていて、そのドラマも面白い。

ストーリーがやや退屈に(というか弱く)感じるとすれば、メインキャラクターが明確でないというか、3人(ゴード、サイモン、ロビン)の誰についての映画なのかが曖昧だからではないかと思った。

ロビンの葛藤も描くし、ゴードの恨みも描くし、サイモンの苦悩も描いている。

ロビンは善人だとしても、ゴードとサイモンは両方とも、共感できる部分も反感を持つ部分もある、という割り切れないキャラクターで、かつどちらも悪役。

エンディングもややぼかした終わり方なので、そこでモヤっとする人もいるかもしれない。

ただ、この監督の次回作『ある少年の告白』もそうだが、あえて良い者/悪者(敵/味方)を明確に分けずに、その曖昧さの中で決定的な出来事が起きて人生が変化する、というタイプの描き方を好む人なのかな、と思う。

今作はどっちも比較的悪よりで、次回作はどっちも比較的善人を描いている。

個人的にこの「曖昧さ」は、ドラマをより深めるものとして良いと思っているし、ミステリーである本作では、曖昧さと謎が相まって、ラストまで興味を惹かれたのでとても良かった。

2人の悪事が積み重なり、変化していく人間関係

ちょっとギクシャクしているが、表面的には何も問題ないかに見えた人間関係が、どんどん悪辣な方へと進行していくさまが、この映画の面白さだと思う。

端的にいえばこの映画のストーリーはこのように進む。

・ぎこちないが平和な人間関係(0分から)
・ゴードが加害者、サイモンが被害者(40分くらいから)
・ゴードが被害者、サイモンが加害者(60分くらいから)
・ゴードが加害者、サイモンが被害者(90分くらいから)

被害者と加害者の立場を入れ替えながら、明らかになる悪事の中身がどんどんエスカレートしていく。

立場の曖昧さによって不穏さやミステリーを引きながら、ストレートに増していく悪辣さによってグッと興味を惹かれ続ける。

「無害だが厄介な存在」である古い知人。

この面倒くささに共感できる人は多いのではないかと思う。その意味で、映画冒頭ではサイモンの感覚に少し共感してしまう。

ゴードのやや挙動不審な感じとか、やたら家に訪ねてくる行動。行き過ぎた親切の不気味さ。

この映画はもともと「Weirdo」というタイトルで制作されていたそうだ。「ブキミなゴード」は英語では「Weirdo Gordo(ウィアード・ゴード)」という韻を踏んだ意地悪なあだ名である。それにうっかり納得してしまうようなゴード役:ジョエル・エドガートンの演技は素晴らしいと思う。

視線の弱さとか、表情の乏しさ、あとピアスしてるとか。なんかこう、別に変人というわけではないんだけど、ちょっと普通ではないかも、と思わせる。微妙なニュアンスがよく出ていると思った。

いわゆる「ありがた迷惑」を体現するような、とはいえ、これを「迷惑」だと言ってしまうと、むしろこちらが悪者になってしまうような、そういう厄介さを、序盤のゴードは体現している。

この「親切/迷惑」という対立を「ロビン/サイモン」のゴードに対する立場の対立で描いている。

映画を素直に観ていると、ゴードというキャラクターは、サイモンが言うように「不気味で厄介な存在」にも見えるし、ロビンが言うように「不器用だけど親切な人」にも見える。

表層的には大人な人間関係、まあまあ有り得る普通の隣人関係を描きつつ、裏ではゴードに対するこの対立が描かれる。

ストーリーが進むに従って、この対立が表面化し、表層的な人間関係が壊れていく。それと共に、サイモンの本性が露呈し、さらにゴードンというキャラクターの本性がラストで明かされる。

ゴードに対する認識は、ストーリーの中で揺れ動く。

上に書いたように、序盤は中立的な認識だが、サイモンが決別宣言をした後、ゴードは他人の家を勝手に使っていたことが分かる。

ここでは「やはりおかしな人だった」というサイモン側の感覚に比重が移る。

その後、誘拐されたと思われていた犬が帰ってきて、さらにゴードから謝罪の手紙が届く。ここで、少しゴードに対する反感が弱まる。

と同時に、手紙の中にサイモンの過去を仄めかす内容があることによって、ゴードの行動の裏には何かの理由があるのではないかと思わされる。

ゴードの行動が異常に見えるのは、サイモンが過去を隠しているからであって、であれば「問題なのはサイモンの方なのではないか」という風に印象が変わっていく。

実際、ロビンはそのように感じて行動するのだし、観客もそう感じるように誘導されているはずだ。

これが映画中盤。

その後しばらくゴードは登場せず、むしろサイモンに疑いの目が移っていく。

とはいえ、一旦この不審は棚上げにされ、夫妻は「表層的」な生活に一度戻る。ロビンは妊娠し、幸せな時間が流れる。

ベイビーシャワーの際、ロビンはサイモンの姉からゴードとサイモンの過去を聞く。

その後、サイモンの部屋の引き出しの中からは「身元調査資料」という、一般人が持っているにはちょっと異常な書類が出てくる。

これらの情報により、ゴードはむしろ弱い立場の被害者であり、「問題はサイモンの方ではないか」という印象を強める。

さらにロビンにゴードと和解していくるよう言われたサイモンが、謝罪を受け入れないゴードに暴力を振るうことで、決定的にサイモンを擁護できなくなる。

最初、表面的には平らな関係を築いていたサイモンとゴード。

ゴードの異常さが分かった時点では、ゴードが加害者でサイモンが被害者だった。しかし、サイモンが暴力を振るった時点では、ゴードが被害者でサイモンが加害者である。

ゴードはちょっとおかしな人ではあったけれども、悪人というわけではなく、むしろサイモンの方がよっぽど悪人だな、という印象に変わっている。

そしてこの映画は、クライマックスでさらにもう一捻り加える。

サイモンの悪事が次々と明るみになり、キャリアに暗雲が立ち込め、さらにロビンからは別れを告げられる。

自業自得とはいえ、ややサイモンが不憫に見える。

そこでさらに、ゴードから新たな荷物が届く。

そこで、一旦は被害者かと思われたゴードの悪事が次々と明らかになる。

一方でサイモンは、ロビンに被害が及んだのではないかと心配し、妻と子を不安そうに眺めるサイモンの表情が映される。その後、サイモンは病院の廊下に座り込む。

ラストでサイモンの人間的な弱さを描くことで、粗暴で自己中心的なサイモンを、単なる悪役で終わらせず、同時に、サイモンに人生を狂わされたゴードも、単なる弱者では終わらせない。

だから結局、最後にどちらに肩入れして映画を観終わっていいのか分からない。

というか、どちらにも肩入れできない。しかし、どちらの苦しみもそれなりに理解できる、という居心地の悪さと共に映画が終わる。

映画冒頭では、表層的に取り繕われるご近所付き合いの居心地の悪さが描かれていた。

ラストでは、全てをさらけ出した2人の「悪人」に対するスタンスの曖昧さによって、この映画は観客に、居心地の悪さを観客は突きつける。

序盤もラストも、なんかモヤモヤとした居心地の悪さを描いているのだが、その内実が全然違う。

この変化が、この映画の面白さの核だと感じた。

どこまでが計算か分からない不穏さ

この映画は「分からなさ」を延々と描いているから、ミステリーの面白さが味わえる。

と言っても、探偵ミステリーのように、出来事の謎が面白いというわけではない。

というか大体のことは謎ではない。誰がやったのかも、どうやったのかも大体想像できる。

サイモンの過去はロビンによって捜査され暴かれるが、それは映画の一部に過ぎない。

キャラクター間のやりとりも、しっかり観客に示されていて、「裏で何かが起きているのか?」というのでもない。

では何が分からないかといえば、「真意」が分からない。

なぜゴードはギフトをくれるのか、やたらロビンを訪ねてくるのか、夫妻を家に招いたのか。何か意図があるのか、単に不器用なのか。

この映画を面白くしているのは、サイモンが悪いやつであるからだ。

サイモンの「ゴードに対する態度の悪さ」という要素があることで、ゴードが一貫して悪意を持っていたのか、サイモンの態度に怒り悪意を持ち始めたのかが分からない。

ゴードが明確におかしな人だと感じられるのは、サイモンがゴードに決別宣言をした後だ。

であれば、ゴードはこのサイモンのひどい態度への報復として、さまざまな悪事を働いたのだろう、と思える。

だが、サイモンの過去が明らかになると、ゴードはもうずっと以前からサイモンを恨んでいたのだろう、とも思える。

しかし、手紙に書いてあったように、ゴードはすでにサイモンを許していたが、ぞんざいに扱われてキレたのかもしれないとも思えるし、許したというのは嘘であって、最初から全て計画済みだったのかもしれないとも思える。

サイモンが善人であれば、ゴードは単に悪人だったということになる。しかしサイモンが悪人であることで、ゴードはその場限りの報復しているだけなのかもしれないとも思える。

映画を最後まで見れば、ゴードは最初から悪意を持っていたとわかる。

その上で映画を見返すと、ゴードは明らかに復讐を企んでいたのだと分かる描写がある。

ゴードが初めて家を訪ねてくるシーン。

ロビンが家の中を案内する中、ゴードは子供用のおもちゃを物色し「子供いるの?」と聞いている。(後日、テレビ設置を手伝うシーンでも子供の話をしている。)

ラストを知っていれば、ゴードはここで復讐方法を思いついたように見える。

さらに、その後3人での夕食時、ゴードはサイモンに、「グレッグに会ったか?」と聞いている。グレッグはサイモンと共にゴードを陥れた高校の同級生である。サイモンはこの話が出ると席を立っている。

また、不自然に「政府が個人宅を盗聴していた」という話題を始め、「目には目をだ」と口走っている。

ゴードは高校時代、サイモンの嘘のせいで性的な偏見で苦しんでいる。ゴードの復讐も性的な行為を仄めかすものだった。

分かってから見ればそうとしか見えないけれど、初見では分からない。

そういう「分からなさ」の面白さをしっかり持った映画だ。

「過去」という厄介さ

この映画の中で、現実的な怖さが2つある。

1つは身近な人の知らない側面を発見してしまうこと(ロビン)。
もう1つは終わったはずの過去の出来事に向き合わされること(サイモン)。

この映画では、不穏なことはたしかに怒るが、命に関わるような危機感というのはあまりない。

にも関わらず、何がこんなにスリリングなのかといえば、目の前の現実がひっくり返されるかもしれない、という恐怖感がずっとあるからではないか。

映画内で起きる出来事は、それほど現実的には感じない。だが、「過去の過ちが舞い戻ってくる」というような恐怖感自体は、わりと現実的である。

サイモンの行いは非難されるべきことだとしても、誰だって過去の過ちがある。それに踏ん切りをつけながら、人間は生きている。

その終わったはずの過去が急に舞い戻ってくるのは、誰だって怖いのではないか。

サイモンに同調する気はないけれど、彼がゴードを遠ざけたいと思う気持ちは理解できる。

また、目の前にいる人間が過去にどういう人生を歩んでいたのかなんて、普通は分からない。夫だとしても、細かくは知らないのはそれほど変ではない。

よく考えれば、ほとんどの人間関係において、相手のことを十分知っているなんていうことはない。

でもそれで大きな問題になることも、ほとんどない。

ゴードという存在は、人生における「起きて欲しくないし、実際ほとんど起きないこと」の象徴である。

でも、そういうことは起きえる。この「起きえるよなぁ」という感覚が、この映画から感じられるスリリングさだった。

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ある少年の告白 -子のセクシャリティと父の信念の相容れなさで描く「正しさ」の難しさ-

概要

牧師の父を持つ青年ジャレッドは、大学でのある事件をきっかけにゲイであることを両親に知られ、父の提案を受け入れてある施設へ通うことになる。

そこは教会の教えに基づき、同性愛者を「治療」し、異性愛者へと転換するプログラムを行う施設。

愛する両親の思いと、自分自身の感情の間で揺れ動きながらプログラムに参加するジャレッド。

施設での日々を過ごすち、ジャレッドの中ではプログラムに対する不信感の方が高まっていく。

我慢の限界を迎えたジャレッドは、母に助けを求め、施設を後にするが、牧師である父はそのことに不満を持ち、父子の間には溝が残る。

見る前ポイント

「ゲイを治療する」という問題含みなモチーフを扱っている。互いに相容れない価値観を抱えてしまった父と子の葛藤。特定の価値観を押し付けてくる集団生活のキリキリとした緊張感。大団円ではないが希望のあるストーリー。

レビューの印象

高評価

  • 「このような事態が現実に起きているのか」という驚きがあった
  • ゲイに対する様々な視線や苦悩が描かれていて考えさせられた
  • 「正しさ」をめぐる人間関係が感情の機微を通して描かれている

低評価

  • 描かれている問題は興味深いが、ストーリーが単調で退屈
  • 矯正治療の描き方が表層的でリアルに感じない/もっとひどい
  • 時間が飛び飛びで分かりにくく、ラストも含め曖昧なドラマに感じる

ナニミルレビュー

この映画の面白さを3つに分けるなら、
・「転換プログラム」のスリラー
・父・母・子の家族ドラマ
・ゲイである主人公の思春期ドラマ(回想シーン)
に分けられると思う。

同性愛が一般的なことだと考えられている現代、さらにキリスト教に思い入れがない人(多くの日本人)からすれば、このプログラムの異様さは「分かりやすい悪」としてエンターテインメントたりえる。

施設での様子はミステリアスかつスリリングで、ハラハラとさせる展開は観客をグッと惹きつける。

その面白さに加えて、家族ドラマがある。

ゲイという存在を認められない父と子の葛藤は、単に父が頑固というだけではなく、彼が信仰に熱い「善人」であることで、興味深くなっている。

単なる善悪の対立にならず、父子が愛し合っているからこそ、「自分の人生を貫くある価値観」を乗り越えるのがどれほど難しいのか、と想像させられる語り方になっている。

父を単に悪者化しないことで、このストーリーが、「ゲイ」や「キリスト教」という個別的な話に閉じることを防いでいる。

父に共感の余地があることで、「信念とその矛盾」という誰もが持ちうる葛藤に寄り添い、想像力を働かせれば、父の苦悩を自分事として考えられる内容になっている。

個人的にとても意識させられたのは、「宗教」のような大きな問題と、「家族」という目の前の問題が対置されたとき、人間は本当の意味で信念を問われるのだ、ということだった。

障害がなければ、なんだって信じられる。抽象的な正義なら、誰でもが語り得る。

自分と深い関わりがない他人に対しては、その抽象的な正義を押し付けることも可能だろう。簡単にルールに従えと言ってしまえるだろう。

しかし、自分の愛する家族が、自分の正義に反する存在となったときに、その「正義」は本当の意味で問われるのだと思う。

端的に言えば、父はキリスト教の「教え」と、息子の「尊厳」を天秤にかけることになる。絶対だった「教え」が揺らぎ。「教え」に従うことが苦痛になる。

ストーリーの結末では、父と子の関係は完全には破綻せず、希望を持たせる終わり方になっている。そこが非常に良かったと思う。

また、家族の話とは別に、大学生になった主人公ジャレッドが、だんだんとゲイである自分の本性に従うように行動し、その中でいろいろな経験をしている様も描かれる。

「矯正」施設スリラー

映画冒頭は、暗い雰囲気の中、青年が自宅を離れ、施設に入所するシークエンスから始まる。

映画のあらすじを読んでいれば、この施設が同性愛を「治す」ことを目的とした異様な施設であることが想像できる。

だが、単に映画だけを見た場合、この施設が何であるのかは分からない演出になっている。

素朴に見れば、遠く離れたよく分からない施設での生活が始まる、という漠然とした不穏な空気だけが伝わってくる。

受付で母が見学したいと申し出ると、それは不可能だと断られる。「いつでも電話して」と見送る母の言葉に対し、受付の男は「電話は預かる決まりになっている」と言う。

よく分からない施設で、こちらの要望が全て却下される。

このようにして、当事者であるジャレッドと、母、両方の不安を、観客が共感できるように描いている。

この冒頭で印象付けられるのは、この施設が「全く不透明な空間」であることだ。

中に入ると、携帯電話や創作用のノートなど私物を次々奪われる。その後、厳しいルールの読み合わせ場面を挟んで、ジャレッドは不安な面持ちで集会部屋に入室。

その後ようやく、「私は性的な罪と同性愛によって神の形の空洞を埋めた」と言うセリフによって、この施設の価値観が明確に示される。

この辺りで、「ああ、ヤバい施設だ・・・」と多くの観客が感じるはずだが、同時に、何か「正常な感じ」も同時に描かれていると感じた。

例えば、受付で「お迎えは夕方5時に」という情報を見せることで、軟禁されるわけではなく、通う形の施設なのだと分かる。

また「12日間のプログラム」だという説明があることで、何はともあれ12日後には解放されるのか、という安心材料もある。

さらに、自称セラピストのサイクスからの初スピーチは、自己啓発っぽい怪しさがありながらもそれなりに説得力がある。

「傷ついても価値は失われない」「破れたら貼り直せばいい」という言葉それ自体は真っ当なものであり、表層的にこの言葉を聞く限りは、ついつい納得してしまうスピーチになっている。

(もちろん、ここで言われている「価値」が「異性愛者であること」なのだから、このスピーチの内実は全く真っ当なものではない)

この「真っ当さ」を裏付けるため、スピーチを聞くジャレッドが熱心に話を聞き、軽く頷く様子を見せている。

サイクスは1ドルを聴衆の1人に渡し、軽く冗談を言って笑いをとる。

この場面では、彼が頼りになるいい「先生」のように振る舞っている。

その次、「男らしさ」を強化する軍隊っぽいキャンプが行われる。これはどう考えても今の感覚からするとズレている。

しかし例えば「できるまでは、できるフリをしろ(Fake it till you make it)」というセリフは、サイクスのスピーチ同様、それなりに説得力がある。

また、握手を拒んで敬礼をした青年に対しては、その意志を尊重する態度を示すことで、完全な押し付けでない様子を示す。

さらにダメ押しとして、ホテルの部屋に帰ったジャレッドが、鏡の前で「男らしいポーズ」を練習するシーンが描かれる。

このようなシーンがちょこちょこ挟まれることで、最初の「異常だ」という印象が少しずつ薄れてくる。

もちろん、観客の目から客観的に見ればこの施設は異常である。しかし、その内部にいる人々にとっては必ずしもそう感じないのかもしれない、という雰囲気を同時に描いている。

この半信半疑の落ち着かない感じが、ジャレッドと母の視点によってうまく体現されている。

話が逸れるが、この映画は、なぜこの施設を一面「正常な感じ」に描いているのだろうか。

言い換えれば、この施設がやっていることを頭から完全に「異常なこと」と描かなかったのはなぜだろうか。

恐らくそれは、問題提起としての機能をより高めるためだと考えられる。

エンドクレジットでも語られるように、このような施設は過去のものではなく、少なくない人々が、今でも「治療」を求めてしまう現実がある。

この映画で施設の「正常な感じ」を描くのは、そのように「治療」を求める人々にも寄り添う気持ちがあるからではないかと思う。

つまり、この施設を単に「異常なこと」と描くだけでは、人々の間に壁を作り、その施設を批判する人が、その施設を利用する人を断罪することにしかならない。

それでは敵・味方を作ってしまうだけであり、問題解決のための問題提起というより、誰かを攻撃するための問題提起となってしまう。

だから、この映画では、この施設に希望を持ってしまう人々の感情も同時に描くことで、単なる断罪を避け、施設利用者への理解をある程度は促す作りにしている。

そのために、ジャレッドは最初「治療」にそれなりに前向き(少なくともそう見えるように描かれる)だし、「治療」を勧める両親も、良い両親として描かれる。

公式ホームページには、原作者であるガラルド・コンリー氏の「問題は、この種の偏狭さが、心の底では愛し合っている人々の間でも絶えず生み出されてしまっていること−。」というコメントが書かれている。

この言葉を見てもわかるように、そもそもが、「”悪者”がこの偏狭さを生み出しているのだ」という視点から書かれたストーリーではないということが分かる。

だから、端々に正常さを感じさせるこの映画の演出は、かなり重要なポイントである。

話を戻すと、「正常な感じ」が描かれつつも、もちろんストーリーが進むに従って、この施設の危なさがだんだんと明らかになっていく。

まず、初日の帰り、私物を受け取るとジャレッドがノートに書いたストーリーの一部が破り捨てられている。

「単なるストーリーなのに」と憤るジャレッドに、職員は「それはサイクスが決める」と答える。

(深読みすれば、この「単なるストーリーなのに」というセリフは、この施設で教育の核になっている「聖書」を暗に批判しているとも考えられる。聖書は絶対視され、ジャレッドのストーリーは破り捨てられる)

初日が終わり迎えを待ちながら、ジャレッドはこのプログラムに熱心に取り組んでいる青年に話しかける。

そこで、このプログラムはあくまで予備プログラムであり、治療が必要なものは「家」に移り住み、本格的な治療を受けるのだと説明される。

ここでは、最初の安心材料であった「12日間」という情報が覆される。

また、キャンプの際、ボールで頭を打った少年の両親が施設に怒鳴り込んでくる。

これによって何かが改善されるどころか、サイクスは治療内容を外部に漏らすのは禁止だというルールを破った少年の行いを責め、その他の参加者にも口外しないよう怒鳴りつける。

サイクスは、最初の「頼りになる先生」というイメージが覆され、独裁的な詐欺師のような雰囲気をまとっていく。

そして、個人面談。ジャレッドは大学で扱う本を否定され、大学に行くよりこの施設で過ごす方が有益だと諭される。

そこでは両親とサイクスが自分の知らないところで情報共有している事実が明かされる。

施設に怒鳴り込んで息子を守った例の両親の姿とは裏腹に、ジャレッドの両親はサイクスに自分の秘密を明かしていた。

その後は他の参加者との関わりが描かれる。

ジャレッドは、青年キャメロンに対して優しく振る舞い、熱心な青年からはその優しさを「真剣さが足りない」と咎められる。さらに優等生かと思われていたある青年が、実は口から出まかせで施設からすぐ出られるように振る舞っていることも知る。

その後、キャメロンに対する虐待じみた場面を目の当たりにし、さらに「家」に送られたサラの姿を垣間見る。

ジャレッドは、自分の罪の告白についてサイクスに咎められ、「父を憎んでいると言え」と責められたことにブチ切れ、ようやく施設から出る決意をする。

ここからハラハラとする脱走シーンが始まる。

ここまできても、ジャレッドを抑えようとした職員をサイクスが「手を出すな」と言って止めるという、分かりやすい暴力は振るわない「正常っぽさ」を描いている。

何はともあれ、最後はキャメロンの助けを借りてジャレッドは施設から抜け出す。

このように、矯正施設はスリラーとして描かれる。

客観的に見れば、(親の勧めとはいえ)自分の意思で入所し、最後は(かなり抑圧的な雰囲気はありつつ)、明確な暴力を振るわれる等はなく、母の迎えで施設から離脱している。

ある意味、ある施設に入所して、途中で離脱した1人の青年の話であって、必ずしも「危険な体験」とはいえない。

しかし、実質的にこれは危険な体験だった、ということを、このスリラー演出で描いている。

父の信念と子のセクシャリティ

先にも書いた通り、この映画では「治療」を求める人の気持ちに一定の理解を示している。

そして、そのような人の象徴として存在するのが牧師である父である。

主人公は父親が自分のセクシャリティを受け入れられない気持ちもそれなりに理解できるからこそ、施設への入所に同意したわけだし、先に書いた「正常な感じ」も、父の感性に対する理解の延長として演出されているはずだ。

この父について重要なのは、彼が「カッコいい父親」として描かれていることだ。

「彼女の家に泊まってもいいか」とモジモジしながら尋ねるジャレッドに、「そうやって大人になっていくんだ」と語り、バスケの打ち上げの際には車をプレゼントしている。

ここでは父を粋な存在として描いている。

つまり、彼がいわゆる「頑固親父」ではない、ということが印象付けられている。

父は熱心なキリスト教徒で牧師だが、とはいえ時代に取り残された人間ではない、というのが、この回想シーンが差し込まれている意味だろう。

「宗教に熱心=時代錯誤」というステレオタイプな見方を退け、その上で、父がジャレッドの同性愛を受け入れられないという現実を、もっと厄介な問題として掘り下げる意志があったのだろうと考えられる。

ジャレッドにとって自分のセクシャリティが重要であるように、父にとってはキリストの教えが重要なのである。

現代の(特に日本人の)感覚からすれば、「個人のセクシャリティ」と「宗教の教え」では、前者の方が優位と感じる人が多いだろう。

しかし、そのような見方だって暴力的といえば暴力的なのであって、現在の常識やマジョリティの意見によって、誰かの信仰を簡単に無価値なもの、悪いものとして貶めていいはずがない。

この映画が良いのは、今の感覚では「悪」と断罪されかねない価値観を持つ人物が「愛すべき父」であることによって、そのような安直な暴力性を回避していることだ。

「施設vsジャレッド」という単純な構図の間に、父(もちろん母も)を置くことで、マジョリティによる「みんなにとっての正義」の暴力にブレーキをかけている。

父にジャレッドのセクシャリティを否定することが許されないように、父の信仰や、長年の情熱を否定することも、簡単に許されるべきではない

そして、父がジャレッドにとって「良き父」であったことも、また否定されない。

というのも、ジャレッドが最終的に施設を出る決心をするのは、「父への憎しみをぶちまけろ」とサイクスに詰め寄られ、それにキレたからだった。

ジャレッドは「父を憎んでいない」と反論することでサイクスの矛盾を突き、この「治療」プログラムから降りる。

ジャレッドを施設に送り出したのは確かに父だったが、同時に、ジャレッドが施設の論理に屈しなかったのは、「絶対に父を憎んではいない」という確信だった。

父が「良き父」だったからこそ、ジャレッドは自分を守れたのだ。

そこに事態の両面が端的に現れている。

この厄介さが噴出するのがラストの父子会話シーンである。

ここで2人の間にある問題がかなりクリアに整理され、父には重い選択が突きつけられる。父は「努力する」とだけ言う。

そして、ジャレッドも父をクリスマスに招待し、関係を繋ぎとめる努力をする。

仲直りでハッピーエンドとはいかない、スッキリとは解決しない終わり方である。

しかし、そこに誠意がある終わり方だと思う。

父はジャレッドのセクシャリティをまだ認められないが、彼が教会での説教に使っているペンをジャレッドに渡す。

つまり、これからの世界で人々を導くべきは、自分のような価値観の人間ではなく、ジャレッドの方なのだろうという気持ちがそこに現れている。

父は、自分自身が変わることは難しいと思っているけれど、しかし社会はそちらに行くべきだと感じている。

そこに父の誠実さを感じることはできる。

意味合いとして重要なので父の話ばかりしているが、ストーリー的に重要な役割を果たすのは母の方である。

ストーリーを通して、ドラマチックな変化を果たし、ジャレッドを施設から救い出すのは母なのだから。

サイクスとの個人面談の日、ジャレッドは帰りの車内で不機嫌になり、母に不満を漏らし、ランニング中に広告ポスターに怒りをぶちまける。

ここで母との信頼関係が切れるかと思いきや、部屋に帰ると母は施設で使うノートを勝手に読んでいる。

これは、プライバシーに勝手に踏み込むという意味では施設の職員がやったことに等しいが、内実は全く違う。

なぜなら、母のこの行動は息子を思う愛ゆえに生じた行動だったからだ。

このように書くと、「愛ゆえの行動ならなんでも良いのか」という感じもするが、もちろんそうではない。

父がジャレッドを施設に送り込んだのも、恐らく愛ゆえなのだから。

この映画を見ていて思うのは、「愛ゆえだから良い」「宗教だから悪い」という形式的な判断ができない現実だ。

ある時にはプライバシーの侵害であり、ある時は子を守るための監査である。

常に内情を見るべきだと思わされるし、そして、そのことがセクシャリティに関して、この映画が観客に訴えるメッセージでもあるのだと思う。

母との印象的な会話として、ドライブ中に窓から腕を出す描写がある。

ジャレッドが腕を出すと母はそれをやめるように言う。母はそれによって事故で腕を失うかもしれないと心配してジャレッドを注意するのだが、ジャレッドは「本当にそんな事件があったの?」と訝しがっている。

これは「迷信」の象徴だ。

本当にそんなことがあるのかどうかは分からないが、そうだと思えること。そう思うことによって人々の行動を抑制したり、他人に行動を改めさせたりする原動力になるもの。

つまりは「同性愛は悪いものだ」という思想のようなものとして、この窓から腕を出す行為が描かれている。

だから映画のラストシーンは、ジャレッドが窓から手を出して車を運転するシーンで締め括られている。

ジャレッドの成長

対外的な問題を通して、ジャレッドの内面の成長も描かれている。

序盤の教会のシーンで、父の説教に合わせて聴衆が手を挙げるシーンがある。ジャレッドは、周囲の人々が全員手を挙げるのを見た後に、遅れて手を挙げている。

このシーンで、ジャレッドが周囲を気にしながら生きているタイプの人間だとわかる。

さらにいえば、ジャレッドはゲイであるにもかかわらず、高校で女性と付き合っている。

ジャレッドは、自分を押し殺しながら生きている。それがジャレッドの弱さで、このストーリーでは、それが「ゲイの否定」と対応している。

成長前のジャレッドは、その弱さゆえに父の提案を聞いて施設への入所を了承し、プログラムに真面目に取り組む。

施設での日々により、自分が気にしていた「周囲」の欺瞞を目の当たりにし、サイクスに反論することで弱さを乗り越える。

とはいえ、同性愛を扱った映画でありながら、セクシャリティに対する葛藤は弱い。

もちろん葛藤はある。

ジャレッドは、施設入所後はそれなりに「治療」に熱心であるようなそぶりもみせる。

だが、入所前の医師とのカウンセリングシーンを見ると、この葛藤を強く描こうとしてはいないことが想像される

そこで医師は「あなたは正常だ」とジャレッドを勇気づけている。

ジャレッドはこの時点では訝しげな顔をしてはいるが、彼は入所前から、自分のセクシャリティについて正当性を得ているのであり、それはクライマックスに向かって確信に変わっていくとはいえ、大きく変化することはない。

つまり、ジャレッドは最初から最後まで自分のセクシャリティについて大きく考えを変えることはないわけで、観客の中に「ドラマが弱く退屈」と感じる人がいるとすれば、それはこの変化の小ささが原因かもしれない。

この映画で描かれるジャレッドのセクシャリティに関する葛藤は、「違和感から確信」というくらいの変化であって、あまり大きな変化ではない。

先にも書いた通り、父との葛藤がメインだと考えるなら、ジャレッドのセクシャリティはこのメインの葛藤の前提でなければいけないので、ジャレッド自身が自分のセクシャリティについて思い悩むという要素は本筋ではないからあまり描かれていないのだと思う。

関連作品

そして父になる

受け入れ難い現実を前に、自分の価値観を問い直される男の成長を描くストーリー

セッション

大学で異常な講師に出会い、変わっていく息子と息子思いの優しい父

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特殊な信念を持った父とその子供たちの信頼と葛藤のストーリー

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親の理想像に反発する少女と母の葛藤を描くストーリー

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恋人に先立たれたゲイの大学教授が自殺する最後の1日を描いたストーリー

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ジーザス・キャンプ〜アメリカを動かすキリスト教原理主義〜

同監督作品

ザ・ギフト

ドラマ

ホームカミング(シーズン1) -巨大なミステリーに見せかけた、ある個人の贖罪ドラマ-

概要

主人公ハイディは帰還兵の社会復帰をサポートする施設で働くケースワーカーだったが、すでにこの仕事を辞めており、その施設自体もすでになくなっている。

ハイディが職を辞してから4年後、国防省のカラスコはこの施設に関する苦情をきっかけに、施設の実態調査を開始。ハイディを訪ねるがハイディは口を閉ざし、謎が深まる。

実はハイディ自身にも当時の記憶がなく、カラスコとハイディ、両者の視点から、過去この施設で何が起きたのかに迫っていく。

レビューの印象

高評価

  • 静かなドラマを上手い演出で撮り、派手さはないが温かな結末
  • 不穏な演出で描かれるさまざまな謎にひたすら興味を惹かれながら見られる
  • 帰還兵についての問題を考えさせられる

低評価

  • PTSDの描き方など、設定優先で不誠実に感じるところがある
  • 無闇に謎を引っ張る演出のわりに、結末が陳腐・予想を下回るもので肩透かし
  • 全体的にモタモタした印象で、内容のわりに長い

ナニミルレビュー

演出の面白さが際立ったドラマだと思った。

同時に、このドラマを最後まで見ると、肩透かしを食うかもしれない。

というのも明かされる謎が想像以上にしょぼいというか、国家が関わる陰謀じみた出来事をモチーフとしているわりには、こじんまりとした結末を迎える。

すごくミニマムで、「ああ、なんだそんなことか」と思って見終わる程度のお話なのだ。

じゃあそれがつまらないかと言えばそんなことはない。いや、そう思う人もいるだろうけど、ぼくは面白かった。

まず、最初はとにかく、不思議な雰囲気と不可解な出来事の連続で、調査をするカラスコと共に「何が起きたんだ?」というミステリーにどっぷりつかれる。

中盤以降、ことの実態が分かってきてからは、それぞれの思惑がからまるサスペンスとして展開していき、シンプルな敵味方の攻防になるのでそれも面白い。

教科書的な面白さのある作品だからこそ、結末の小ささが特異に感じる。

というのも、この設定で、この語りのうまさであれば、いくらでも話を大きくすることはできただろう、という感じがするから。

主演も大物ジュリア・ロバーツだし、もっとハリウッドっぽい、いかにも大げさなストーリーになっていた方が自然な感じがする。

そのポテンシャルを感じるからこそ、「あえてミニマムなストーリーにしているんだな」という気がぼくはした。(かなり好意的なバイアスがかかっているとは自分でも思う)

すごく大きなストーリーに見せかけて、実は主人公ハイディの小さなドラマをメインに描いている。

実質的なストーリーの小ささと、設定の非現感(大作感)のギャップが不思議な作品で、新鮮さがあって面白かった。

(以下、ネタバレ)

このドラマ、ルックの良さとはうらはらに、けっこうB級感がある。

設定も取ってつけたようだし、必ずしも説得力があるとはいえない行動や、ご都合主義な展開も多い。

「ふと気になって探したら証拠が出てきました」みたいな、視聴者がストーリーを投げ出すパターンのやつだよっていうところもある。

主人公ハイディに記憶がないのも「記憶を消す薬があった」という、意外性が最も希薄なもので、この施設の目論見も大変分かりやすく悪者的。そして黒幕も大きすぎず、問題も根深すぎず、終盤になるとわりとあっさりと解決していく。

そのあたりからして、このドラマは、この「事件」の面白さや、解決に至る知的興奮、悪役を倒すスカッと感を全力で描こうとしているわけではないだろう、と想像できる。

ミステリーを引き起こす事件は、あくまでハイディのドラマを描くためのベースであって、ミステリーやサスペンスがメインの作品ではないのではないか。

にもかかわらず、演出によって、そこが面白さであるかのように、また設定もすごく考え抜かれているかのように錯覚してしまう。

それはすごいんだけど、冷静に見ると、肝心の事件自体はいろいろめちゃくちゃな展開が多い。やろうと思えばつまらないツッコミはいくらでもいれられると思う。

だから、そこに重きを置いてみると、見終わってイラつく人の気持ちも分かる。でもぼくは面白かったので、そこの面白さではない面白さがあったんだと思ってレビューしている。

では、ぼくがメインだと考えているハイディのドラマは何か。

それは彼女の贖罪だ。

この施設の真の目的は、帰還兵のトラウマや辛い記憶を消し、再び兵士として戦場に送り込めるようにすることだ。

施設を運営する企業ガイストは、記憶を消す薬を開発しながらその施設で実験しており、ハイディはこの事実を知らずにカウンセリング業務を行っていた。

だが働くうちに実態が分かり、自分のせいである兵士の記憶が失われたと知る。

ハイディは自身もその薬を摂取し、仕事を辞め、そして4年が経っている。

だから、ハイディには施設での記憶がなく、それによって、ドラマ前半のミステリーが成り立っている。

探偵カラスコの調査によってハイディはこの過去に向き合うことになる。

ストーリーを通して、ハイディは記憶を取り戻し、施設の責任者に接近していく。

この設定であれば、兵士を搾取する国家をハイディが告発する展開とか、そもそもハイディの記憶ももみ消しのために強制的に奪われたものであるとか、どんどん敵が強大になってどうにもならなくなるとか、そういう大きな話を期待すると思う。ぼくは期待した。

しかし、このドラマはそういう「大きな力」とはほぼ無縁で、ハイディの敵は自分勝手な小金持ちの元上司。あまりにもしょぼい男である。

探偵カラスコも熱意をもって事件を調査しているわけではなく、なんとなく調べ始めたら気になってやめられなくなった、という程度であり、カラスコはあきらかにストーリーを推進させるためだけに存在しているキャラクターだ。

カラスコがいなければハイディや敵役が行動するきっかけがないから、狂言回しをしているだけっていう感じ。彼の推理が面白いという場面は基本的にない。

ドラマ最大の謎であるハイディの記憶の欠如も、彼女自身が罪の意識から自分でやったということで、個人を圧倒する巨大な力なんて何もなかった。

一応、このしょぼい上司はクライマックスでちゃんと社会的制裁を受けるので、そういう意味では悪者退治はしている。だが、退治してそれで大満足っていうほどの悪者では、そもそもないのだ。

では、結末はなにかというと、ハイディが記憶を消してしまった青年(つまり被害者)のもとを訪ねることが、最後の結末になっている。

そう、このドラマが描きたかったのは恐らくここで、悪を滅ぼすことではなく、ハイディが自分の罪に向き合うことである。

すごく大きな話に見せかけておいて、実はストーリーの核になっているのは、このハイディの「彼に謝りたい」という、すごく個人的な、小さな感情と良心。その実現なのだ。

これは、個人的にはすごくいいと思った。

ハリウッド的な大きなストーリーを語るテクニックを存分に使って、視聴者にその期待感を持たせつつ、そのうえですごく小さなドラマを最後に見せる。

視聴者は、とかく大きな話、最強のヒーロー、倒せない巨悪、大スペクタクルを期待しがちだけど、いやしかし、こういう小さな個人の良心にこそ注目すべきでは、と言われているような感じがした。

大きなストーリーを期待させ、それをあえて裏切り、対比的に小さなドラマに注目させる。普通に考えて、下手したらしょぼいと思われかねないやり方だと思う。

大きなストーリーはあくまでハッタリだから、別に無理やりな展開があっても、ご都合主義があっても、それは重要ではない。逆に、そんな無理やりな展開ですら、演出のうまさがあればカバーできてしまうことも示されている。

大きな話の目くらましではなく、小さな個人の本心を最後に持ってくる。

感情が伝播して、個人の感情が大きなストーリーと結びつきやすいSNS社会の今、逆に大きなストーリーの中の小さな個人の感情を拾い上げる構成をとっている。

なるほど、こういうストーリーの作り方・見せ方もあるんだなと、とても興味深く見た作品。

レコメンド作品

ブラック・ボックス

記憶喪失の状態から、回復につれて自責の念に囚われる男のストーリー

約束のネバーランド

映画

マーキュリー・ライジング -設定は面白く、王道アクションサスペンスの強さはあるが、ストーリーがおろそか-

概要

NSA(アメリカ国家安全保障局)が作り出した暗号「マーキュリー」が、9歳の自閉症の少年サイモンに解かれてしまう。

NSAのクドローは、自身の手がけた計画の失敗が明るみになることを恐れ、秘密裏にサイモンを殺害しようと画策する。

クドローの送り込んだ殺し屋に殺されたサイモンの両親。その事件現場で隠れていたサイモンを見つけたのは、FBIで閑職に追いやられていたアートだった。

保護された病院で殺し屋に狙われるサイモンを、危機を察知し、駆けつけたアートが助ける。しかし、FBIはサイモンが狙われていることを信じず、アートは逆に指名手配されてしまう。

自閉症で上手くコミュニケーションが取れないサイモンをつれ、アートは事件を調査しつつ、サイモンが狙われる真相に迫っていく。

見る前ポイント

権力者の悪人と子供を守ろうとするFBI捜査官という明快な構図。ヒロイックな男が悪を打ち倒す王道ストーリー。上手くコミュニケーションが取れない子供と正義感の強いおじさんコンビ。追い詰められつつも周囲の人に助けてもらいながら真相に迫るサスペンスアクション。

レビューの印象

高評価

  • 自閉症の難しさと、それを見守る温かい目線が描かれている
  • 主人公のぶっきらぼうだが優しいキャラクターが魅力的(ブルース・ウィリスのハマり役)
  • 巨悪vs正義漢の王道ストーリーに、予測不能の自閉症の子供を掛け合わせた面白さがある

低評価

  • 登場人物たちの行動(特に悪役)に説得力がない
  • 暗号や自閉症、NSAなどの要素をむりやり組み合わせた、企画優先な印象
  • 国家機関が関わる話のわりに、スケールが小さい

ナニミルレビュー

・国家のために個人を殺そうとする国家機関VS個人を守るFBI捜査官。
・自閉症の子供と正義感は強いがちょっとガサツな中年男のコンビ
・国家が作った難攻不落の暗号を、9歳の少年が解いてしまうという事態

王道の対立をベースに、ギャップのある登場人物の組み合わせと、意外性のある事態をきっかけとしたストーリー展開。明快な設定で、乗りやすい映画だという印象。

退屈はしなかったけど、とはいえ「ここがすごく良かった」というポイントもなかった。

自閉症に対する啓蒙的な雰囲気があり、それは、このような明快な勧善懲悪ストーリーに組み込むのはアリだと感じた。その意味では何も残らない映画だとは思わない。

国家 VS 個人?

国家機密を守るため、殺し屋が罪のない少年を殺しにくる。

という大筋のストーリーを読むと、「国家VS個人」の映画なのかな、と思うのだが、実はこの映画はそうではない。

というのも、この映画の悪役は、あくまで自分の失態(暗号を破られた)を隠そうとするクドロー個人ということになっており、同じくNSAで働く彼の部下たちは善良側にいる。

だから「NSAという組織は必ずしも悪くないが、クドローは悪い」という構図になっていて、それはつまり、「国家権力は必ずしも悪くないが、その中に悪い奴がいた」という構図になっているということだ。

また主人公アートが所属するFBIも、終盤まではアートを助けることはしないから、NSAはダメだけど、FBIは良いということでもない。

つまり、国家機関が出て気はするが、国家を揺るがすような話は何もなく、実際には個人VS個人の意外とこじんまりした話になっている。

アートの内面ドラマは上手くいってない

アートのキャラクターとして、過去に行った潜入捜査で青年を死なせてしまい、そのショックが未だに彼を苦しめている、という設定がある。

この映画冒頭は、その潜入捜査の末路である銀行強盗のシーンから始まる。

正直、本筋とは直接関係のないエピソードを、ここまでしっかり描く手法は、今見るとやや変に見える。

ただ、冒頭の引きとして緊張感のあるシーンを見せつつ、正義感の強いアートの性格とその挫折を描き、これくらいの残酷なことが起こる映画だと観客に分からせる意味では、手法としてそれなりに機能していたんだろうと思う。

にしても、やはりストーリー的にはなくても(もしくは会話の端々に匂わせる程度で)成立する程度のエピソードであって、やっぱり、今現在の感覚で言うと蛇足に感じてしまう。

なんにせよ、アートはこのように挫折を経験し、さらに現在では閑職に追い込まれている、という不遇のキャラクターである。

それ自体はキャラクターの魅力に繋がっていると思う。

また、若い命を救えなかったというアートの自責の念は、周囲が反対しても、サイモンも救おうともがく動機付けにもなっている。

アートは過去の苦い経験を清算できないまま、「薬」(恐らく精神安定剤)を飲んでそれをやり過ごしている。

サイモンを救うストーリーを通して、アートはその薬を手放し過去を乗り越える、というのが恐らく作り手がやりたかったことだと思われる。

しかし、このアートの内面ドラマはかなり上手くいっていないと個人的には感じた。

サイモンとの行動中、コミュニケーションの成立しないサイモンとの会話にぐったりと疲れたアートは、薬を飲んで車中で眠る。

起きると、サイモンがおらず、アートは無責任な自分の行動を反省し、持っていた薬を車外に捨てるというシーンが印象的に描かれている。

この展開だけを見れば、アートの内面の変化にはそれありに説得力がある気がする。

だが、実際のストーリーで描かれる変化は説得力がない。なぜなら「薬」と彼の反省が上手く絡んでいないから。

というのも、サイモンを見失ってしまった原因は、「薬」を飲んだことではなく、眠ってしまったことだ。

アートが「薬」を飲んだせいで眠ってしまったのであれば、起きた後、薬を捨てる描写には説得力がある。

しかし、アートはただ疲れていたから眠っただけなのであり、薬は関係ない。

なぜそう言えるかというと、アートが自室で「薬」を飲むシーンがもっと手前で描かれているが、アートは「薬」を飲んだ後、眠ることなくバーへ出かけている。

さらにいえば、そのバーからサイモンの居る病院へ向かい、結果的にサイモンを救っている。

つまり、この「薬」に眠りを促す作用はない。むしろ彼の精神を安定させ、次の行動へと移らせる良い作用を果たしている。

だから、車中でアートが眠ってしまったことと、この「薬」の作用とは特別な関係はなく、アートが反省の証として「薬」を捨てるシーンには、なんの説得力もないのだ。

また、アートの内面の葛藤はこのシーンであらかた乗り越えられたことになっているが、「青年を救えなかった」苦しみを乗り越えるドラマにするのであれば、それは「サイモンを救えた」という場面で克服させるべきであるはずだ。

しかし、アートが「薬」を捨てるのはサイモンを探している途中であり、克服のタイミングとしてはかなり中途半端なタイミングである。

それに、青年を死なせてしまったことに心痛めているのであれば、自分に事情を説明しに来た若いNSA職員が目の前で殺されたことにも、もっとショックを受けるべきなのでは?と思ったりもする。

とにかく、サスペンスアクションと並走して描かれているアートの内面ドラマは、蛇足な冒頭シーンに始まり、とってつけたような悪夢と「薬」というアイテムで描かれ、中途半端なタイミングで、なんの説得力もなく克服される、という残念なものになっている。

サスペンス

本筋のサスペンスアクションはどうか。

・サイモンがNSA暗号を解く
・自分たちの作った暗号に問題があったとNSA職員が上司クドローに報告
・クドロー、サイモンを殺そうと殺し屋を派遣するも失敗
・サイモンは保護されるが、警察内部も信用できない
・アートは殺し屋の存在に気づき単独でサイモンを連れ逃げる
・一時サイモンの家に帰った際、アートはNSAとの繋がりに気づく
・NSA職員の協力もあり、アートはクドローが黒幕だと暴き、サイモンの安全を求め交渉
・クドローは交渉を飲むかに見せかけて裏切り、アートと決戦ののち、アートがクドローを殺す

シンプルな筋書きだが、観ているとやや不明瞭な印象がある。

というのも、クドローが黒幕なのかどうかは、かなり終盤まで分からない語り口になっている。

一応、クドローが黒幕だと示唆されるのは、NSA職員が殺されたからだ。しかし、それも観客からするといまいちピンとこない。

恐らく、アートと落ち合う連絡を盗み見れたのはNSAだけなので、そこで殺された=裏でクドローが糸を引いている、ということなのだろうが、それはNSA職員の推理なのであって、ストーリー上で間違いなく観客が読み取れる推理ではない。

観客にとってクドローが黒幕だと明快に示されるのは、死んだNSA職員の恋人がアートに彼の書いた手紙を手渡すシーンでだ。

これはクライマックス前の1時間25分くらいの場面で、さすがに引っ張りすぎなのでは。

そして、最初からクドローが黒幕だと分かっていようが分かっていまいが、特にストーリー展開的にはなんの違いもないのであり、むしろ黒幕だと分かっていた方が殺されるNSA職員の動きなどをもっとハラハラしながら見られたはずだ。

だから、このクドローを明確に悪役だと分からせないこの映画の語り口は、失敗だと言える。

ヒッチコックは、サスペンスを作るためには観客には全ての状況を分からせなければいけないと書いていたが、この映画はそれに失敗している。

クドローが黒幕なのかどうかが曖昧であるのは、ミステリーとしては機能するが、サスペンスとしては機能しない。この映画はミステリーではなくサスペンス映画なのだから、クドローは最初から一貫して悪役として登場すべきだったはずだ。

そして、クドローを曖昧な立ち位置にしてしまったことによって、彼の行動も意味不明になっている。

例えば、両親殺害が報道された新聞を見せながら、クドローは「多くのアメリカ人の命がかかっているから、この件を早く解決しろ」とNSA職員に怒っている。

この時点ではクドローが言っていることは比較的まともであり、彼が悪役なのか、国家を案じるまともな人間なのかが分からない。

そうすると、観客としては、あの殺し屋はクドローとは関係がなく、他国のスパイか何かなのかな、と思って見進める。

しかし結局、黒幕はクドローなのであり、殺し屋はクドローの部下だ。

正直言って、結末から振り返って見れば、この辺のクドローの行動は意味不明である。あそこでクドローがNSA職員に事情を説明する必要はない。

殺し屋はその後もサイモンを追いかけ殺そうとしており、どちらかといえば、職員に対してはこれ以上事情を知られないように異動させる方が賢い。

結局、職員たちは再度サイモンからの電話を受け、アートと繋がり、クドローの悪事を告発しようとして殺されてしまう。

クドローがあの2人の職員に何をさせたかったのか、全く見当がつかない。

むしろ、このようなストーリー展開にするために、クドローは不自然な指示を職員に出している。つまり、ストーリーを優先するあまり、ありそうもない指示をクドローは出しているし、そのせいでなんだかよく分からない時間がしばらく続く。

観客が分かるのは、殺し屋が追いかけてきていることと、クドローが問題を揉み消そうとしていることだけ。普通に考えてこの2つは繋がるから、クドローが黒幕なんだろうと想像はつくのだが、だったら最初から明確に黒幕だと説明してくれと思ってしまう。

そして、アートの方もかなり行き当たりばったりだ。

例えば、なぜアートは病院でサイモンを助けられたのか。

アートはその前バーで酒を飲み、サイモンのカードをめくって見ている。

そこからは、なぜアートが病院に向かったのか、明確な理由づけは読み取れない。

もちろん、このカードをサイモンに返そうと思ったのかもしれないが、だったらしみじみとめくってみる必要はない。カードに書かれた「熱いから危ない」という文言を見て胸騒ぎがしたのかもしれないが、それも観客が確実に読み取れる感情ではない。

とにかくここで、アートはただストーリーの要請に従って、特に根拠なく病院に向かって殺し屋と対峙し、サイモンを助けている。

その後、NSA職員と繋がるのもサイモンが自室でパズルを解いたからだが、部屋に戻ったのはサイモンが帰ると言ったからだ。正直、追われているのにサイモンの家に帰るのは普通に考えて危険だと思うけど、とにかく帰る。

そして、サイモンはまた同じパズルをやり、同じようにNSA職員の元に電話をかける。パズル好きの少年が、一度解いたのと同じパズルやるだろうか、という疑問も生じる。

その後、ある女性に助けを求めるのも、たまたまその場にいたから、という偶然だった。

そして、アートはNSA職員が書いた告発文を持ってクドローと交渉しに行くのだが、正直言って、ここでクドローと交渉する意味がよく分からない。少なくとも彼は部下を殺しているのだし、観客からすれば普通に逮捕されるべき男である。

にもかかわらず、アートはサイモンさえ救えばこの件は口外しないと言っていて、観客の期待を裏切っている。

結局、クドローは告発文のことは何も気にせず行動しているわけだし、最後は説得されたFBIの上司の協力を得て、銃撃戦の末クドローは殺される。

いや、なぜ交渉シーンなんて無駄な場面を挟んだのか。

ストーリー的には特に理由も正当性もない。単に、こういうシーンを描きたかったんだろうな、という感想しかない。

このように書いていけば、この映画を見ていて、シンプルな王道っぽいストーリーなわりに、何か不明瞭さがある理由が分かってくる。

とにかく、理に敵わない展開が多い。撮りたい場面が先にあって、キャラクターをそのように行動させるために、根拠のない行動を取らせている。

いわゆるご都合主義というやつである。

良いところ

いいなと思ったところも書く。

まず、「NSA」とか「自閉症」とか、そういった言葉を観客に伝えようという意図を感じる映画である。

だからこそ、クドローはストーリー上必要がないにもかかわらず、NSA職員に向かって、自分たちのやっている仕事の重大さを語って見せたりするわけである。

これは明らかに、観客に対して、「NSAとはこういった機関なんですよ」と説明するためのシーンだと思われる。

また、自閉症に関しても、クドローが職員に怒るシーンで、「自閉症だからと言って知能が低いとは限らない」と説明さえたり、アートがサイモンを説明するときに、「普通の人とは違った見方をする」とか、「少し違うだけで、大体同じだ」とか、そのような啓蒙的な語りをしたり、周囲の人々を通して、自閉症の子供に対する接し方のお手本を見せようとしたりしている。

(ただ、心優しい両親があっけなく撃ち殺されるのは、正直どうかと思ったけどね。まあ、ストーリー上そうせざるを得ないのは分かるのだが・・・。)

これらの要素は、実際は浮いて見えたりして、あまり上手くいっているとは思わない。が、そういう何か伝えたいということがあって、それをストーリーに組み込んでいるのはいいなと思った。

また、一応ヒロインと思われるステイシーはとてもよかった。

正直、1時間を過ぎてから新キャラ出してくるなよ、と思ったし、彼女のキャラクターの掘り下げは不十分だと思う。かなりストーリーに都合よく登場している不自然さはある。

が、彼女の佇まいから、たしかに「無理なお願いを聞いて損をするタイプの良い人だ」というニュアンスが伝わっていて、とても良いキャラクターだと思った。

関連作品

アジョシ

一見何者でもない男が、知人の少女のために戦うストーリー

マイ・ボディガード

凄腕だが精神を病んだ男。男を立ち直らせた少女が誘拐され、復讐に燃える男のストーリー

ザ・シューター/極大射程

巨悪に嵌められた凄腕スナイパーが、黒幕に反撃していく痛快アクション映画

ダイ・ハード

孤軍奮闘するブルース・ウィリス映画

映画

ブラック・ボックス -身体と意識の分離による親子の再会ドラマ、意外性はないが丁寧なストーリー-

概要

交通事故で妻を亡くし、自身は記憶喪失となってしまったノーラン。一人娘のエヴァはノーランを献身的に支え、ノーランもエヴァを大事にするが、自然に父親として振る舞うことができない。

仕事も見つからず、エヴァにも負担をかける状況に追い詰められたノーランは、以前から新しい治療法を勧めてきた、少し怪しい医師の元を訪ねる。

彼女は催眠術とハイテク機器を使い、ノーランの意識を、彼の記憶の中へいざなう。

ノーランは自分が忘れてしまっていた過去の断片の中で、自分の記憶を取り戻そうと奔走するが、その過程で、自分が実は良き夫・父ではなかったのではないか、という疑念を抱き始める。

見る前ポイント

SF+オカルトでややホラー演出もある作品。ねじれた愛情によって引き起こされる事件を通した人間ドラマが主軸。結末はおおむね大体の観客が期待するであろう真っ当な方向へ向かっていく。既視感はあるが丁寧なストーリーテリング。ホラーシーンは少ないが、関節が外れたまま奇妙なポーズで向かってくる気味の悪いモンスターが出てくる。

レビューの印象

高評価

  • 登場人物の配置やストーリー展開が上手くまとまっており良いドラマ
  • 話が二転三転する面白さ
  • SF、オカルトにヒューマンドラマを混ぜた独自の雰囲気

低評価

  • テンポが悪く、恐怖感やハラハラ感が弱い
  • 内容に既視感がある
  • 主人公不在の未消化な結末に感じる
  • SF設定がデタラメすぎる

ナニミルレビュー

アイデアは既視感があるし、SF設定も浅い。結末も順当なものなので意外性や衝撃はない。

記憶喪失や、夢の世界(潜在意識/失われた記憶)の中に入り込むSF設定に期待するとやや肩透かしを食うと思う。

しかし、ストーリーが丁寧に語られていくので、ドラマとしてちゃんと面白い。

人間ドラマを描くストーリーの仕掛けとして、SF設定が利用されているんだな、という理解で見ると、ヒューマンドラマプラスアルファな映画として面白いのではないかと思う。

少なくとも、最後まできっちり描いてくれたな、という心地よさがある。

「この件はスルーして終わるのか?」という不安がちょこちょこあったのだが、エンディングまでにはそれらはしっかり回収されて、ちゃんと観客が期待していることを叶えて終幕していく感じが良かった。

また、物理的に会うことと、意識(自我)を通して会うことの差をストーリーに組み込んでいるのが面白い。

登場人物の行動で語っていく丁寧な演出

冒頭から丁寧さは感じられる。正直丁寧すぎてくどくも感じたが、逆に雑だったらガッカリ感しかない映画になっていたかもしれない。

例えば、「ノーランは記憶喪失」という設定を伝えるためにも、まずは家族のビデオを見てイラつく様子、その後ポストイットだらけの食器棚、娘による知人クイズ、鏡に映る自分の姿に違和感を感じるような表情、カーナビを使わずにドライブ、などなどのシーンを連続させて伝えていく。

これで、ノーランが記憶を失っており、そこから少し時間が経ち、新しく道を覚えたりするぐらいの状態ではあるが、まだ自我が安定していないんだなと、ひとつひとつ丁寧に観客に情報を伝えていく。

この合間で、本作のキーパーソンである医師リリアンからのメールや、ラストで回収される「三つ編みがゆるくしか結べない」という小ネタも前振りしていく。

この冒頭のシーンからも分かる通り、本作からは、とにかく「行動」によってストーリーを描こう、という意志が感じられる。

象徴的に、ラストでは、ノーランの記憶が戻ったことを示唆するのに、エヴァと複雑なハンドシェイクをやらせている。

正直、やや不自然には感じた。このラストシーン自体はいいのだが、その前フリのために中盤の下校シーンでハンドシェイクが上手くできないというシーンが事前に入れられていて、そこがやや冗長に感じるのだ。

だから「ああ、このラストのためだったのね」という感じで納得はするのだが、蛇足感があったのは事実だ。

とはいえ、でもそういう語りをやろうとしていること自体が良いなっていうのが個人的な感想。

ただ、あまりにも真面目にそれをやりすぎているがゆえにくどく感じる場面もある。

そのハンドシェイクもそうだし、例えば、娘エヴァに対しての感情の変化を描くために、「シートベルトを締めてあげる」という行動を使っている。

序盤では父娘の微笑ましい関係を描きつつ、中盤でノーランの態度が変わり、エヴァに自分でシートベルトを締めさせることで、2人の絆に傷が入ったことを表している。

これは、上手くいっていると思う。

しかし、この行動を見せなくても、ノーランの他の言動からエヴァに対する言い難い感情は十分伝わっており、そこにさらにこのシートベルトの行為を重ねることで、やや説明過剰になっているんじゃないかと個人的には感じた。

本作は、そういうレベルで丁寧だ。

SF設定の雑さと比べると、ドラマの積み上げはやたら丁寧で、SF部分はわりとどうでも良かったんだなと思わざるを得ない。

記憶云々のSF設定は、あくまで観客に興味を持ってもらうための売り文句であって、本当にやりたかったのはこの映画的な語りでドラマを描くことなんだろうなと、勝手に想像してしまう。

SFやホラーではなくヒューマンドラマ

(以降、大きなネタバレあり)

この映画が何を描いているのかと言えば、家族をめぐる愛と執着のドラマだ。

その家族ドラマを、記憶を失った主人公がそれを取り戻していく過程を通して、人間関係を少しずつ明らかにしながら語っていく。

記憶喪失の主人公を設定することで、最初からほぼ全ての登場人物(トーマスの前妻と娘以外)が出そろっているのに、その関係性がストーリーを通してだんだんと明らかになっていく(変化していく)面白さが描かれる。

この映画はSFホラーやミステリー等とジャンル分けされる映画であるだろうけれど、ストーリーの実質は家族関係を描くヒューマンドラマだと言える。

だからSF設定はその仕掛けに過ぎない。

中盤で明らかになることだが、主人公ノーランの意識は、実はノーランではなく、医師リリアンの息子トーマスのものである。

事故で脳死した(ということになっている)ノーランの脳に、保存しておいたトーマスの脳波を移すことで、トーマスの意識をノーランの体に移植したという設定になっている。

さすがにむちゃくちゃである。むしろ、「脳を移植した」とか言われた方がまだ納得できた。

もちろん、結末でノーランが復活するためにも、丸っと脳が入れ替わっていてはいけないというのはある。

また、移植ではなくダウンロードであることから、意識に関して面白い切り口も生まれてもいると思う。

脳移植には一回性がある。脳波ならば無限にコピーできる。

この映画に登場するトーマスは、一見、あの世から戻ってきた魂のようにも感じる。しかしそれは間違いで、あれは無限コピーできるデータの1バージョンに過ぎない。

(無限と言っても、この方法は生身の身体を必要とするから、かなり限度があるけれど)

なんにせよ、この映画は別にSFのリアリティを推す映画ではないので、個人的には、ここの荒唐無稽さはわりとどうでもいい。

むしろ面白いのは、脳波を使って息子を生き返らせた母親の執着や、ダウンロードから生き返ってしまったという状況の方だ。

「再会」親子ドラマ

(ややこしいので、記憶が戻る前と、エンディングの主人公は「ノーラン」、記憶が戻った後~エンディングまでの主人公は「トーマス」、と書く)

この映画は「親子が再会する」ストーリーを3つ重ねている。(ノーランとエヴァ、リリアンとトーマス、トーマスとその娘)

「再会」を通じて、「失われたものを取り戻したい」という人間の欲望を描いている。

リリアンは、亡き息子を蘇らせるマッドサイエンティストだ。その意味では異常だが、その根本にある欲望は、「記憶を失う前の父に戻ってほしい」と願うエヴァの欲望と同じものだ。

そして蘇ったトーマスが最初に行うのは、エヴァと別れ、残された前妻と娘に会いに行くことだ。

そこで面白いのは、リリアンやエヴァと違って、トーマスの前妻は再会を望んでおらず、そこでねじれが生じること。

そしてその理由はトーマスの生前のDVであり、これが序盤でノーランが自身の過去に不安を持って、記憶の回復に前のめりになる動機と連動している。

トーマスの精神的未熟さは、子離れできていないリリアンという母親を通して説得力のあるものとしても描かれており、そのリリアンによってこの事件が引き起こされている。

このあたりの登場人物の設定とストーリーの絡め方はとてもは上手いと思った。

また序盤からホラー要素として現れる関節バキバキモンスターも、トーマスの死に方と関わっており、それも生前のトーマス家のエピソードとして、つまりその家族の人間関係と関連してストーリーに組み込まれている。

こんな感じで、それぞれのストーリー要素が、ちゃんと家族関係や親子関係と関連してストーリー上に配置されており、それが中盤から終盤にかけてきっちり種明かしされていく。

こういうところにも丁寧さを感じられる。

エヴァの「父を取り戻したいという欲望」と、リリアンの「息子を取り戻したいという欲望」は、同じだと書いたが、ストーリー上では明確に善悪として区別されている。

何が違うかと考えてみれば、エヴァが求めるノーランは物理的に生きており、リリアンが求めるトーマスは物理的に死んでいるという違いだ。

(もちろん、他人の体に勝手に意識を移植するという悪があるのは大前提だが)

つまり、ここに「再会を諦めるべき別れ」と、「再会を求めてもいい別れ」の境界がある、という風にこの映画は語っている。

このことで考えさせられるのは、突き詰めて言えば、ぼくたちは人間を考えるときに、身体と切り離してその人を認識することを究極的には良しとしていないということかもしれない。

何度も書いているが、この映画のSF設定は荒唐無稽だ。だが、思考実験としては有用だし、そこに家族ドラマを重ねることで、抽象的な思考実験以上に、この問題について考えることを観客に促せていると思う。

主人公はDV男

ちなみに、この映画の主人公はノーランだが、実質的にはトーマスだと言える。

なぜなら、ラストで記憶が完全に戻るまで、観客が見ているノーランの中身はトーマスだからだ。

そのトーマスは、記憶を取り戻し、自分が妻によって殺された(ほぼ正当防衛)ことを知って反省し、ノーランの体から出て行くことを自ら選択する。

つまり、この映画で成長・変化するのはトーマスであり、その意味でも主人公はトーマスなのだ。

そう考えるとこの映画は、妻に殺されたDV男を主人公にしながら、記憶喪失という設定を使って観客に彼に対する情を持たせ、ストーリー中で暴力的に振る舞う場面でその印象を反転し、そしてクライマックスで反省・成長させて主人公を退場させ、ストーリーを丸く収める、という構成になっていることがわかる。

順当に進む意外性のない映画だという印象のわりに、なかなか手の込んだことをやっていたんだなと思わされる。

つまりこの映画のメインストーリーは父と娘が再会するドラマかと思いきや、死んだDV男が現世に帰って反省するドラマなのだ。

トーマスの意識は、ノーランに体を明け渡し、どこか謎の空間に去っている。

一応、ストーリーとしてオチはついているのだが、あのトーマスはどこに行ったのだろうか、と思わずにはいられないラストではある。

もしかしたらノーランの脳内にずっと生き続けるのだろうか。とはいえ、ノーランもいつか死ぬのだから、永遠に彷徨い続けるわけではないだろう、というのがとりあえずの納得の仕方だろう。

しかし、先にも書いた通り、あの成長したトーマスは、無限にコピーできるDVトーマスの1バージョンでしかないんだよなぁ、というモヤモヤがあるのも事実だ。

後日談のシーンでは、トーマスの母リリアンが、未だトーマスを復活させたデータを保持していることが暗示される。

リリアン自身がVRメガネをかけるシーンで終わる。このシーンをどう読むかは観客に委ねられているのだろう。

正直、その後どうなったのかはわりとどうでもいいのだが、とにかく、意識を無限にコピーできるという設定であったことに面白さがあると思う。

この映画をトーマスの成長をメインとして見た場合、なにが彼を成長させたのか、という疑問が当然生じる。

それは、ノーランの身体に入り、良き父として振る舞った経験だと言えるだろう。

トーマスはその振る舞いにずっと違和感を感じてはいたが、周囲に期待される善人を演じ、その過程でエヴァとの関係も深まり、結果的に生前の自分の行為を相対化して、反省できた、と考えるのが自然だと思う。

そして、成長を示す「行動」としてノーランに身体を明け渡す。

観客が映画を観るように、トーマスはノーランの目に見える景色を見て、変化している。

「他人の身体に自分の意識を入り込ませる」というこの映画のSF設定は、登場人物に感情移入して観る映画鑑賞に似ているのかもしれない。

トーマスはノーランの人生を経験し成長する。そのトーマスの成長を、観客はトーマスに感情移入することで擬似経験している。

そういう入子構造が生じているのも、この映画の面白さかもしれない。

関連作品

トータルリコール

こういう映画のクラシック

アリスのままで

若年性アルツハイマーを患った主人公が記憶を失っていく様子を描いた作品

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー

死んで体を失い、記憶だけが残ってしまった男のその後を描く作品

クリミナル 2人の記憶を持つ男

犯罪捜査のため、他人の記憶を脳に移植された悪人の描く作品

ホームカミング(シーズン1)

記憶喪失と贖罪のストーリー

映画

サマー・オブ・84 -男子ジュブナイル+シリアルキラーの意外性。だがちょっと唐突-

概要

1984年夏。平和な郊外に住む仲良し4人組男子が15歳の青春を送っている。

ある日、近隣で少年ばかりが襲われる連続殺人事件が発生しているとニュースが流れる。オカルトや猟奇犯罪に興味津々のデイビーはこの事件に夢中になり、さまざまな情報から、連続殺人犯が隣人の警官マッキーではないかと推理する。

デイビーは仲良しの3人にこの推理を話し、4人はこっそりマッキーの身辺調査を始めるが、なかなか決定的証拠はつかめない。

さらに隣人を疑っていることを両親に捜査を咎められマッキーに謝罪することになってしまう。

見る前ポイント

平和な郊外で暮らす4人の男子の友情。日常の退屈さゆえにシリアルキラーに心躍ってしまう向こう見ずな男子たちのジュブナイルもの。スリラー系だがのんびりした展開。あまりハッピーエンドではない。

レビューの印象

高評価

  • 80年代感(舞台や音楽、ファッションなど)が懐かしい
  • 容赦ない大どんでん返し
  • 子供だけの秘密作戦・ジュブナイルものの魅力
  • オマージュや小ネタを楽しめる

低評価

  • 後味が悪く、中途半端な終わり
  • 終盤のちゃぶ台返しに納得できない
  • ツッコミどころや無理のある展開が多い
  • テンポが悪く無駄なシーンも多い

ナニミルレビュー

全体的にほぼ乗れなかった。エンディングは「こののんびりしたストーリーでこのエンディングか!」という驚きはあった。

とはいえ、さすがにそれまでのテンションと乖離しすぎていて、気持ち的についていきづらかった。

また、そこまでの展開がほぼすべて予想を下回りすぎて気持ち的にダレていた。

つまらなく感じてしまった原因をざっくり分けると、
・ジャンルのミスマッチ
・ジュブナイル描写の薄っぺらさ
が挙げられる。

ジャンルのミスマッチ

無邪気さとスリラーの食い合わせの悪さ

この映画では、「ジュブナイル」と「殺人鬼スリラー」の2つの要素を組み合わせたストーリーが描かれる。

心温まるジュブナイルと、恐怖感のあるスリラーをぶつけて意外性のあるストーリーにしようという狙いがあったと思うし、たしかにストーリー的にはそうなっている。

しかし実際には、それぞれのジャンルがその良さを相殺してしまっているように感じた。

スリラーの恐怖感が、ジュブナイルもの特有の無邪気さによって相殺されてしまっている。

どうしてか。

まず、ストーリーの軸である主人公らの「真犯人探し」を、観客であるこちらがどう見ていいのか、かなり終盤まで分からない。

ストーリーは、主人公のデイビーが隣人の警官マッキーを連続殺人犯であると確信し、それを証明するために仲間たちと捜査を行う様子を描いている。

つまり、デイビー達VSマッキーという構図がストーリーの中心になっている。

ということは、スリラー部分の「恐怖」はどこから生じるかと言えば、「デイビーたちがマッキーに襲われるのではないか」というハラハラ感から生じているわけだ。

しかしこの映画は、この「真犯人探し」自体を、デイビーたちの子供らしい無邪気な青春として描いている。つまり、そこでジュブナイル感を醸し出そうとしている。

この「無邪気さ」を演出するために、実際にマッキーが犯人であるのかどうかは、かなり終盤まで観客には伏せられている。

マッキーが実際に犯人だと分かってしまうと、これは「無邪気」な捜査ではなく、ガチの真犯人探しになってしまい、そちらに比重がかかりすぎるからだろう。

ジュブナイル感を維持するため、マッキーが本当にヤバい奴なのだということが終盤まで明かされない。

そうするとどうなるか。

観客からすると、「これはデイビーの単なるこじつけ/妄想なのでは」という違和感を終始感じながら、ストーリーを追うことになる。

さらに、片思いや親の問題など、ときどきジュブナイルっぽい温かなエピソードがはさまれることで、やはり殺人鬼騒ぎは、単なる勘違いで「平和な町の青春の1ページ」というタイプの映画なのかな、とも思わせる。

とにかく終盤まで、デイビー達の事件捜査はまったく現実味や真剣み=危機感を帯びず、彼らが真剣だとしても、観客の目には「子供の遊びなのかもしれない」という緩んだテンションがずっと続くことになる。

このように引いた目線で観ていると、ときどき恐怖シーン的な演出が入っても、それはメタ的な演出に見えてしまう。

メタ的な演出というのはつまり、本当は何気ない日常の1場面(マッキーに声を掛けられるとか)に過ぎないものが、勘違いした子供たちの目にはこのように恐ろしく映ったのだ、ということをスリラー演出で描いている、という風に見えてしまうのだ。

本当に危険だからスリラーなのではなく、無邪気さゆえのスリラーなのだ、と。だから、主人公らにとって恐怖でも、観客にとってはカワイイ子供の勘違い。そう見えてしまうのだ。

「見えてしまう」と書いたが、この映画は恐らく、このような曖昧さを折り込み済みで作られていると思う。

そのような「子供たちの無邪気な勘違い」だったはずが、最悪な結末へとつながってしまうという驚きを与えたかったのだと思う。それこそが、この映画の押しだったと想像される。

しかし個人的には、この驚きは、それまでと脈絡がなさすぎて「意外性」というより「とってつけたオチ」に見えてしまった。「最後にびっくりさせましたよ」というごまかしに感じてしまった。

さらに言えば、このラストのせいで、それまで必死に維持していたジュブナイルもののほっこりした魅力は全て吹っ飛んでしまい。単に後味の悪さだけが残った。

殺人鬼が甘い人間になっている

ジュブナイル感を維持するための、ご都合主義的展開も散見される。

例えば、ストーリー半ばで、デイビーの仕掛けた盗聴用無線をマッキーに発見され、さらに双眼鏡で監視しているのを、逆にマッキーに発見されてしまうというシーンがある。

ここはストーリー中でもかなりスリリングな場面で、デイビーもうろたえており、観客に次の展開を期待させる場面だ。

しかし、その顛末はうやむやになっている。

それだけ疑われたのにデイビーはマッキーの庭を掘り返し、「アライグマに荒らされたと勘違いするだろう」といっている。

アライグマは、まったく疑われていない時に使えたトリックであって、マッキーに疑いをもたれたらもうその手は使えないだろう、と考えるのが普通ではないか。

そんな危機的状況での作戦であるはずなのに、友人たちが作戦通りに動いてなかったり、それでも特にまずいことにならなかったり。

とにかく、危ないはずの場面で主人公たちがテキトーに動いている。そして、そのわりには、本当にまずい事態にはならない。

そういう甘い展開が何度も続くと、やはりこれは子供たちの勘違いなのではないか。「やっぱりマッキーはただの良いおじさんでした」というハッピーエンドに向けての前振りなのではないかと思って観てしまう。

結果、怖くない。

主人公たちは怖がっている。観客である自分は全然怖くない。このギャップによって常に引いた目線になり、なんか退屈なストーリーだなぁ、という印象が続いてしまう。

嘘っぽい「ジュブナイルもの」

怖くない代わりにジュブナイル部分がすごくいいかと言われると、これも微妙だったというのがぼくの感想だ。

まず、ストーリー的に蛇足感のあるシーンが多い。

例えばボウリングに行くシーンはほぼストーリー的には意味がない。

ヒロイン初登場のシーンだが、別にここで見せる必要性もないし、ヒロインのニッキーがDJをしているという設定も特にストーリー上重要ではない。

「蛇足感」があるとなぜ問題なのかというと、単に嘘っぽくなってしまうからだ。

ある要素がストーリーの中で唐突に描かれ、それに必然に感じなければ、それは嘘っぽさにつながる。

そこにどんなに「魅力的っぽいもの(甘酸っぱい青春とか)」が描かれていても、嘘っぽければやっぱり魅力的には感じられないのだ。

ボウリングのシーンで言えば、なんとなく女子グループに色目を使ってわちゃわちゃしている絵が入れたかったんだなー、という感じ。80年代の空気を懐かしんでもらおうという意思を感じる。

ではこの、「意志」は誰の意志かと言えば、フィクションの背後にいる作り手の意志なわけだ。

ストーリーがスムーズに見られるというのは、作り手の意志が意識されないということだろう。

ストーリーを見るときは、キャラクターの意思を見るのであって、その状態がフィクション世界に没入している感覚だ。

もちろん分析的に観て、作り手の意志を読み取りながら観ることはできるが、意識しなくても作り手の意志が見えてしまうのは、ストーリーがほころんでいるからだ。

この映画ではこういうほころびがたくさんあって、だから素直にフィクションに没入し「青春いいなー」と思うことができない。

むしろ背後にいる作り手が見え隠れして、「ほら、俺たちが描く青春、いいだろ」という姿勢にちょっと辟易とする。

例えばニッキーとの関係も、まあ、言わんとしているニヤニヤ感は分かるが、ニッキー自体がストーリー上大した役割を果たさないので、ニッキーと会う時間は単にストーリーが停滞している。ニッキーがいなくても、この映画は成立する。

そうすると、「あーはいはい、この感じを描きたかったのね」となる。ストーリー上必然でなければ、このキャラクターはストーリーに要請されたのではなく、その背後にいる作り手に要請されたのだな、ということになる。

すると結局、作品の外側へと観客の視線が至ってしまうわけだから、フィクションの中に浸ることができず、フィクションによって醸し出される良い雰囲気は吹っ飛ぶ。

例えば、黒人警官に車を止められ、そこで彼が母親の体調を気遣ったり、悪ガキとの因縁をにおわせたりするのも、そういう「心地よい関係」を記号的に再現しているのは分かるのだが、結局記号的にやっているだけだから上っ面にしか感じない。この黒人警官もその後特にストーリーに絡むこともない。

この映画は、このように本筋に関係ないところで「ジュブナイルっぽいエピソード」をあれこれと入れていて、そのそれぞれは分からなくはないのだが、本筋に関係ないのだから、嘘っぽく見えるし、映画のテンポも悪くしている。

エロ本談議にせよ、スターウォーズ話にせよ、ボウリングにせよ、家庭の問題の描き方も、どこかで見たことがあるものを、ストーリー上の必要性とは関係がなく、キャラクターの上にペタッと貼って、都合よく振舞わせているように見えてしまう。

ストーリーに関係ないのに描かれている部分は、作り手が描きたくて描いたんだろうという風に見えてしまうから、結局それは嘘っぽく見えてしまう。

必然性のない描写は、どうしても浮いてしまうんだと思う。

そして浮いたシーンが多いと、当然没入感が削がれてしまう。

話のブレ

ジャンルをぶつける挑戦は、個人的に上手くいっているとは思えない。

とはいえ、なるほどそういう挑戦をしたんだなと理解できるし、実際エンディングで驚いたのは事実なので、評価できるかもしれない。

しかし、ではそれ以外の部分がよくできているのかと言えばできていないだろう。

上にも書いているように、作り手の思いだけで載せているような蛇足なシーンも多いから、全体にテンポ感が悪い。

それを除いても、例えば捜査シーンのモタモタ感がすごい。

捜査して、何もなかった、捜査して何もなかった、という場面が数回繰り返される。

マッキーに見つかって、大きく展開するかと思いきやしない。

あげく親に自分たちから話し、当然信じてもらえず、マッキー本人にすべての手の内を明かす。明かしてもなお、劇的なことは起こらない。

とにかく、こねこね同じようなテンションで意味があるのかないのか分からないことを繰り返している。

個人的に気になったのは、後半でデイビーのモチベーションが変化している点だ。

この映画でデイビーのキャラは、猟奇殺人やオカルトなどに興味津々の男子というもので、だからこそ、身近で起きている連続殺人事件に興味を持った。

そして事件の捜査をしていたのも、そういう無邪気な好奇心からであった。

それが、中盤以降で両親に止められ、捜査の中止を余儀なくされると、「次の被害者がでるのを止められるに!」というような憤りを見せている。

この憤り自体は全うだけど、いや、お前はそんな高い志でこの事件を捜査してたんじゃないだろ、とツッコまずにはいられない。

そして、単なる無邪気な好奇心だからこそ、ジュブナイルのみずみずしさがあって、良かったのだ。

だから結局、エンディングがあれだから裏切られた、という以前に、終盤ではすでにジュブナイル的設定とか、主人公のキャラ付けが結構ないがしろにされている。

そういうところから見ても、やはりかなり無理のあるストーリーだと言わざるを得ない。

関連作品

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ガール・ネクスト・ドア -パッとしない男子高生が恋に落ちたのは元ポルノ女優-

概要

成績優秀だが、充実していない自分の高校生活に悩むマシュー。ある日、マシューの隣の家に美女ダニエルが越してくる。マシューが窓越しに彼女の着替えを覗いてしまったのをきっかけに、2人は知り合い、デートすることになる。

ダニエルのおかげで初めて青春を謳歌し始めるマシューだったが、親友のイーライが、ダニエルの出演するアダルトビデオを発見。マシューは彼女が元ポルノ女優であることにショックを受ける。

さらに、ダニエルの元にプロデューサー:ケリーがやってきて、彼女をポルノ業界へ復帰させようと働きかける。

マシューは、ダニエルへの思いを確信して迷いを吹っ切り、彼女をケリーの誘惑から守ろうと画策するが、狡猾なケリーの反撃を受け、大学進学さえ危ぶまれる状況へ追い込まれていく。

見る前ポイント

退屈な学校生活を送る男子高生が誰もが羨む美女と恋に落ち、どぎまぎした調子で心を通わせていくド青春ストーリー。初々しさのあるロマンス。ポルノを題材とした映画なので性的なギャグが多めだが、おバカに振り切れる感じではなく、わりと実直な雰囲気。イケてない側の主人公だが、虐めなどはなく、高校生活は退屈ながら平和で、そういうストレスはない。現代の感覚で見るとポルノ女優への感覚など違和感があるかもしれない。

レビューの印象

高評価

  • 初心な男子と彼を翻弄する美女のピュアな恋愛が良い
  • おどおどしていた主人公が逞しくなっていく成長が描かれる
  • クライマックスに向かって伏線を回収しながら予想を超えた展開を見せる

低評価

  • 地味とはいえ、主人公のスペックが高い
  • 一難去ってまた一難の繰り返しが続きテンポが悪い
  • ご都合主義な展開が多い

ナニミルレビュー

ストーリーのためにキャラクターが動いている

正直、あまり乗れなかった。

ストーリーの流れは単純明快で、それ自体はとても魅力的なものだ。

退屈さに苦しむ男子高生が美女と恋に落ちる。彼女の過去を知って葛藤し、しかし彼女への思いを再確認。彼女を過去のしがらみから救うために頑張りつつ、自分に降りかかった危機を、仲間と共にある作戦で乗り越える。

すごく王道な面白さがありそうなストーリー。

ではなぜイマイチだったのか。

問題は大きく2つある。

1つは、主要キャラクターの苦悩や行動原理がぼんやりとしていて、彼らの動機に共感(理解)しきれないこと。

もう1つは、「そうはならないだろ」と思わずにはいられないご都合主義な展開が(特に後半)多発すること。

全体の印象で言うと、上に書いたようなきれいなストーリーを語るために、キャラクターが都合よく動かされている違和感がある。

だから、ストーリーだけを取り出してみると全然問題なさそうなのに、しかしドラマに乗りにくい、という感想を持ったのだと思う。

ダニエルの違和感

この映画は、主人公:マシューとヒロイン:ダニエルの恋愛を中心に、敵対者:ケリーと争うストーリーになっている。

そうであれば、この3人の動機や、その動機を生じさせる苦悩がはっきり観客に分かる必要がある。

マシューとケリーは比較的明快である。2人ともダニエルを自分のものにしたいと思い、相手がそれを邪魔するので苦悩している。

それに加えて、マシューは大学進学のためのスピーチ。ダニエルは自分の実力を社会が認めないという苦悩をサブで抱えている(これらがクライマックスの前振りになっている)。

では、この争いの中心であり、ロマンス的にも重要なダニエルの苦悩はといえば、これがイマイチよく分からない。

ダニエルはポルノ女優という仕事を辞めてマシューの住む町に引っ越し、新しい生活を始めようとしている。マシューとの恋もその一環だ。

彼女が最初に持つ苦悩は、マシューが自分にポルノ女優的な振る舞いを期待したことから生じる(モーテルのシーン)。

(正直、このモーテルでの心情描写はかなり不自然だと感じた。マシューが性欲からダニエルを誘うのは理解できるのだが、終始モジモジしているので何がしたいのか分からない。普通は、最初は興奮するけど、途中で冷めてしまう、という演出にするのでは。

さらにそこでダニエルがマシューの期待に応えるように振る舞うのはおかしいし、しかも、そう振る舞っておいて、「私をそんな風に見るなんて!」と、そのあと怒っている。いや、怒るならモーテルに誘った時点で怒るべきでは。ここは完全にダニエルのひとり相撲感がある。)

過去に関するダニエルのこの、自分の過去に関する苦悩は、直後にマシューが謝罪してくることから、わりとすぐ曖昧になってしまう(=マシューのダニエルに対する複雑な思いもあっさりと解決)。

では、それで2人の恋愛がうまくいき始めるかといえばそうではなく、ダニエルは訪ねてきたケリーと共に、ポルノ女優として、ベガスのコンベンションへと出かけていく。

このあたりで、さすがにドラマに乗れなくなってくる。

なぜ、その仕事を辞めたいと考えていたダニエルは、再びその仕事へ戻っていくのか。こここそがダニエルの最大の葛藤のはずだし、マシューとケリーが争う原因なのに、この葛藤がほぼ描かれない。

ベガスへ発つ前、ダニエルはマシューに問い詰められて、「私に普通は無理。これが私」と言う。

しかし、ここまでのダニエルを見ていて、それほど彼女が新天地での生活に苦労しているさまは描かれない。

マシューとの恋愛も楽しみ、パーティーにも参加し、ご近所さんに疎まれる様子もなく、それなりに馴染んでいるようにしか、観客には見えない。

さらに、そんな言葉を残して去っていったダニエルだが、コンベンションでマシューに説得されて、またすぐ町に戻ってくる。

つまり、「私に普通は無理」というダニエルの言葉は、単に「苦悩している」という記号として発されるだけで、何も彼女の内面や性格を反映していない。

ストーリー的に、ここでダニエルが元の仕事へ戻ろうと振る舞わなければ、マシューが彼女を取り戻すために頑張るシーンが描けない。だから、ここではダニエルにこの悩みを言わせなければいけない。

「ストーリーに合わせてキャラクターが動いている感じがする」というのは、端的にこのダニエルの葛藤の描かれ方に現れている。

ダニエルには、内面があるようでない。ただ、マシューとケリーの争いを巻き起こすためだけに、マシューと付き合ったり、ケリーに付いて行ったり、そしてまたマシューの元に戻ってきたりしている。

さらにストーリー的な粗を言えば、ダニエルが町を去ったのは疎外感ゆえだ(「私に普通は無理」の元の言葉は「I don’t belong here」)。

そしてダニエルが町へ戻ることを決意するマシューの言葉は「君にAV女優なんて似合わない」(元は「You are better than this」)だ。

(AV女優という職業に対して、その物言いは単に失礼なのでは、と思うのは今の感覚なのだろうか・・・。ここでは立ち入らないが、個人的にかなり違和感のあるセリフではあった。)

マシューの言葉は、ダニエルが町を去った理由と噛み合っていない。この言葉はロマンチックかもしれないが、ストーリー的な機能は果たしていない。

マシューの行動は、ダニエルがポルノ女優に戻ろうと考えてしまった原因を何も解決していない。(その原因自体があまり説得力を持って描かれていないのは先に書いた通りだが)

ダニエルがケリーに誘惑された時点でも、マシューはダニエルのことを好いているのだし彼女を止めていた。それでもダニエルは仕事に復帰した。

ということは、ダニエルの気持ちを変えるためには、単にマシューがダニエルを止めるだけでは不十分なはずだ。

ダニエルが町から離れようとしたときにはできなかった何かを、マシューはやらなくてはいけなかったはずだ。

しかし、この説得シーンを経て、ダニエルはマシューの元へ戻っていく。

これでは、単にダニエルが優柔不断なようにしか見えない。乙女心が揺れ動いているのだ、と言われればそうなのかもしれないが、ぼくは全然納得できなかった。

ここでのダニエルの軽薄な揺れ動きは、そもそも彼女がポルノ女優をやめて新しい生活を始めようとした決意自体を軽く感じさせる。結果、彼女のキャラクター自体が薄っぺらくなってしまう。

さらにいえば、この説得のシーンは感動的な演出で描かれてはいるものの、マシューは何も失っていないから迫力がない。マシューはただ、言いたいことを言って帰っただけだ。

(ここでマシューがダニエルに似顔絵の紙を手渡すのをすごく重く描いているけれど、あの絵にそれほど重い意味を感じられるものだろうか。正直、とってつけたようにしか見えなかった。もちろん、それをマシューが大事に持っててくれたんだ的なことはあるのかもしれないけど、いや、さすがに無理があると思った。)

こうやって挙げていけばキリがない感があるのだが、とにかく「ここでダニエルが仕事に復帰する」「マシューが助ける」「ケリーが怒ってマシューの金を盗む」…という筋書きと、キャラクターたちの感情や苦悩が連動しておらず、結果、ストーリーが順調に進んでいても、いまいち話に乗れなくなっていく。

さらに無理のあるクライマックス

マシューとダニエルのすれ違いが解決すると、次はケリーがマシューの金を盗み、さらに奨学金スピーチが台無しになる、という別の問題へ焦点が移る。

ああ、なるほど留学生の話がここにつながるわけか、と思ったのだが、さすがにこのあたりの展開は雑すぎる。

まず、そんな大金が盗まれたのなら普通に警察沙汰でしょ、と思う。にもかかわらず、マシューも銀行員もなぜか自分たちが悪いのだという認識を共有していて、秘密裏にことを解決しようとする。

銀行員の責任は逃れられないだろうけど、普通に考えてマシューは被害者でしかない。だから、この後マシューがケリーと直にケリを付けようとしていることに説得力がない。

さらに、そのあとケリーに会い、ぼこぼこに殴られた後、「痛み止めだ」と言って出された薬を素直に飲み込むマシュー。いや、殴られた直後にそいつが出してきた謎の薬を飲むわけなくない?

しかし、ここでマシューが薬を飲まなければ、奨学金スピーチで大失敗する展開を描けないからしょうがない(またストーリーのためにキャラクターが無理をしている)。

(この奨学金スピーチでもまた、マシューはダニエルへの思いを語るのだが、もうその話は終わったじゃん・・・。スピーチ自体は感動的なのかもしれないけれど、ストーリー上の意味が何もないので、「ああ、脚本家が言いたいことを言っているな・・・」という印象。)

というかそもそも、マシューがケリーに薬を飲まされる展開を描かなければいけないから、銀行から金が盗まれても警察沙汰にはできなかったのだ。すべては前もって用意されたストーリーを展開させるためだ。

ケリーはマシューに、ライバルの家からある物を盗んでくるよう指示するわけだが、これも全く意味不明な嫌がらせだ。しかし、ここでマシューとライバルを会わせておかなければ、ラストの大作戦を描けないから会わせている。

そんなこんなで、だいぶ無理のある展開を積み重ねて、ラストの大作戦のお膳立てを進めていく。

ここまでは目をつぶるから、最後は気持ちよく大団円を描いてくれ!と思うのだが、この大作戦も、非常に無理のある展開で、素朴に「いや、絶対無理でしょ・・・」と思ってしまうもの。

というか、かなり奇跡的な偶然が重ならなければ成功しないような作戦なのだ。「周到に準備しました」みたいな前振りをするのであれば、こういう博打感が強めな作戦だと興ざめする。そこは「すげえ!」と素直に思わせてくれないと納得できない。

しかも、そこでもまたマシューのダニエルへの思いを描くのだが、それがまたひどい。

作戦が失敗しそうになり、マシューが一肌脱がなければいけないことになる。ここはマシューが勇気を出して成長するシーンなのだが、しかし、そのあと、ダニエルのためを思って、やはり断ることにする。

もう、まったく意味が分からない。ダニエルへの思いが、勇気ある行動をしないための言い訳になり、成長を阻んでいる。そんなクライマックスあるか。

敵役ケニー

わりと散々なこの映画で、それでも良いと思ったのは、敵役であるケリーというキャラクターだった。

最初は兄貴肌な立場で登場し、誰からも一目置かれるような魅力的な存在として、マシューと交流していく。

また、化けの皮が剥がれた後も、何をしでかすか分からない感のある雰囲気で、従属した方がいいのか、逃げた方がいいのか判断に迷ってしまうような、ミステリアスな雰囲気がとても良い。

ただ。ラストでの彼の評価のされ方にはやはり違和感がある。

この映画の作り手は、彼を乱暴ながら良い導き手として描いている。

それは、ラストのマシューのモノローグで、ケリーのことを「僕の顧問」と語らせていることから分かる。

いや、さすがにそれはないだろうと。

というのも、ケリーはどう考えてもマシューから2万5千ドル盗でいるわけで、どう考えても高校生を脅す犯罪者だ。

それはラストのラストまで続いていて、大作戦のあと、すべてが上手くいきホッとして家に帰ってきたマシューを、ケリーはさらに苦しめる。

(ちなみに、ここで実はマシューらの作戦はケリーとは無関係であったと分かるのだが、さすがに脅しの材料であるビデオを先に見ておかないなんてありえないだろう。でももはや、そんなことしか起きない映画だから、もういいのか)

とにかく、最後の最後までケリーはマシューを苦しめるのに、ラストで「僕の顧問」と呼ばれ、清濁併せ呑むちょい悪おじさんみたいに締めくくられるのはさすがにナシだろう。

それは、ケリーというキャラクターがたしかに魅力的だという話とは別に、道徳的にダメだろ、と思った。

という感じで、これはなかなか問題の多い映画だと思った。

もともと日本では劇場公開はされておらず、『24』で有名になったエリシャ・アン・カスバートが出演しているということでビデオスルーとなり、今ぼくは観ることができているようだ。

ちなみに、これを書いている時点で、アマゾンレビューではなかなか高評価。

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考えたこと

「説明」と「物語」

なぜ説明台詞はダメなのか

説明台詞とは、物語上の状況を、読者・観客に説明するかのようにキャラクターが喋る場合の台詞を指す。

キャラクターは通常(メタフィクションでない場合)その物語内世界で喋っているのに、突然、外部である読者や観客に分かりやすいように、つまり、物語の外部を意識したように喋りだすと、いわゆる「説明台詞」だと言われる。

説明台詞は良くないとよく言われる。それは何故なんだろうか。

もっとも素朴な考えは、「らしさ」の問題。

キャラクターがそのように喋ること自体に違和感がある、という考え方。それは、堅苦しいはずのキャラクターが突然砕けた喋り方をするのと同じ問題で、キャラクターの一貫性が壊れるから良くないのだ、という考え方。

また、世界観の問題としても考えられる。

現実とは別に存在しているはずの物語内世界のキャラクターが、その世界の外側であるこちら側(現実世界)を意識してしまうと、物語の世界が壊れてしまう。

キャラクターが説明台詞を喋ると、「これが作り物なのだ」という感覚を読者・観客に感じさせてしまうから、物語への没入が一気に白けてしまう。

物語という入れ物を壊してしまうので説明台詞は良くない、という考え方もあり得る。

「説明台詞」における、物語と現実の境界を壊す効果は、物語側の問題としてあるが、もうひとつ読者・観客側に生じる根本的な問題もあると思う。

それは、説明台詞の「退屈さ」だ。

説明台詞は退屈である。なにが退屈の原因かといえば、解釈する必要のなさだ。

なぜ解釈する必要のなさが、物語の中で退屈なのかと言えば、それは、そもそも物語を見る楽しさのひとつに、「解釈すること」があるからだと思う。

ある人物がいて、ある状況があって、何かが起こって、人物がなんらかの反応をする。

それを見て、「なるほどこう思ったのか」「こう感じたに違いない」「次にこうするだろう」「こういう気持ちだったのだろうか」などなど、あーなのかな、こーなのかな、きっとこうだ、という解釈の連続こそが、物語を見る楽しさの根っこにあるものなんじゃないか。

この考えが正しいとすれば、説明台詞が良くないのは当然と言える。そこには物語の楽しさがなく、それは単なる情報伝達、注意書きの看板や駅の乗換案内と何も変わらない言葉でしかないからだ。

考えたこと

「感動」はどう生まれるのかを考える

ストーリー作りを考えていると「人はどういう時に感動するか」が大きな疑問としてある。

もちろん、個別にはいろいろあるのだけど、普遍化していくと、どうなるかを考えたい。

とりあえず、ぼく自身が感動する時を考えてみると、「人間の強い意志を見た時」にだいたい感動している、と気づいた。

意志の描かれ方

「意志」自体は目に見えないので、ストーリーで描くときは、ストーリー上の展開やアクションとして描く必要がある。

だいたいこんなバリエーションがあると思う。

・避けていたことに立ち向かおうと決心する(成長)
・長い時間なにかを継続する / 何があっても揺らがずに貫く(信念)
・自分の命やお金、地位を投げ出して、誰かのために行動する(献身)

自分が感動した映画や漫画の場面を思い浮かべれば、だいたいこれらのどれかに当てはまるのではないだろうか。(違うパターンもあるかな?)

この感動パターンについて考えることもできるけど、まずそもそも「意志」ってなんぞや、という疑問が湧いてきた。

「意志」の定義

それでちょっと検索してみたのだけど、コレ、なかなか深い問題のようだ。ウィキペディアではショーペンハウアーなどを引きながら、いろいろ解説している。また各学問分野によっても、いろいろんな定義や意味づけがあるようだ。

たしかに、「意志」っていうのはよくよく考えれば不思議な言葉だと思う。

これ自体とても興味深いのだけど、今は物語の「感動」との関係で考えたいので、そこにいくのはやめておく。

とはいえ、「意志」は「何かを行う/行わないという強い思い」みたいな表層的な定義をしてもしょうがない。

これは「意志」が「思い」に置き換わっただけで、大して意味のある定義じゃない。

物語について考えるための「意志」の定義が欲しい。

ちょっと逆から考えてみる。

なぜ、「意志」を見ると感動するのか。

それは、それが日常ではありそうもないことだからじゃないだろうか。

ぼくたちは、避けられるなら自分の問題に立ち向かったりしないし、面倒なことは継続できずに辞めてしまうし、自分の命や財産を投げ出して人を救ったりしたりしない。

というか、そもそもそういう状況に陥ることがない。

物語が物語足り得るのは、こういう日常では陥らないはずの状況に主人公が陥るからだ。「ストーリーを推進するためには主人公を追い込め」とよく言われるのは、この物語の原理があるからだろう。

その状況の中で、主人公が日常ならありえないような(観客が驚くような)選択をする。その選択の背後に感じられるのが主人公の意志であり、観客はそれに感動する。

こう考えてみると、「意志」とは、「ありそうもないことを起こす力」と言えるかもしれない。

ほっとけば水は上から下に流れる。これが「ありそうなこと」だ。ポンプを作って、水を下から上に流せば「ありそうもないこと」が起きる。そこに人間の意志がある。科学っぽくいえば、エントロピーの増大に逆らう力なのかもしれない。

でも、ポンプで水を汲んでる主人公を見たって感動しない。

感動のために(物語のために)必要な「意志」は、人間の心に関する「ありそうもないこと」でなければいけないはずだ。

(「心」という言葉自体が曖昧なのは分かっているけど、これもまた、ここでは考えない)

例えば、こういうことは普通は「ありそうもない」ことだ。

・自分の命より他人の命を優先する
・自発的に自分の得にならない苦労をする/責任を取る
・子供が我慢強く何かを辛抱する
・美人やイケメンより平凡なルックスの相手を選ぶ
・絶望的な状況でも諦めずに行動する
・餓死寸前だけど食べ物を人に分ける
・大恥をかくことを恐れず行動する(他人の目を気にしない)
・痛みに耐えて行動する

こういう「ありそうもないこと」が起こるシーンは、人を感動させる可能性があるシーンだと思う。これを物語上の「意志表示」と名付けておこう。

ざっと何も考えずに、思いつくまま上の例を挙げたけど、これらも分類できそうだ。

・動物的欲求を超える(自己犠牲、資源を分ける…)
・期待以上の力を発揮する(子供の頑張り、痛みの我慢、逆境での強さ…)
・独自の価値観に従う(ルックス以外の価値、他人を気にしない確固たる自己…)

テクニック的に考えれば、これらの「意志表示」を、上で書いた「展開(成長、信念、献身)」と掛け合わせれば、感動シーンは作れそうだ。

つまり、クライマックス近辺で、登場人物に「意志表示」させながら、物語が「展開」すればいい。

例えば、「独自の価値観に従う」意志表示によって、「信念」を見せる展開をクライマックスに持ってくるとどうなるか。

わりと平凡な主人公(女性)がいる。主人公の彼氏が、最近美人に誘惑されている。なんやかんやあって、フられるかと思いきや、彼氏はその美人よりも主人公を選んでくれる。

これは、彼氏が「美人という一般的な価値」ではなく、「平凡な彼女が持っている価値」の方を重視した(=独自の価値観に従った)ということ。美人ではなく彼女を選択することで、誘惑があっても一貫して彼女を好きでい続けたという「信念」が彼氏の意志表示によって示される。

これは主人公ではなく、その彼氏がストーリーを展開させるパターンだけど、演出次第では感動的なシーンになると思う。っていうか、こういう少女漫画多そう。

例えば、こういうのもあり得る。

へなちょこな主人公がいて、仕事を任されそうになると逃げてばかりいる。なんやかんやあって、クライマックスで追い詰められた主人公がリーダーシップを発揮し、全力であるプロジェクトを実行、成功させる。

これは「期待以上の力」が発揮されることで、主人公の強い意志が示され、主人公が「成長」する展開になっている。

映画『ロッキー』はこのパターンに当てはまると思う。

映画『インディペンデンス・デイ』のラストでは、それまでダメダメっぽかった男が、宇宙船に特攻して人類を救うシーンが感動的に描かれている。

これは「動物的欲求を超える」意志表示によって、「献身」が展開し、観客を感動させるパターンだと言える。

まとめ

考えながらつらつら書いてきたので、議論としてはざっくりしているけど、ひとつの思索として。

意志は、「ありそうもないこと」を起こす力。そして物語にとって重要なのは、人間の心に関する意志。

それは「動物的欲求を超える」「期待以上の力を発揮する」「独自の価値観に従う」の3つで示される。(この3つはもっと考える必要がありそう。1つ目と3つ目は実は微妙に矛盾する可能性がある。細かい話はまた今度)

そこで、最初の疑問を考えてみる。

「好きな人とお近づきになりたい」は、人間は遺伝子を残すためにほっといても誰かを好きになりそう(=ありそうなこと)なので、動物的欲求だと考えられる。「お近づきになりたい」と思っているだけなら、それは意志ではない。

しかし、好きな人に告白する場合、それは意志表示だと言える。

「フラれたらどうしよう」「心地いい関係が崩れたらどうしよう」「周りに馬鹿にされたらどうしよう」

こういうネガティブな考えに屈して告白しない方が「ありそうなこと」だ。にも関わらず、これらを跳ね除けて告白するとすれば、そこには意志がある。

告白は多分「成長」展開で、意志の種類はストーリーによって、「期待以上の力」か「独自の価値観」のどっちでもあり得ると思う。

こう書いてて思うけど、感動させるためには、「ありそう」か「ありそうもない」かの判断基準を、作り手と観客が共有する必要があるはずだ。

作り手が「ありそうもないことが起きて感動的だ!」と思っても、観客が「いや、フツーそうするでしょ」もしくは「いや絶対あり得ないでしょ」と思ったら感動は生めない。

この判断基準を合わせるためにこそ、キャラクターの描き方や演出が重要になってきそう。「ストーリーに乗れなかった」系の感想は、ほぼこの判断基準のズレに起因しているのかもしれない。

しかし、そういう具体的な話は置いておいて、今回はあくまで概念的な話として。

ストーリーテクニック的には、「意志表示」によって、主人公が「成長する、信念を持つ/貫く、献身的に行動する」場面を描けば、感動的なシーンになるのではないかと思う。

蛇足:

これも書いてて思い出したんだけど、たしか『ワンピース』に、船とお別れするシーンがあった気がする。

ぼくは『ワンピース』読んでないのだが、ジャンプを回し読みしてたことがあって、その時にチラッと見た覚えがある。

ストーリーの流れを知らなかったので、ぼくは特に感動しなかったけど、ストーリーを追っかけてきた人にとっては泣けるシーンだろうなぁ、とは想像できた。

あの感動は、ここで考えた感動には当てはまらない気がする。

意志によらない感動。これもこれで考えたいけど、ぼくが知っているサンプル数が少ないので、今は考えようがない感じ。

映画

フレンチアルプスで起きたこと -雪がはがれて崩れるように、理想像が剥がれ落ちる家族ドラマ-

概要

スウェーデン人の4人家族は、フレンチアルプスで5日間の休暇を過ごす。高級ホテルに泊まり、スキーを楽しみ、仲良く1日目を終える。

2日目、レストランのテラス席でランチ食べる4人。そこに雪崩が発生し、レストランへと迫ってくる。幸い雪崩はレストランに達することなくおさまるが、父:トマスは、家族3人を置いて1人で逃げてしまう。

雪崩のあと、4人は休暇の続きを過ごそうとするが、家族を見捨てたトマスの行動を目の当たりにしたことによって、家族の間には微妙な緊張感が漂う。子供たちも不機嫌になり、妻:エバはトマスと話し合おうとするが、トマスは自分は逃げていないと言い張り、話は平行線に・・・。

レビューの印象

高評価

  • 理想像に苦しむ姿が繊細に描かれ、様々な角度で考えさせられる内容
  • ブラックユーモアたっぷりで面白い
  • 家族関係の描かれ方がスリリング

低評価

  • 淡々と、他人の夫婦喧嘩を見せつけられるだけで退屈
  • じれったさや陰湿さ、甘え、他罰性を感じて不快
  • 期待したほどのことが起こらなかった

ナニミルレビュー

理性vs本能(人間vs自然)という設定

「いざという時、自分を犠牲にして大事な人を守れるか」という思考実験的な内容が描かれていて、「自分だったらどうだろう」「相手がこうしたらどうだろう」と、考えさせられるような映画。

その上で、ただ内省的な悶々とした映画ではなく、スリリングな家族(主に夫妻)ドラマに仕立ててあるので、ストーリーとしても非常に面白い。

夫がやらかして、妻がそれに不信感を持って、話し合いながらどうにか家族関係を再生していく。すごくシンプルでクリアなストーリーをベースに、誰もが一緒に考えられる普遍的な問題を描いている。

雪山というシチュエーションは、楽しさも寂しさも、うるささも静けさも効果的に描ける舞台。さらに、楽しむべき娯楽の地でありながら、雪崩や視界不良などの危うさが常に付きまとう場所でもある。

このシチュエーションが、「家族」のポジティブな側面と、危なっかしい側面を描くストーリーとも連動していて良い。

自然(本能)と人間(理性)の対立を軸に描く家族ドラマとして、非常にシャープなモチーフ選びだと感じた。

役割、プライド、男らしさ

この映画は、とにかく夫であり父でもあるトマスにかかる圧力に関する映画だと言っていいと思う。

ストーリーを追うと、むしろ妻であるエバの方が苦悩しているようにも見える。それはトマスが受け身なのに対し、エバが能動的にこの問題に対処しようとしているからだ。

だが、ストーリー的にそう見えるとはいえ、やっぱり描かれる苦悩の核心はトマスに課されている。

トマスは、プライドが高い男だ。だからこそ、この映画は面白い。

極端に言えば、この映画は、3日間(雪崩からトマス号泣まで)かけて、トマスのプライドを打ち砕いていくブラックユーモアたっぷりの映画だと言える。

トマスが簡単に自分の過ちを認めてエバと話し合ってしまえば、このストーリーはすぐに終わってしまう。

エバが正直な話し合いを求めても、トマスはそれをはぐらかし続ける。

トマスは、プライドを保ちたいという内側からの圧力と、正直に話し合いたいという外側(妻)からの圧力を受けながら葛藤している。

では、この映画はどのようにトマスのプライドを描き、どのようにそれを崩していくだろうか。

舞台は高級ホテルだし、エバは友人に「夫は仕事人間だ」と話していることから、一家の稼ぎ頭はトマスであり、トマスは社会的に成功している人間だとすぐに分かる。

家族でドローンを飛ばして遊ぶシーンで、操作が上手いトマスにエバは「隠れて練習してたんでしょ」と言う。つまり、トマスはエバにええかっこしいだと見られている。(実際クライマックスでトマスは子供相手でもズルをしてしまうと懺悔している)

友人と夕食の際、トマスは気取った感じでワインをテイスティングしている。そしてエバが「トマスは逃げた」と話すと、それを絶対に認めない。

雪崩のシーンを挟んで、1日目、2日目でトマスの「成功者」「デキる男」という印象と、トマス自身がそれにこだわっている様子を描いていく。

3日目の朝、エバは一人でスキーに行くと言い、さらにトマスのクレジットカードを使うことを拒む。

その夜、友人カップルと会い、そこでエバはトマスの過ちの核心を突いていく。

トマスが隣の部屋で息子をあやしている間も、友人たちに彼の落ち度を話し続ける。トマスは壁越しに、自分の悪口を息子と一緒に聞かされることになる。

それでも言い逃れをするトマスに、エバは証拠になる動画を見せ、トマスが言い訳できないところまで追いつめる。

友人のマッツはかなり無理な解釈でトマスの行動を正当化しようとして、よりトマスを惨めな状況に追いやる。

このあたりで、ようやくトマスは自分の非を見つめ始め、一人で涙する。

4日目。「父/夫」としてのプライドを傷つけられ元気のないトマスだが、マッツに誘われて男2人でスキーを楽しむ。

バーで酒を飲んでいると、見知らぬ女性がやってきて、その女性の友人がトマスを良い男だと褒めていたと話しかけてくる。

ここで、「父/夫」としての自信を失っていたトマスは、「男」として評価されることで、一瞬だけ自信を回復する。

喜ぶトマスだが、同じ女性がまたやってきて、人違いだったと伝えられる。

トマスはぬか喜びしたことに対し気まずそうに苦笑いし、マッツはトマスを気遣って過剰に怒って見せる。この気遣いがまた切ない。

「父/夫」としてのプライドを失ったトマスが、ここで「男」として見知らぬ女性に褒められたことは、格別の意味があった。

その証拠に、トマスはこの夜、この「男」としてプライドを回復しようとしてエバを抱こうと画策する。

しかし子供たちの存在によってそれは失敗。

ここでは、「父/夫」であることを切り捨てて「男」に戻ることは許されないことを示されている。

その後、エバはバスルームでトマスにもう一度チャンスを与えるような曖昧なそぶりを見せるが、トマスは決心がつかず、チャンスを逃してしまう。

これで「男」としてのプライドもついえ、トマスは号泣してエバに謝る。

結局、トマスの「プライド」は何をしていたのだろうか。

それは常に、トマス自身に問題を直視させず、ひたすら彼を迂回させていた。

エバが、雪崩の話をしても、トマスは「そんなに危険な状態じゃなかった」「認識の違いだ」といって、問題の核心を避ける。

現場の動画という証拠によって、それが無理になると、今度は夫や父であることから目をそらして、「男」の自信に頼ろうとする。

しかし結局、この問題を解決するには、この問題について話し合うしかなく、話し合うには自分の非を認めなければならない。

トマスの「プライド」はこの「非を認める」という最初のステップを許さず、だから、彼は延々遠回りさせ、この映画はその遠回りを皮肉っぽくユーモラスに描いている。

ここでトマスのプライドが打ち砕かれることは、ある意味、前向きなメッセージである。

このトマスのプライドは、「男らしさ」「父親らしさ」というステレオタイプと結びついている。

だから、トマスがこれらを捨てて、家族の前で泣きじゃくるのは、そのステレオタイプを乗り越える行為として受け取ることができる。

そんなトマスの様子を見ても、子供たちのトマスへの愛が消えることはなく、むしろ子供たちはトマスを支えようとする。

最終日には、彼の情けなさも知った家族に対して、トマスはもう1度父として振る舞う。

そこでは、「らしくない」姿を見せてもなお、「らしく」振る舞うことが許される風景が描かれている。

個人的に、5日目でエバを助けるシーンは、あまりにも戯画的だし、蛇足に感じてあまり好きではない。

けれど失敗が許されることや、お互いに気遣い合うことで関係が改善されえることが示されている良いシーンだと思う。

そうして思い返してみれば、この映画の冒頭は、やや強引に家族写真を撮られるシーンから始まる。

そこで、家族は「良い家族」の写真を撮るため、振り付けをされている。4人は言われるがまま、ややぎこちなくポーズをとる。

後日出来上がった写真は、たしかにとても良い出来栄えで、エバは写真を見て喜んでいる。

しかし、それは振り付けをされ、良い家族が演じられた表層的なイメージに過ぎない。

そこにあるのは「父親らしさ」「夫らしさ」のように表層的な、「良い家族らしさ」というイメージ。

この映画は、トマスの行為をきっかけに、家族に内在するそのような「イメージ」が剥がれていき、最後に、弱さを支えあえる家族の関係(というのはさすがに美化しすぎだと思うけど)になる、というストーリーになっている。

割り切れなさとユーモア

この映画は、ウィキペディアやIMBdで「コメディ/ドラマ」とカテゴライズされている。

ただ、多くの人にとって、ゲラゲラ笑えるコメディではないと思う。(個人的に声を出して笑ったのは2場面だけだった)

この映画のコメディは、もっと皮肉っぽい笑い。例えば、バーで人違いされたトマスが苦笑するような感覚の笑いが代表的だと感じる。

大まかに言えば、この映画の中にある可笑しさは「間の悪さ」と、そこから発生する「ばつの悪さ」から生じる。

この可笑しさは、「誰かの内面の弱さに触れなければいけない」という緊張感から生じているようで、なるほど、弱さに触れる瞬間ってそんなにスリリングなのだな、と気づかされる。

そもそも雪崩事件自体、とにかく、ばつの悪さが表現されている。

ワンカットの長回しで、「大丈夫大丈夫、プロの仕事だから」と余裕をかましていたトマスが、家族も他人も押しのけて逃げ、しばらくの沈黙の後、「いやー、やばかったねぇ」と帰ってきて、家族は無言で味のしない食事を続けている。

エバが初めてこの事件について語るレストランのシーンでは、誰かのバースデーソングが始まり、廊下で話し合おうとすると掃除人がちょっと離れたところで見ている。

友人カップルと共に問題の核心を突く場面では、ドローンが飛んでくる(ここが声を出して笑った場面その1)し、そもそも、友人カップルにしてみれば、なんとも間の悪い時にトマス達と合流してしまったという状況だ。

そんな感じで、とにかく間が悪く、ギクシャクした状況、常に何かが割り切れない状況が続き、それが可笑しさに転化していく。

この映画において、この割り切れなさは徹底される。

ストーリーの大筋としては、トマスが成長し、家族関係が再生するという、ある意味では割り切れた映画になってはいる。

しかし、トマスが自分の非を認め泣きじゃくるシーンは、彼の成長を描く感動的な演出になっているかといえば、全然なっていない。

なぜ感動的になっていないかと言えば、エバがずっとトマスの懺悔に対して引いているから(声を出して笑った場面その2)。

エバは確かに、トマスに自分の非を認めて自分と話し合ってほしいと思って行動していた。しかし、いざその場面になると「いやいや、そこまで取り乱されても・・・」みたいな感じで気まずそうな、面倒くさそうな態度を取っている。

このエバの態度は、トマスを慰める子供たちの存在によって、より強調されている。夫妻だけなら、取り乱す夫を必死に妻が支えようとしているように見えなくもないが、子供が入ることによって、明らかにエバが引いているという演出になっている。

トマスと2人の子供が感動の家族ドラマをやっていて、その背後でエバがソファに座って引いている。このシーンはずっと遠巻きに撮られ、クローズアップになることがない。

だから、このクライマックスは、たしかに家族再生へとつながるストーリー的には順当なクライマックスなのだが、完全なカタルシスがなく、割り切れないシーンとなり、可笑しさを生じさせている。

ある意味で言えば、「夫が非を認めて謝る」という、このストーリーの中心課題が達成されているにも関わらず、それを求めていた妻はスッキリしない、という状況になっている。

これは、「解決」か「未解決」かという、ハッキリした結末以外があり得るという経験を観客に与える。たしかに解決したが、思ってたやつじゃなかった、みたいなばつの悪さだ。

この映画はトマスがちゃんとエバと話し合わないことを問題として描いている。

だが、話し合えばいいのだ、という単純な正義を語ってはいない。それは、友人カップルたちの様子を通して描かれている。

友人カップルは、エバから事件について聞いたあと、2人でこの件について話し合っている。つまり、エバがトマスに求めていることをやっているわけだ。

ではこの2人はこの話し合いを上手く収められるかといえば、収められず、お互いに納得できないままギクシャクとした感じで、「もうこの話は終わりにしよう」といって眠りについている。

ここは、すっきりしないクライマックスを示唆するような場面になっている。

さらに、ラストの下山シーン。

あまりにも危なっかしい運転に危機を感じたエバは、先導してバスから降り、そのほかの乗客もエバに続いてバスを降りる。

降りるまではエバは危険な状況からみんなを救うヒーローであった。

しかし、いざバスが行ってしまうと、乗客は取り残され、目的を見失い、なんとなくみんなでトボトボ道を歩き始める。バスは特に事故っているわけでもなく、先に行ってしまっている。

この映画全編を通じて、ある種「正しい側」にいたエバの行動が、このラストで相対化される。

トマスは本能的に逃げるという過ちを犯した。これを「過ち」と描くストーリーなのだから、「理性的に行動すべきだ」という主張がなされるのかと思きや、違っていた。

このラストのシーンで、エバは理性的に危機を脱したが、しかし、それが正しいとは言い難いような、気まずい空気で映画は終わっていく。

つまり、この映画では、観客が安心して身をゆだねられる正しい人物が出てこない。

みんな、どこかで間違えている。

ある場面では正しかった人も、別の場面では間違える。

だから、どこにも答えがなく、ずっと割り切れない場面が続き、その緊張感がユーモアに繋がっている。

その徹底のされ方が、とにかくこの映画のすごさだと思った。

関連作品

ビフォア・ミッドナイト

たまった感情が流れ出す様子を見せられる映画

そして父になる

プライドの高い男が、自分が父親であることを再確認していく映画

ゴーンガール

フライト

自分の過ちに向き合うまでの過程を描いた映画

ヤング・アダルト・ニューヨーク

どうしても譲れない何かがある男の心の揺れを描いた映画

歩いても 歩いても

家族の中にある緊張感を描いた映画

ある戦慄

映画

サウンド・オブ・サイレンス -誘拐された娘を救うため、父はトラウマを抱えた謎の少女をカウンセリング-

概要

娘を誘拐された精神科医:コンラッド。犯人ら、コンラッドが担当している女性患者:エリザベスから、6ケタの番号を聞き出せと要求してくる。

コンラッドは訳も分からず、とにかくエリザベスをカウンセリングし、どうにか番号を聞き出そうとするが、エリザベスは何者かに命を狙われていると恐れているうえに、彼女自身も番号とは何のことなのか分からない。

コンラッドは、エリザベスが精神を病むきっかけになった現場にエリザベスを連れ出し、街を歩きながらカウンセリングを行う。そこで、番号の謎を突き止めたコンラッドは、犯人らに電話をかけ、こちらから条件を出して交渉を始める。

観る前ポイント

強盗団に娘を誘拐された、優しいお父さんが奮闘するサスペンス映画。勧善懲悪なストーリー。暴力はあるがグロくはない(不気味な死体はちょっとある)。エロはない。少しダークで暗めな印象。

レビューの印象

高評価

  • テンポがよく、緊張感もあって飽きさせない演出
  • 俳優陣が素晴らしく登場人物がカッコいい/美しい
  • 精神科医がカウンセリングで謎解きをする設定が新鮮

低評価

  • サスペンス部分にご都合主義な展開が多く、主人公の行動、数字の意味やラストのオチも納得できない
  • よく言えば王道だが、展開がおおむね想像できてしまい、驚きが少ない
  • それなりに面白いが、印象に残るものがない

ナニミルレビュー

冒頭の銀行強盗シーンは素晴らしく、メンバーの1人が延々と無駄口を叩く緊張感のなさと、何かをジリジリと待っている他の男たちの妙なギャップが、不思議な緊迫感を生んでいる。そこから強盗が始まり、カウントダウンをしながら金庫破り、宝石をゲット、逃走、上手くいったと思ったところで気づかされる裏切り。

非常に分かりやすいけれど、説明的には感じない。出来事や人物の表情・行動のみで、それぞれの関係性や、プロフェッショナル感、絶望感など、何が起きたか十分に分からせる演出が見事だった。

そこから10年が経ち、主人公:コンラッドが登場。どうやら訳ありの患者を半ば無理矢理押し付けられ診察することに。そして、病院へ向かう橋を渡る際、カメラが水面を映し、そこには謎の死体が。そして次の日の朝、切断されたドアチェーンを見て娘が誘拐されていることに気づく・・・。

と、とにかく冒頭、さまざまなことが、どんどん発生していく。しかも映像で見せていく演出が上手い。

銀行強盗、謎の患者、変死体とそれを追う刑事に、誘拐事件。え、こんなに複雑にして大丈夫?と思うのだが、最後まで見た限り、一応、追いきれない筋ではなく、そういう意味では非常にストーリーテリングが上手いんだろう、と思う。

ただ、正直、この序盤の期待感は、解決に向けてストーリーが進むにつれ、どんどんしりすぼみになっていく印象があった。

ややこしさがあるわりに、たしかに筋は終える。どこで誰が何をやっているのかも分かるし、個々のシーンでの緊張感もある。見せ場もある。カッコいいシーンもある。

だが、だんだんとストーリー自体が雑になっていく。そしてとにかくダラダラしたクライマックスがそれまでの面白さを台無しにしている。

最も大きな問題は、変死体からこの事件に迫っていた一匹狼の女刑事:キャシディが、ストーリー上で大きな役割を果たさないことだ。

キャシディはほぼ常に観客より遅れて事件を追いかけている。だから、彼女が何かをしても、観客的にはそれほど驚きがなく、彼女が登場するシーンは、後半に行くほど退屈になる。

唯一、彼女の捜査が興味深く進展するシーンは、コンラッドの同僚サックスを尋問するシーンだが、ここも、結局彼女が事実を突きつける前に、変死体がサックスの恋人であったことが観客に分かってしまうので冗長に感じる。

さらに言えば、サックスはその後、ストーリーに何も関わってこず、ここでの尋問にその後のストーリーでの意味がほとんどない。

この後、キャシディはコンラッドを追いかけ始めるが、追い付くのはようやくラストのラスト。そして、追い付いても大して活躍せず、敵を一人倒した後すぐ撃たれてしまう。

いや、キャシディ必要だった?

ラストだって、コンラッドを助けるのは例えばその場所にいた患者:エリザベスでも、娘:ジェシーでも良かったわけで、ピンチのコンラッドを助ける一発を撃つためだけに、彼女をストーリーに登場させ、それによって話をややこしくし、終盤でのモタつきに繋がっていると考えると、これはやっぱり失敗だったのではないか、と思ってしまう。

刑事ナシで、精神科医vs元銀行強盗団のシンプルな構図にした方が良かったんじゃないか、と思わずにはいられない。サックスも実は敵に操られていて・・・という展開も多分要らない。尋問の後なにも関わってこないのだから。

という感じで、本筋に関係なく感じる要素が多い映画だというのが大まかな印象。

個々のシーンを見せたいのは分かるし、実際個別で見れば悪くないのだが、ストーリーが緩んでいくのはもったいない。

無意味に感じる要素にはどういうものがあるか。

例えば、ジェシーを誘拐した強盗団が、実はすぐ上の階に潜伏していたという設定も、驚きはあるがストーリー上の意味は大してない。というのも、上にいると分かったところで、家に残された妻には何もできないわけだし、実際犯人には逃げられている。

妻がそれに気づいたことで強盗団は場所を移すと同時に妻を殺そうとするのだが、殺すのなら場所を移す必要はないだろ、とツッコまざるを得ないし、繰り返しになるけど、バレたからなんなんだ。

もともと妻は怪我をしていて無力だし、警察が来ても妻は誘拐事件のことを警察には言わない。そう、犯人グループは最初から妻から身を隠す必要はないのに、何かそれが重大なことのように振る舞っている。

さらに妻によって犯人グループは外に出ることになるのだが、それが犯人グループをピンチに追いやるというわけでもなく、だったら、妻との格闘劇は、シーンとしては迫力があっても、ストーリー的には退屈なものでしかない。

また、納得できない要素もある。

クライマックス前では、エリザベスから事情を聞き出したコンラッドがなぜか強気になって、逆に犯人にルールを言い渡したりしている。

しかし客観的に見て、状況は何も変わっていない。犯人がエリザベスの知る情報を知りたくて、それはコンラッドにしか聞き出せない、という状況は最初からそうで、クライマックス前でもそうなのに、なぜかコンラッドはクライマックスに向けて突然強気になっている。ここでコンラッドが強気に出ないとラストで墓地に主要人物全員を集めることができないから、脚本上の都合でそう振る舞っている。

ストーリーが進めば進むほど、一事が万事こんな感じで、とにかくアクションシーンを描きたい、こんな緊張感を演出したい、というその場その場のテンションを描くことに引っ張られて、ストーリー全体の整合性が無視されている。

クライマックスは、犯人グループが求める宝石の隠し場所である墓地で、コンラッド、誘拐されたジェシー、カギを握るエリザベスと犯人グループが全員同じ場所に集まって、展開していく。

そして、みんなの前でコンラッドがエリザベスをカウンセリングし、宝石を隠したある墓の場所を記憶の中から呼び覚ますことになる。

うん、たしかに、精神科医を主人公にして、鍵を握るのが精神疾患者の記憶なのだとすれば、カウンセリングが大事になるんだし、そこがこの映画の面白さだとは思う。

そう思うのだが、さすがにクライマックスでテンションが高まっている時に、みんなで輪になってカウンセリングなんかしているのは、あまりにもだるい。

なんともモタモタした絵になっている。もはや娘の誘拐はどうでもよくなっているし、妻もどうでもよくなっているし、刑事は周回遅れでついてきているだけ。

なんにせよ、ようやくエリザベスから隠し場所を聞き出し、そこに向かう。

よし、ここからどんどんスピード感が上がって大団円だな、と思っていると、実はそこは本当の場所ではないと分かる。おお、これで犯人がキレてドンパチアクションシーンか、と思いきや、犯人たちはコンラッドを連れて仲良くエリザベスの元へ帰っていく。激昂してエリザベスを怒鳴る犯人を前に、コンラッドが「逆に覚えていたんだ」とエリザベスの記憶違いをプロっぽく指摘。いやいや、それ、ここに戻ってくるまでなんで黙ってたの?そしてしげしげと次の場所へ行き、ようやくお宝をゲット。そこにようやくキャシディが現れるが、丁寧に警告をし、当たり前のように反撃されて負傷し、キャシディの役割はここでおしまい。そのあとコンラッドは形勢逆転するが、結局とどめを刺さないでいるうちにまた反撃され、その反撃も大した反撃ではなく・・・。

という感じで、とにかくまあ、クライマックスがモタモタモタモタしている。

いや、冒頭の銀行強盗のあのプロ感は? 手際よく娘を誘拐し、周到な計画でコンラッド夫妻を黙らせ、自分たちの言いなりにした、あの犯人グループが、なんで最後こんなグダグダなの。

とにかく、序盤は非常に面白く、中盤は迫力や緊張感を優先してストーリーがおざなりで、終盤はその緊張感すらなくなっていくという、正直ガッカリ感のある映画だった。

トラウマを背負った女性の記憶が、犯人グループの知りたい情報とつながっていて、だから精神科医が事件を解決する主人公として配役されている。

この設定自体はめちゃくちゃ面白いのに、ストーリーの詰めが甘かったという印象を受ける。

関連作品

フライト・ゲーム

渋い雰囲気の中、航空保安員の主人公が孤独に戦う映画

バーン・アフター・リーディング

ある意味、本作のようなサスペンス映画を皮肉った作品

考えたこと

退屈な映画の評価が高いのは自惚れ屋さんが多いから?

ぼくはこの映画ブログをやっているので、映画系情報サイトや、動画配信サイトなどで、映画のレビューをよく読んでいる。

そうすると、難解な映画や説明が少なめな映画のレビュー欄で、「難しくて理解できなかった」という内容の低評価レビューに出くわすことがよくある。

そのこと自体は何とも思わない。

ぼく自身も「よく分からなかったな」と思ってしまう映画はあるし、よく分からなかったから楽しめなかった、だから低評価、というのは全く正当な判断だと思う。

ただ、このようなレビューの中で一定数いるのが、

「この映画を面白いと言う人は、難解な映画を観ている自分に自惚れているだけ」

というタイプのレビュアーだ。

ぼくはこのタイプのレビューが嫌い。

なぜかと言うと、自分が理解できないものを楽しんでいる他人は、自分の能力を誇示したい単なる自惚れた人間に違いなく、そういう人は自己顕示のため嘘をついていると、勝手に決めつけているから。

さらに悪いケースでは、「自分は頭が悪いので」と予防線を張っているケースもある。自己卑下することで自分への攻撃は回避しながら、自分が理解できない何かを楽しんでいる誰かを攻撃するというのは、さすがに卑怯だと思う。

このようなレビューは無数にあるのだが、直近で観た映画『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』のアマゾンプライムビデオのレビューにこういうものがあったので一例として紹介する。

どのレビューサイトや感想ブログでも絶賛されているので驚きました。
正直、これを“映画”と呼んでいいのかすら疑うレベルで面白くなかったです。
これを面白い&深いと感じれる人は、恐らくそれを語ってる自分に酔える人・・・だと思います。…(以下省略)

Amazon.co.jp: A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー(字幕版)を観る | Prime Video

このレビューは、これを書いている現時点では「トップレビュー」表示で一番上になっている。

時期によってはもうこのレビューは見れなくなっているかもしれないけれど、この1個のレビューがどうこうではなくて、こういうタイプのレビューがよくあるという話が、ここで考えていること。

(ちなみに、ぼくはこの映画を評価しているので、「酔える人」ということになる。)

このタイプのレビューが論理的におかしいことは、言わずもがなだけど、一応書くと、すごく端的に言えば、「自分に酔ってるだけ」という主張に「なんの根拠もない」というのに尽きる。

ちなみに、『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』は、ぼくの感覚では難解な映画ではない。

抑えた演出の映画で、いわゆるエンタメっぽい映画ではないけれど、まあ、普通に作り手が何を言いたいのかは分かるな、という映画だった。

ただ、こう言うと今度は「これを難解とか言ってるやつは真面目に映画を観る気がないに違いない」みたいなニュアンスが出てしまい、水掛け論にしかならないので、そこに立ち入る気はない。

映画に求めるものは人それぞれだし、最初にも書いた通り、「この映画は分かりにくくて面白くなかった」というのであれば、それはひとつの意見として正しい。

だから、問題は、映画が理解できるかどうか、どのような姿勢で映画を観るかではない。それは人それぞれ自由だ。

そうではなくて、問題は、なぜ人は自分が理解できないものを楽しんでいる人を見ると、攻撃したくなるのか、さらに言えば、嘘つきだと考えるのか、ということである。

上のレビューで言えば、この人は、この映画を好きな人に対して、「自分に酔える人」と悪口じみたことを言う必要性は全くない。

単に「自分は面白いと思わなかった」と言うだけでいいのだし、それが主流の意見と違っていても、誰にもそれを否定する権利はない。

必要性がないのに敢えて言っているのだから、当然そこには「攻撃したい」という欲望がある。

その欲望はなぜ生じているのか。

その欲望の原因を、ぼくの頭の中で勝手に証明することはできないけれど、想像してみることはできる。

原因はいくつか考えられる。

  1. 自分が正しいと思いたい→自分と意見の違う他人は嘘をついている
  2. 寂しい→自分が少数派なのが嫌。なので、本当はみんな自分と同じはず。違う意見を言っている人は嘘をついている
  3. 損をしたくない→自分は楽しめなかった。だから他人も楽しめなかったに違いない。楽しめたと言っている人は嘘をついている
  4. 自分の間違いに気づきたくない→間違いに気づかせるような意見に反発したい

どれも、共感できる原因である。といっても、共感できない原因は想像できないから、ぼくが書き出せる「原因」にぼくが共感できるのは当たり前だけど・・・。

もし上のような原因で、ああいうレビューが出てきているのだとすれば、それは意味があるのだろうか。

まず1つ目。これは単に自分の傲慢さを大っぴらにしているだけなので、無意味だと思われる。「かしこぶって自惚れてる」と言っている自分が最も自惚れているというブーメランでしかない。

2つ目。そんな方法で寂しさを紛らわしてもしょうがないとは思うが、実は、同じように他人を攻撃したい人間には共感されるので、そういう意味では有効なのかもしれない。実際、例で挙げたレビューは何の根拠もない文章であるにもかかわらず、トップレビューになっているのである。

3つ目。レビューを書いている時点ではすでに映画を観終わっており、さらにレビューを書いている時間でさらに時間を浪費しているので、やはりレビューを書く意味はない。

4つ目。これは1つ目に似ているけど微妙に違う。これは傲慢さというより弱さであり、気づいていても直視したくないから、直視しない言い訳として他人を攻撃してしまうパターンだ。

例のレビューを書いた人は、この4つ目のタイプなのではないかとぼくは考えている。というのも、レビューの後半に

長い同じシーンを見せられ、セリフもほとんど無く、明確な理由も分からない。
後で考察サイトや、第三者のレビューを見て、「あぁ・・・そういう意味ね」と初めて理解できる。
万人受けは決してしないですし、娯楽という意味ではかけ離れた作品だと思います。

Amazon.co.jp: A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー(字幕版)を観る | Prime Video

と書いている。

前半では「これを“映画”と呼んでいいのかすら疑う」と書いていたのに、この後半では「娯楽という意味では~」と留保をつけるなど、前半よりかなり軟化した文章になっている。

そしてこの人は、他人の考察やレビューを読みながら、ちゃんとこの映画を理解しようと努めているし、実際理解できている。だから多分、単に傲慢な人ではないと思う。

では、この人が、「この映画を楽しんでいる他人」を否定したくなってしまったのは何故なのだろうか。

それは、この映画を観て退屈していた「過去の自分」を否定したくなかったからなのではないだろうか。

この人は、他人のレビューを読んで、「なるほど、そうだったのか」と、この映画を理解できてしまった。

しかし、そこでこの映画の評価を変えるということは、さっきまでこの映画に退屈させられイラついていた自分の感性を否定するということ。

日常生活でも、何かに怒っていて、しかし実は自分の方に落ち度があったと分かった時、とてもバツが悪くて素直に認められない時ってあると思うのだが、そういう感覚なんじゃないかな、と想像する。

そういうときは、なんだかんだ理由を付けて、「いやいや、自分が怒っているのはそこじゃなくて、そのあとのお前の対応の方なんだ」とかなんとか言って、怒りの正当性を無理くりにでも維持しようとしがちではないだろうか。

このレビューには、そんな息苦しさを感じる。

再三繰り返しているけれど、その瞬間「退屈だなぁ」と思った感覚に、嘘も間違いもないのであって、別に固執する必要も、正当化する必要もないのにな、と個人的には思う。

ちなみに上の4つで言えば、1は悪役のパターンで、4はストーリーを通して成長する主人公のパターンだと捉えられる。

この文章はどこへ行くのか分からなくなってきたが、ぼくがこのようなレビューに反応してしまうのは、ぼく自身も映画語りを自己アピールに使っている人に対しては違和感をもっているからだ。

こんなブログを書いているから、お前が言うなと言われそうだが、そうなのだ。

たしかに、そういう自惚れな人はいる。たが、本当に映画のことを考えて喋っているだけの人もいるのだ。

そこを見極めず、「映画に関して小難しいことを言ってるやつは全員自分に酔っているだけだ」という切り捨てに対しては、「それは単にあなたが人の話をちゃんと聞く気がないだけですよね?」と言い返すしかない。

それはあなたの怠慢なのに、こちらの自惚れのせいだと言われたら、そりゃあ腹が立つよね、と思うわけだ。

というわけで、この文章は、レビューをレビューする文章だったのだ。

映画

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー -恋人を失い、土地も失った地縛霊-

概要

郊外の家で暮らすCとMの夫妻。家では時々不審な音がなり、妻のMは家に対してネガティブな感情を抱いていたが、Cはこの家を気に入っていた。

ある日、夫Cは不慮の交通事故で死んでしまう。しかし、彼は幽霊となって自宅へ戻り、嘆き悲しむMを眺め始める。

時と共にMはだんだんと立ち直り、ついに引っ越しを決める。引っ越す前、Mは割れた壁の隙間にあるメモを挟み、上からペンキを塗って隠す。取り残されたCはどうにかペンキを剥がしてメモを取り出そうとするがなかなかうまくいかない。

さらに時は流れ、その家にはある母子が引っ越してきたり、さらに時間が経って取り壊されてしまうが、Cは行き場所もなく、幽霊のままその場に立ちすくむ。

レビューの印象

高評価

  • 表情が見えないがただ歩き回っている幽霊に感情移入させるストーリーが斬新
  • 存在することの切なさについて、いろいろ考えさせられる。退屈な部分もあるが、引き込まれる部分も多い
  • 静かな演出・カメラワークが良い

低評価

  • 派手さもなく、明快さもなく、解釈も委ねられる映画で娯楽性が低い
  • 冗長に感じるシーンが多い
  • 幽霊の表現の違和感がぬぐえない

ナニミルレビュー

正直、退屈さがないとは言えない。

特に何も起きていないのに、シーンだけは長く続いていたりする、何か起きるシーンも、余計に時間を取るような演出なので(例えば死んだCがシーツで起き上がるシーンとか)、単に情報に対してシーンの時間が長すぎる。

ゆえに退屈に感じてしまう場面がある、というのは素直な感想としてはある。

ただ、映画全体として退屈だったかといえばそんなことは全くなく、非常に面白い映画だと思った。

特に終盤にかけてはどんどん展開が早まっていき、ちゃんとクライマックスでは盛り上がっていくし、ところどころビックリさせる演出もあり、変な構成のアートっぽい映画のようで、実はエンタメ感がちゃんとある。

さらに、ラストはちゃんとカタルシスがあって(解釈によってはスッキリできない人もいるだろうが)、わりと気持ちよく観終われる。映画の変さに比べると、「おお、面白い映画だった」という、わりと普通の感覚を持つことになった。

内容を簡単に要約してしまえば、地縛霊になってしまったCを通して、「なぜ人間は生きてるんだろう」という、誰もが一度は思い悩んだことがある考えを、観客に注視させる物語だった。

もちろん、妻Mに対する一途さや、取り残される切なさも描かれているのだが、それは導入であって、この映画はむしろその先を描いている。

思うべき相手もいなくなり、思い出の場所もなくなり、自分が属していた時代も移り変わりる。

そういう、「自分という存在を定義していたさまざまなもの」が流れ去っていき、単に「個」になってしまった存在としての「私」の寄る辺なさを、時空を超えて存在するゴーストになったCを通して描いている。

ややこしい話に聞こえるが、別にややこしくはない。

自分が死んで数百年もすれば、自分が生きていたことなんて誰も覚えていないだろう。いや、もっと時間が経てば地球もなくなるだろう。いつかは宇宙もなくなり、自分と関係があるものは全て消滅するだろう。いつかは全てが無に帰すことは確実で、だったらなぜ今自分は生きているのだろう。

そういう素朴な虚無感の話である。

これは、映画が始まって1時間ぐらいのシーンで、ある男が長々と説教をするシーンで語られることなので、この映画は単にそういう映画なのだ。

いつかは無くなるこの世界に自分は存在している、という普遍的な虚無感を、ゴーストになった主人公Cの苦悩を通してストーリーに仕立ててある。

結末から言えば、そのことについては諦めるしかない、という結論が描かれているように思う。

といっても、どう諦めるのかの答えは描かれない。CはMの手紙を見て消滅するが、手紙の内容は描かれない。

自分の人生をどのように諦めるのかに、誰にでも当てはまる答えなんてないのだから、「描かない」以外の描きようがなかったのではないかと思う。

そして、それは怠慢なのではなく、「人間は答えがないことを考えて苦しんでしまうよね」という映画なのだから、最後に答えを見せられないのはしょうがなく、むしろその過程を共感可能な形でちゃんと描いているんだから、それでいいのだと思う。

Cの隣人のゴーストは、家が取り壊されたところで「もう戻ってこないみたい」といって世界から消える。期待していた何かを諦めることで、ようやく消滅できる。

C自身は、ラストでMからのメッセージを見ることで消滅する。長い年月をかけて、ようやく執着を脱するストーリーだ。

Cは次の周回の世界に入っているから、世界が終わって、また始まって、そしてちょうど自分が生きたところまでの長い時間をゴーストとして過ごしたはずだ。

その途方もない長い時間の中で、CとMが過ごした時間は一瞬のことに過ぎない。

そして、この一瞬の中でMが描いたメッセージが、Cにとっては決定的に重要だった。

その一瞬は、途方もない時間の中で、他とは比べられない重要な意味がある一瞬だったのだろうと想像できる。

この映画は悲観的な内容に見ることもできるが、逆に「そんな一瞬が、それ以外のどんな時間よりもかけがえない」という形で、人生の時間をロマンチックに肯定していると見ることもできる。

そう考えてみれば、序盤から中盤にかけて、やたらと長く退屈なシーンがあることも、実は逆に、その「かけがえなさ」を描いているのだ、と受け止められる。

例えば、傷心のMがパイをヤケ食いするシーンがある。ここは異様に長い。この映画のテンポ感に慣れてきていてもなお、このシーンは異常に長く、言ってしまえば退屈だ。

しかし、ストーリーが進み、Cが世界に取り残されたあとに、あのシーンを思い出すと、あの退屈だった時間の意味が変わってくる。

あの時には、自分の死をあそこまで嘆き悲しんでくれる人がいた。自分と世界の間には濃密な関係があった。その濃密さがあの時間の長さに現れていた、という風にも見られる。

逆に終盤に近くなると、時間が一気に飛ぶシーンが続く。家が取り壊され、急速に開発されてビルが建ち、気が付くと開拓時代にいる(恐らく次の周回の世界)。

そこでは、Mのヤケ食いのシーンと対比されるように、死んでしまった少女が一瞬のうちに腐って土に還っていく。

そこには自分に関係あるものが何もなく、時間がスカスカになっている。

この広大な時間の中で、自分にとって重要なのは、この自分が生きる時間だ。

この物理的に見れば一瞬に過ぎない数十年という時間は、それが自分の人生なのだという事実によって、何兆年よりも濃密な時間になっている。

そういう意味では、自分の人生の価値やそのはかなさを、宇宙規模の時間軸で議論してもしょうがないのではないか。

などと考えを進めるかどうかは観客それぞれの勝手なのだけど、しかし、そういうことを考えさせる映画になっている、と言っても間違いではないはずだ。

この映画は、退屈さはあるが、難解な映画ではない。

みんなが思春期の頃に考えて、考えてもしょうがないか、と捨て置いたあのアイデアを、わりとストレートに、ストーリーに仕立てた、間口の広い映画なのだ。

もう一点、ストーリー自体というより、ストーリーの作り方として面白いと思ったのは、主人公の能動性の低さと目的のなさだ。

普通、物語の主人公は、能動的に動くのが基本。最初は消極的だったとしても、少なくともクライマックスでは能動的に動いて成長するものだ。そして、ストーリーにはなにがしか達成されるべき目的がある。

しかし、この映画では、主人公は世界と関わることができないゴーストなので、能動的になりようがないし、さらに主人公が死んでいるので、本質的には目的もない。

この映画の最も変なところは、ゴーストのデザインでも、やたら長ったらしいシーン回しでもなく、この「主人公の能動性の低さと目的の欠如」がベースになっているにもかかわらず、それなりにエンタメっぽいストーリーになっていることだと思う。

主人公は基本的にただ傍観しているだけ。だから、観客も一緒に傍観するしかない。

にもかかわらず映画として、ドラマを追って、感情移入できるのが凄い。

主人公の死後、Mが嘆き悲しみ、立ち直り、Cの心から去っていく姿と、何もできないCの苦しさや歯がゆさ。そしてそこから解放されるカタルシス。

そのストーリーを追えるから退屈な映画になっていない。

ゴーストになったあと、CがMと取るコミュニケーションは、本の中のテキストを通して訴えかける場面くらいだ。あとは曲を聴かせる回想シーンが差しはさまれるという構成上の工夫がある。

とはいえ、客観的にはCとMの間には何も起きていないに等しい。なのに、ちゃんと2人のドラマが巻き起こっている。

Mがいる間は、Mの生活の変化や立ち直りを描き、Mが退場した後は、壁の中に隠されたMからの手紙をCがどう読むのか、という引きでストーリーを繋いでいく。

ただそれだけのことなのに、ちゃんと面白く演出し、終盤にかけてドライブをかけ、ループするという意外性(さらなる考えたくなる要素)もあり、ちゃんとラストはカタルシスがある。

関連作品

ヒア アフター

死という境界に苦悩する登場人物たちを描く作品

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悲劇的に死んだ少女が天国へ行くまでの苦悩を描く宗教的なストーリー

A.I.

愛にとらわれた主人公の長い一生を描く作品

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映画

ブルー・リベンジ -家族を愛する普通の男による復讐殺人と泥沼-

概要

ある日、ホームレス生活を送るドワイトは、知り合いの警官から、自分の両親を殺した犯人が司法取引によって釈放されたと知らされる。ドワイトは寝床にしていた廃車を修理し、犯人が出所する刑務所へと車を走らせる。

刑務所で待ち伏せていると、犯人は家族の運転するリムジンによって出迎えられる。ドワイトはその車を後を追い、家族が入ったバーのトイレで、ナイフを片手に犯人と対峙する。

レビューの印象

高評価

  • 静かな演出で、恐怖や迷い、復讐の不毛さなどを描き出している
  • 普通で地味な男が人を殺すというギャップが胸に来る
  • 銃社会のヤバさを感じられる

低評価

  • リベンジものとしては、主人公の憎しみが弱く、行動も行き当たりばったり
  • たびたび登場する留守の家や尾行に気づかない復讐相手、病院での治療など、主人公に都合のいい展開が目に付く
  • 極力説明を省くような演出なので、観客の想像にゆだねられる部分も多く、やや分かりにくい

ナニミルレビュー

ポジティブ

静かで削ぎ落した演出

復讐劇ながら、派手ではなく、静かに進み、説明的な描写も少ない。ストーリーも「分かりやすい勧善懲悪」ではなく、復讐の不毛さも同時に描いているので、この説明を極力省いた演出と上手くマッチしていると感じた。

冒頭、廃車(実は廃車ではないけど)の中で暮らす主人公:ドワイトの生活をセリフなしで淡々と描くことで、この映画全体の抑えた雰囲気を手っ取り早く伝えている。

さらに、ドワイトが留守の住居に侵入して風呂に入っていることで、後々、何度もドワイトが留守の家を見定め利用したり、敵家族の家を手際よく物色する展開に説得力を持たせている。

ゴミ箱を物色して食べ物を食べたり、廃車の中で暮らしているホームレスの生活を描きながらも、どこか優し気な雰囲気や、読書をする様子などから、内面はしっかりしていそうな印象を与え、感情移入しやすくしている。

ある日、知り合いの警官から、自分の両親を殺した犯人が釈放されたという情報を聞き、ドワイトは廃車と化していた車を修理して走らせる。

ここで、整然と手際よく車を修理するさまを描くことで、長年準備していた感をかもすのと同時に、それまでの退廃的な描写から一転、ドワイトが強い意志を持って行動するギャップが、復讐への強い印象を作っている。

「長年の準備」と「強い意志」。車の修理シーンだけでこの2つを明確に描くからこそ、ストーリーが展開していくと生じる「迷い」や「後悔」もずっしりと感じられる。

つまり、どんなに強い意志があったとしても、だからといって迷いや後悔がなくなるわけではない、という切なさがある。

普通の男である主人公

主人公ドワイトの「普通さ」もこの映画をとても興味深いものにしている。

この映画は「凄腕殺し屋映画あるある」を使いながら、ドワイトの普通さをややコミカルに描いている。

序盤の、車の修理を手際よく済ませて見せる「凄腕感」(殺し屋ものでよく見られるワクワク感)とは裏腹に、その後ドワイトは普通の人間であることが分かっていく。

まず、銃の入手失敗が描かれる。

普通に店で買うか、いや、お金がないから盗もうとしつつ、防犯カメラを見て諦める。そして、夜の駐車場で他人の車を物色、車内に置いてあった銃を盗むも、防犯ロックがかかっていて結局使えずに捨てる。そして、丸腰のまま犯人を追いかけることになり、結局その辺にあったナイフで犯人を殺すことに。

犯行後、逃走前に犯人家族のリムジンのタイヤをナイフでパンクさせる。これ自体は賢い行為なのだが、パンクさせる際に手が滑って自分の手をナイフで切ってしまう。さらに、そのあと車のカギを現場に落としたことに気づき、自分でパンクさせたリムジンに乗って走るという、ややコミカルな展開になる。

またストーリーが進んで、敵にボウガンの矢で足を打たれた際も、用品店で治療道具を買い、ペンチを使って自分で矢を抜こうとする。この「自分で治す」展開も殺し屋ものでサバイバル能力の高さを見せるためによく使われる場面だが、ドワイトは痛みによって諦め、結局、病院にいって手術してもらっている。

また、偶然気絶させ、トランクに閉じ込めていた敵の1人と交渉するシーン。友人に頼んで銃を用意し、相手に銃を突きつけながら交渉する圧倒的有利な場面であるにも関わらず、あまりにも簡単な嘘に騙され形成逆転されてしまう。

ラストで敵家族の家で待ち伏せをする際も、周到に準備しながら、結局何度も居眠りしてしまう。

殺し屋もので見慣れている「あるある」な展開を描きつつ、ドワイトがそれをうまく貫徹できない様子を描くことで、彼の「普通さ」を上手く描き出している。

すごくリアルというわけではないけれど、確かに、普通の男が復讐心だけで行動を起こせばこうなるんだろう、という説得力がある。

ドワイトの弱さを見せながら、哀愁やコミカルさもあって、この映画のチャームポイントになっている。

そして何より重要なのは、ドワイトがスーパーマンであれば、この映画で描かれている切実な迷いや後悔が生じる隙がないはずだということ。

この映画の面白さは、それ自体は共感できる復讐心から起こした行動が、どんどん泥沼になっていき、復讐相手の家族とどうにか対話して解決しようとドワイトが試みる点だ。

勧善懲悪的な気持ちよさを描くのではなく、泥沼になりながらも止め時を失って復讐を続ける狂気を描くのでもなく、ドワイトが最後まで相手と話し合って、止め時を模索している「曖昧さ」を描いているところが、この映画の肝だと、個人的には感じる。

それを描くためには「もう終わりにしたい」というドワイトの「普通さ=弱さ」を描かなければいけない。

そして、ドワイトが最後まで敵家族と話し合って解決しようとするさまを描くことで、結局、弱く普通の人間(つまりほとんどすべての人)は、このような問題を、暴力で解決するか、コミュニケーションで解決するかを選択しなければいけないという歯がゆさを描きつつ、そしてその選択も、常に自由に選べるわけではないことも描いている。

それが反転して、コミュニケーションが取れることのありがたさを感じさせる。

人殺しは怖い

これも、ドワイトが殺人からほど遠い普通の人であることから生じているのだけど、とにかく、「目の前にいる人間を殺すのは怖い」という感情がありありと伝わってくるのがとても良い。

殺される方が怖いのは当たり前だけれど、この映画では、この銃を撃てば目の前にいる人が死ぬんだな、という恐怖感が伝わってくる。

この恐怖感は、全体的にしっかりと描かれるゴア描写から生じている部分もあるし、ドワイトが絶対に1度は相手を殺し損ねるというアクションの描き方からも生じている。

最初のナイフでの殺人。ドワイトの最初の一撃は相手の首をかすめ失敗する。もみ合いの末、頭を刺して相手を殺す。相手は血をふきながらゆっくりと死んでいく。ラストでもうひとり殺す場面も、最初の一発は胴体に当たり、苦しんだ姿を見せた後に頭を撃って殺す。

ドワイトが人を殺すシーンは、どこもスッキリとは描かれず、とにかくいやぁな感じで描かれている。これによって、暴力は怖いという当たり前の事実がこちらに伝わってくる。

一方で、この映画内で気持ちよく殺人が行われるシーンがひとつある。

敵に銃を奪われ、絶体絶命となったドワイトを助けるため、友人のベンが敵をヘッドショットで撃ち殺すシーンだ。

このベンの殺しと、ドワイトの殺しの差は何か。

ターゲットまでの距離の遠さと、手際の良さである。

ベンはやすやすと人を殺すヤバい奴である。にもかかわらず、この映画内ではドワイトを助ける心優しき友人であり、頼れる男として描かれている。このねじれは、これが「復讐」を描いた映画だから生じている。

ベンはドワイトに銃の使い方を教える場面で、「感情的になると失敗する。相手と何も話すな。ただ銃を向けて撃て」と優しく語り掛ける。

コミュニケーションを行うと、暴力が上手く機能しない、とベンは話している。だからやっぱり、この映画が描こうとしているのは、この問題なのである。感情や対話を忘れることで、人は簡単に人を殺せるのかもしれない。

そして、主人公のドワイトはそうしない。最後まで相手と対話しようとし、会話しながら相手と撃ち合いになる。最初に比べれば銃の撃ち方は器用になるし、肝も据わって落ち着いている。

しかし、最後の最後まで引き金を引くことをためらっている。相手は声が届く目の前にいて、手際は悪く、攻撃を始めてから殺すまでのラグ=迷いがある。

この近さと迷いの中に、最後の救いがあったかもしれない、と感じさせるラストシーンになっている。

家族を通した対立と中間

家族愛は良いものとして描かれることが多いと思うけれど、この映画ではその家族愛こそが「醜い報復」を招いている、という形で描かれている。

ラストで、最後まで止め時を模索して、敵家族の意志を確かめようとするドワイトだが、敵家族が「自分の姉を襲うつもりだ」と知ったドワイトは1人殺す。その後、相手家族が「分かった姉には手を出さない」と言っても、「もう信じられない」とドワイトは答える。この対話を、隠れていた敵家族の末っ子の発砲が止める。

このラストでは、対話と暴力が繰り返される。発砲によって対話が止み、対話によって発砲が止む。対話と暴力は同時には行えない。

「復讐をやめる理由はたくさんある。止めない理由は一つだけ」とドワイトは語り、それは家族(姉)を守ることだった。姉への愛が、ドワイトが復讐をやめない理由になってしまっている。それは共感できる理由であるからこそ、この不毛な争いの厄介さを的確に表している。

この復讐劇のきっかけは、2つの家族の父親と母親の不倫。そして、この復讐劇から生き残るのは、敵家族の末っ子1人。この末っ子は、不倫の際に生まれた子供、つまりドワイトの異母兄弟だ。

つまり、この殺し合いは、家族に対する愛と執着から生じ、どちらの家族にもルーツがある末っ子だけが生き残る。分断され敵対する家族のちょうど中間にいた末っ子だけが、どちらの家族にも愛着を持ち、そしてドワイトと敵家族両方の承認を得て、銃を捨て、現場から去っていく。

このラストには、愛から不毛な争いが生まれること、愛から希望が生まれること、両方が含まれていて、暗さと希望がないまぜになるアンビバレントな余韻を生んでいる。

ネガティブ

ツッコミどころがないわけではなく、例えば、ホームレス生活の描き方にしてもやや形式的というか、本当はもっとえぐいだろうみたいなことは思うし、長年放置してた車がそんなちゃんと走るかなぁ、とも思う。

そして、最初の車での尾行シーン。さすがに距離詰めすぎだろ、と思うし、そんなにぴったりくっついて走ったら不審に思われるのでは、と思わずにはいられない。というか、もっと無関係の車も走らせればよかったのでは、と思った。2台しか走ってないから余計に気になる。

あとちょうどいいところで留守の家があったり、その家も、この家の感じだったら防犯設備とかついてるのでは、とも思う。

病院で治療される展開や、敵家族がドワイトの車に乗って襲撃に来ること、友人のベンが助けてくれる展開なども、ややドワイトによって都合が良すぎるようにも感じる。

あと、ラストで撃ち合いになって同士討ちになるわけだけど、あんだけ部屋の中を探索して武器を捨てるシーンを描いていたのに、あんな分かりやすい位置に銃が隠してあったのはさすがに違和感があった。

まとめ

都合が良すぎるのでは、と思う部分もなくはないが、別にそんなことはいいか、と思って観られる。そこじゃないだろ、みたいな。

そんなことより、ドワイトの境遇に感情移入し、後悔や迷いに共感し、クライマックスで何とも言えない気分にさせられる、そういうストーリーがグッとくる。

サスペンスフルな展開でラストまでワクワクするし、ハードボイルドなストーリーをソフトな主人公でやるというギャップの面白さもある。殺し屋あるあるが失敗し続けるというブラックなコミカルさもありつつ、暴力の嫌さをしっかりと感じさせる。説明を省いた演出ながら、さまざまなメッセージを読み取れる内容でとても面白かった。

関連作品

SUPER

普通の男が義憤で暴力に走るさまをブラックユーモアで描いた作品。

ドライヴ

抑えた演出と暴力と哀愁を感じられる映画

COP CAR/コップ・カー

向こう見ずな行動が想像以上の展開になって主人公たちを追い詰めていく映画

バンク・ジョブ

簡単な銀行強盗かと思いきや、どんどん泥沼に引き込まれる強盗団のストーリー

映画

ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ -渋いオジサンと訳あり少女、勝手な権力と男の友情-

概要

アメリカの商業施設で爆破テロが発生。メキシコの麻薬カルテルが犯人ら活動を手助けしたと判断したアメリカ政府。報復のため、カルテル同士の抗争を引き起こす作戦を実行する。

CIAのマットと、その相棒アレハンドロは、メキシコ国内であるカルテルの娘を誘拐。アメリカ国内で一時保護し、別組織の犯行であるよう見せかけたあと、娘をメキシコへ返す計画だったが、護送中に汚職警官らに襲われ、さらにマットらを怪しんだ娘は銃撃戦に乗じて荒野の中へ逃げてしまう。

マットらはアメリカへ引き返し、アレハンドロは娘を追い、捕まえる。アメリカへ戻ったマットはアレハンドロらの救出を進言するが、先のテロ犯がカルテルと無関係だったことが分かり、メキシコとの関係悪化を案じた政府は作戦中止を決定。マットは事情を知る娘とアレハンドロの暗殺を命じられる。

アレハンドロは娘を連れ、密入国者にまぎれてアメリカへ入ろうとするが、面が割れて失敗。娘は犯罪組織に捕まり、アレハンドロは荒野の真ん中で処刑されてしまう。

レビューの印象

高評価

  • アメリカ上層部の陰謀に巻き込まれる様子や、不法移民ビジネスなど、興味深いテーマ
  • 渋い登場人物たちの寡黙な戦い、静かで緊迫感のあるアクションシーン
  • 権力に翻弄される主人公たち、守るべき人、絶体絶命のピンチなど、楽しみやすいストーリー

低評価

  • アレハンドロの性格が前作より丸くなり魅力が薄れた。またストーリーもリアルさより娯楽性を優先したものになり期待と違う
  • 問題がコロコロ変化していき、一貫した軸のないストーリー
  • 納得できない展開や、嘘くさい演出が目立つ

ナニミルレビュー

前作は、終盤まで陰惨な雰囲気で進んでいきながら、クライマックスは一転スパイ・アクションっぽい演出になって、「アレハンドロつよっ!」と言わずにはいられないエンタメ感を出していた。

本作は、あの前作のクライマックス部分の感じを、2時間のストーリーに仕上げたものだった、という印象。

まず、前作ではアレハンドロのカルテルに対する「恨み」が彼のキャラクターを深めていたし、同時にストーリー内で描かれる容赦ない“捜査”に説得力を与えるものになっていた。

「酷い現実とその被害者」という対立があることで、陰惨なストーリーながら、復讐劇のカタルシスがあった。

本作では、アレハンドロのその内面はあまりストーリーには絡んでこない。台詞の上では、「やつはカルテルを憎んでいる」的な言葉が出てくるのだが、カルテルのメンバーに憎しみを容赦なく叩きつけるようなシーンはない。

これは、本作のストーリー上、アレハンドロが追う側でなく追われる側なのが原因だ。前作が「どう相手を叩きのめすか」というストーリーだったのに対し、本作は「どう生き延びるか」というストーリーになっている。

だから、アレハンドロの「恨み」はストーリー上、特に必要ではなく、だから強調もされないし、それに伴うカタルシスもない。

ストーリー上「恨み」は必要ないのだから、なくても別にいいのだが、それは前作のような復讐劇の面白さがなくなることを意味するし、アレハンドロというキャラクターの魅力も落ちてしまう。

そこのところで前作の良さが本作では欠けている印象はぬぐえない。

前作では、新人のケイトという登場人物によって、観客の視点をストーリー内に導入していた。

違法な捜査を繰り返すマットとアレハンドロに対し、あくまで正当な捜査を主張するケイト、という構図。

つまり、前作では、アレハンドロは観客にとっては向こう側の存在であった。ケイトに共感しつつ、何者なのか分からないアレハンドロを見て、ときに暴力的、ときにジェントルマンな、ミステリアスな雰囲気こそアレハンドロの魅力だった。

ということで、アレハンドロが人気なんだから、アレハンドロを主役にしよう、という発想は分かるのだが、しかし、アレハンドロを主役にしたことで、向こう側の存在であったアレハンドロはこちら側に来てしまい、その神秘性が薄れた。

また、前作ではアレハンドロはカルテルを潰すために法を犯したり、超法規的な要請を行使させる存在であった。つまり、アレハンドロは自分の復讐を果たすために権力を利用する側だった。

そんな彼が、本作では権力に翻弄される側になる。彼を主役にし、彼がピンチに陥り、彼が奮闘する、彼が主人公のストーリーを描くのだとすれば、たしかにこの力関係は分かりやすい。だが、前作で描かれていた、異様な彼の強さは薄れてしまった。

主人公として問題に直面する立場にするため、彼の魅力の大部分が削がれてしまった。

本作では、カルテルのボスの娘:イザベルとの交流が描かれる。

中年の殺し屋と訳あり少女は、『レオン』的な王道な面白さがある話で、アレハンドロのジェントルマンな側面を引き出してはいた。

また聾の家族との交流などもあり、とにかく本作のアレハンドロは優しいおじさんという雰囲気だ。

それはまあ、いいのだが、単に優しいだけならば、アレハンドロでなくてもいいのではないか、という感じもする。

彼のジェントルマンな魅力は、真っ直ぐな暴力性の間に見え隠れするからこそ、前作では魅力的だったのだ。本作では暴力的な部分がほぼ描かれないので、単に優しいおじさんという感じで、単純なキャラクターになってしまっている。

そしてイザベルは、登場シーンこそ鮮烈で、独自の雰囲気があって良いのだが、単に大きな陰謀に巻き込まれた被害者の少女であり、その立場も最後まで特に変わることもない。

アレハンドロが彼女を助けるのも、罪のない少女を犠牲にするのは忍びないから、という一般的な道徳観以上のものは感じられず、やはり影の薄い存在になってしまっている。(もちろん、実の娘とダブったからというのは分かるのだけど)

そういう意味では、このストーリーだと、主人公はアレハンドロである必要はないし、少女もイザベルである必要もない、という感じがしてしまう。

この映画単体で観たときに退屈な映画だとは思わないのだが、やはり前作でのキャラクターの良さがあってこその続編なんだろうと期待してみているから、「このキャラクターじゃなくてもいいのでは?」というのは結構致命的。前作ファンの期待には上手く応えてくれなかったな、という残念感がある。

アメリカ・メキシコ国境を舞台とし、麻薬カルテルとの戦いを絡める、という前作で敷いたレールの上で、アレハンドロを主役にした映画を作ろうとしたのは分かる。

だが、やっぱり、単にアレハンドロが出てれば良いってわけではない。なぜアレハンドロというキャラクターがあんなに魅力的だったのかをあまり顧みずに、ストーリーとして成立する話にしたら、この内容になった、という印象。

ストーリーも話が転々としていて、最初はテロとの戦いだったものが、それは間違いだったとなり、その後は敵地に取り残された男のサバイバル物になる。前半と後半で別々のストーリーになっており、それもちょっと乗り切れない。前半後半を繋ぐ少女との交流もいまいちなわけだし。

アレハンドロの魅力が十全に描かれていれば、ストーリーがそれほどしっかりしていなくても問題なかったと思うのだが、前述の通り、彼の魅力は半減。そしてストーリーも少し難があるとなれば、すごくいい映画だ、というのは難しい。

といいつつ、別に退屈したわけでもなく、緊張感のあるアクションシーンは良かったし、カルテルの仕事に関わった少年がだんだんと落ちていくサブドラマも悪くなかった。

渋い雰囲気のアクション映画として、良作だと思う。

関連作品

エネミー・ライン

ローン・サバイバー

マイ・ボディガード

自分を救った少女が誘拐され、怒りに駆られた男の復讐劇。

シリーズ作品

映画

悪魔の手毬唄 (1977年) -血の運命と悲劇の殺人-

概要

四方を山に囲まれた鬼首村。そこで20年前に起こった未解決殺人事件を、個人的に追いかけ続けていた警部:磯川は、探偵:金田一に捜査を依頼。金田一は、殺された男の妻でもある青池リカの旅館に泊まり、事件の捜査を始める。

鬼首村には由良家と仁礼家という名家があり、互いにいがみ合う関係。そんな中、両家の娘、由良泰子と仁礼文子は共にリカの息子:青池歌名雄に好意を持つが、歌名雄はやや落ち目の家である由良家の泰子と交際している。

20年前の事件を捜査し始めた矢先、泰子が何者かに絞殺される。泰子の母は、仁礼家の仕業だと訝しむが、ほどなく仁礼の娘である文子も殺されてしまう。金田一は、この殺人の方法が村に伝わる手毬唄の歌詞をなぞっていることに気づく。

事件を捜査するうち、20年前、由良家没落のきっかけを作った詐欺師であり、リカの夫を殺した男:恩田の存在が、今回の事件にも関係するものとして浮かび上がってくる。

レビューの印象

高評価

  • 陰惨な殺人事件ながら、悲しく、人情味があるドラマ
  • 当時の日本の風景を再現してくれる映像
  • 役者の顔や、殺人の様子、死体の描写など、怪奇的な映像が魅力

低評価

  • 殺人事件としてのリアリティが低く、探偵の推理もあまり面白くない
  • 殺人の方法が無駄に突飛で、人間ドラマを背負った犯人のキャラクターがぶれる
  • 余計な部分が多く感じる

ナニミルレビュー

時代的なものなのか、公開から40年以上経っている今見ると、いろいろと奇妙に見える。それが悪いというわけではなく、当時はこうだったのかぁ、と思わせてくれるものだった。

例えば、タイトルにもなっている「手毬唄」。鬼首村に伝わる手毬唄の歌詞通りに犯行が行われている、という事実が明らかになるのだが、この設定はストーリー上はわりとどうでもよく、この歌が事件を解決に導くわけでもない。単に、犯行の手法として「手毬唄の歌詞をなぞる」ということの面白さや、日本のある地域の様子を垣間見るような好奇心を満たしてくれるだけ。

手毬唄をなぞるという遊び心のわりに、犯人は愉快犯などではなく、わりと真面目な人間。真面目な人間が殺人を犯してしまうことの切なさが、この映画の大きな魅力になっている。だから、犯人像と、手毬唄をなぞった殺人手法は明らかにミスマッチな違和感が、今この映画を観ているぼくの目には映る。

しかし、こういう面白さが、当時は違和感を伴わずに自然に受け入れられたのかなぁ、というような。そんな風に思わされる。もちろん、当時から違和感はあったのかもしれないが、少なくとも「金田一シリーズはこういうものだ」と受け入れられていたんだと思う。

この手毬唄の設定ひとつみても、この映画が、ミステリーや推理物として、すごく精緻にできた作品だとは言えないと思う。

やはり、いろいろツッコミどころがあって、「普通そんな殺し方しないんじゃない?」とか「普通その変装バレるんじゃない?」とか「それ偶然上手くいっただけじゃない?」とか、悪く言えばご都合主義な展開やトリック、証拠の発見が目立つ。

というわけで、別にミステリー部分はそんなに面白くないのだが、この映画の面白さは別の所にある。

まず、やっぱり昔の日本の描かれ方。風景。人間関係。家屋。ここで描かれるのは昭和27年(1952年)だから、江戸や明治のように昔ではないのだけれど、舞台が田舎の村になっているので、すごく昔の感がある。

この風景を見ると、少なくとも江戸時代ぐらいと今が連続しているんだという感覚を得ることができる。

(以下ネタバレ)

そして、やっぱり人間ドラマこそ面白い。

今はもういない男によって、因縁を持つ女4人とその娘4人。このドロドロの人間関係を軸とした殺人劇。

もちろん、この女の恨み辛みも目を引く要素ではあるのだが、個人的に最も心に来たのは、犯人リカの息子:歌名雄の運命である。

歌名雄は、まず恋人を殺され、自分に思いを寄せていた幼馴染を殺され、さらに妹を殺され、最後には母をも失ってしまう。

歌名雄には全く何の罪もないのに、彼のもとに運命のしわ寄せが全て襲いかかってくる。単に、たまたまリカの息子として生まれただけなのに、彼はそんな目にあってしまうのだ。しかも名家や王家の息子なんていうものでもなく、比較的普通の家の息子である彼のもとに、こんなに大きな運命が叩きつけられるのだから、よくある物語として処理するわけにもいかない。

クライマックスで、歌名雄が、殺人犯が自分の母リカであったという事実を知るシーンがある。その場面で、歌名雄を見守る周囲の村人や警察は、みな目を背けて歌名雄の不幸に同情する。

ここにはただただやるせなさがあって、そのやるせなさからは、誰しもが目を背ける以外のことができない。

そんな悲劇的な歌名雄の運命こそ、この映画の最も深い部分なのだと感じた。

関連作品

ミスティック・リバー

誰もが顔見知りの街で起きた殺人事件をきっかけに、過去のある事件が再び浮かび上がってくるストーリー

殺人の追憶

田舎町で起きた陰惨な連続殺人事件を追う、残酷さとコミカルさが同居する映画

ファーゴ

家族絡みの殺人事件だが、あまりにも間抜けな顛末が特徴的なストーリー

映画

氷の微笑 -「分からなさ」の魅力をサスペンスの興奮で描く-

概要

ある日、サンフランシスコの豪邸で元ロックスターのジョニーが殺される。刑事ニックと相棒のガスは、事件の日、被害者と行動をともにしていたという恋人のキャサリンを容疑者として捜査を始める。

キャサリンは資産家の美しい女で、心理学に精通したミステリ作家。物的証拠はなく、動機も不明だが、当夜のアリバイはない。また、彼女の小説に書かれている殺人の場面が、ジョニー殺害の様子と極めて類似しており彼女への疑いは高まっていく。

キャサリンは連行され取り調べを受けるが、余裕の表情で刑事らを煙に巻く。確かな証拠や動機もなく、結局キャサリンは解放される。しかしニックだけは彼女の関与を確信し、独自に捜査を進める。

謎の多いキャサリンだが、調べると彼女の周りでは多くの殺人事件が起きており、彼女の友人は前科のある者ばかりだと分かってくる。彼女は小説のネタにするためにそのような人間関係を気づいているといい、次の小説の題材はニックだと宣言して彼と関係を持ち始める。

レビューの印象

高評価

  • 答えの分からないミステリー、サスペンスの緊張感
  • 周囲を完全に手玉に取るキャサリンの妖艶な魅力
  • ミステリーに加え、アクションやベッドシーンなど見どころが多い

低評価

  • 主要キャラクターがキャサリンに陥落されていくので、頭脳戦としては彼女以外のキャラクターに魅力が薄い
  • キャサリンに都合の良すぎるストーリーで嘘くささがある
  • ミステリーとしてはそこまでの内容でもなく、結末も消化不良

ナニミルレビュー

豪快なベッドシーンと凄惨な殺人のシーンから始まり、意味深なアイスピックの描写で終わるラスト。映像で観客を引きつけよう、楽しませよう、魅了しようという映画らしいストーリーテリングの面白さを突き詰めていると感じた。

また、登場人物や起こる事件(ミステリー)にしても、リアルさを追求するというよりは、あくまでも「キャラクター」として、「ストーリー』として面白さや魅力、良い意味での「分かりやすさ」を感じる設定になっている。

事件自体は不可解で、最後まで真実がボヤけたまま終わっていくのだけど、その「ボヤけ」自体は、明快に表現されている。

「犯人は誰なんだ」「この人が言っているのは本当なのか、嘘なのか」というサスペンスフルで興味を引く場面場面の展開こそが重要で、全体としての事件自体のリアリティはそこまで重視していない。

しかし、だからダメということではなく、2時間、観客の興味を引き続け、映画として、目と感情を楽しませ続ける。そんな意志を感じさせる作品だと思った。

この映画最大の魅力はファム・ファタールであるキャサリンの存在だ。

自分の恋人(セフレ)の死を聞いても冷静で、警察の取り調べに対しても超然とした態度を取り、追いかけても捕まらず、逆に追う側を魅了していく。

そのような非人間的な女性なのかと思いきや、親友の死に狼狽し、利用価値がなくなったと言って縁を切った主人公の元にまた戻ってくる。そういう弱さも見せながら、いやしかし、この弱さもすべて演技か、と思わせる。

この映画は、事件の真実も、最も焦点が当たるキャラクターである「キャサリン」という人間も分からないまま終わる。

この「分からなさ」こそが魅力的な映画。その上で、その「分からなさ」が「退屈さ」になってしまわないように、それぞれのシーンでは緊張感やエロティックさをしっかりと演出し、最後まで観客の興味を失わないようにストーリーが進んでいく。

殺人のシーン(未遂も含め)では、とにかく、犯人は見えているのに、顔だけが見えず、顔が見えないだけなのに、真実が把握できない。単にこれだけの仕掛けなのに、ストーリーがねじれていって、最後まで煙に巻かれ続ける。

あと1点だけ事実がわかればすべてがスッキリとするのに、その最後の1ピースだけが足りない。この謎、分からなさ、ミステリーがサスペンスを生み、そのサスペンスが観客を楽しませる。

そういうシンプルな強さを持ったストーリーにも関わらず、妙に内容は入り組んで感じるという不思議な面白さを感じる作品。

関連作品

ナイトクローラー

周囲を周到に利用しながら這い上がっていく狂った男のサクセスストーリー

ノクターナル・アニマルズ

裏に意図がある相手の行動に翻弄されるストーリー

エスター

自身の武器を使って周囲を籠絡するキャラクターを描いた作品

映画

翔んで埼玉 -関東圏ガラパゴスコメディ-

概要

埼玉県に住むある一家は、娘の結納のため、3人で車にのり東京へ向かう。その車内でたまたま流れたラジオで、東京から抑圧を受ける埼玉を開放へ導いた「都市伝説」が語られる。

そこは「都会指数」という数値を元にヒエラルキーが形成される世界。埼玉県人や千葉県人は東京からひどい差別を受けており、華やかに発展する東京に対して、辺鄙な土地で貧乏な生活を余儀なくされている。

東京都知事を輩出する名門白鵬堂学院へ転向してきたアメリカ帰りの美男子:麗。都知事の息子である百美は彼に恋をし、埼玉出身である麗と共に、東京による埼玉差別の象徴「通行手形」制度を廃止するため、行動を起こす。

レビューの印象

高評価

  • バカバカしさを突き詰めている姿勢に感心する
  • 支配層に対して被支配層が連帯して戦うという展開がアツい
  • 悪口を言いながらも地元愛が溢れる、愛憎半ばの演出が心地いい

低評価

  • ギャグだと分かっていても、差別描写をお笑いとして描いていることに不快感がある
  • 関東圏の関係性を軸とした笑いなので、その文脈が分からないとそこまで笑えない
  • テレビ的な笑い、内輪ウケの笑いで、コメディ映画としてはイマイチ

ナニミルレビュー

ポジティブ

恐らくどこにでもある、隣接地域への対抗意識をあるあるネタとして誇張し、自虐的に面白おかしく描いている。

セレブをパロった過剰に綺羅びやかな、時代錯誤的な東京の世界と、時代劇的に田舎っぽい、これまた時代錯誤的な埼玉や千葉。高層ビルや電車の路線図など、確実に現代であることを描きながら、帯刀した反乱分子や貧農がいる中世仕立ての世界観を混ぜ、「そんなバカな」と思わせるアベコベな設定の面白さ。コメディであると共に、東京と埼玉や千葉の関係性をデフォルメして描いている。

その上で、「東京テイスティング」という街の匂いからその地域を当てたり、埼玉の県産品を使ったギャグなど、関東圏に住んでいる観客にとってはクスリと笑える展開がこれでもかと詰め込まれている。

必ずしもそのネタ元の意味がわからなくても、「東京対それ以外」という構図が分かっていれば、その面白さは最低限伝わるし、とにかく「馬鹿なことを大真面目にやっている」という可笑しさは十分伝わるので、関東圏の「あるある」にそれほど詳しくない私が観ても、面白さは理解できた。

とにかくコメディ部分に関しては、「東京対その他」という強者と弱者の関係、地元あるある、地名や特産品を使ったギャグ(主にそれを下げる形での自虐的なギャグ)を軸としており、当事者にとってはとても面白いのだろうな、と思うし、当事者でなくても、そのやりすぎな演出で笑える、という形になっている。

ストーリーは大変わかりやすく、抑圧された人間が、抑圧する側の悪代官たる東京都知事を追い落とす話。

まあ、ストーリーはあくまで埼玉ネタを入れ込むための最低限のものなので、特に意外性や精緻さはないけれど、登場人物たちの行動を説明するのに必要十分だとは感じる。というか、そこを真面目に見ることを拒む馬鹿らしさがあるので、そこは最低限で問題ないのだと思う。

当然、差別的な内容であるこのストーリーをマイルドにするため、このストーリーはあくまでラジオで流れる「都市伝説」であるという設定になっている。

また、ラジオを聞きながらそこに茶々を入れる娘のツッコミによって、「都市伝説」内の差別を、映画内で相対化している。

もちろん、「都市伝説」が、現代と中世が入り交じる絶対にありえないデフォルメされた世界観であることも、差別の悪を薄めており、「都市伝説」内で描かれる差別は、過剰な世界観に沿って、単に過剰に表現されているのだ、という安心感を与えている。

つまり、現実を過剰に描いているから、差別も過剰になっている(=それがコメディになる)だけであり、本当の世界では、これはもっと小さな気持ち、都民と県民のちょっとした気持ちの差でしかないのだ、という伝え方になっている。

だからこそ、恐らく当事者である埼玉県民や千葉県民、東京都民もそれなりに笑って観ていられるのだと思う。

ネガティブ

ストーリーを真面目に観る必要がないのは分かりつつ、やはり、クライマックスには難がある。

最後、東京都知事を追い落とすことになるのは、百美による汚職の暴露であるけど、この暴露と、メインストーリーとして描かれる麗らの東京への反乱はほぼ無関係に進んでいる。

一応後日談として、麗たちと百美が作戦会議をしている場面を描いているが、これは、作り手もこの2つの出来事(反乱と汚職暴露)が別々になっていることを自覚しているがゆえに、言い訳として取ってつけた場面に過ぎないと思う。

普通に考えて、汚職の暴露のために反乱は不必要だ。だから、反乱があろうがあるまいが、都知事は百美の活躍により失職していたのだろうという展開になっており、ストーリー上もっともアツい展開である被差別県人の東京への反乱が、空虚なものになっている。

差別的表現については、いくらギャグとはいえ、不快に思う人がいるのは当然だろう。

「これをギャグとして笑えないのは心が狭い」というのは、あまりに乱暴で、不快に思う人が不快に思うのはごく自然なことだと思う。

上に書いたように、差別が不快にならないような工夫が凝らされているが、そもそも差別を不快に見えないように描くこと自体が悪なのではないか、という批判も成り立つ。

一応、ストーリーとしては、差別をしている側(東京)を悪として描き、被差別側を「正義」として描いているのだから、正しい構図にはなっている。百美が過剰に非都会なものに悪い反応をする姿は、愚かな姿として描かれており、そういう意味では、差別自体を攻撃していると受け取ることもできる。

が、当然、これはこれで東京都民に対する差別でもあるわけで、「強者なのだから悪者にしても許される」という、いわゆる逆差別である。

という話もあるのだが、この映画で描かれる「差別」の大半は、そのようなストーリー上の善悪で描かれるレベルのものではなくて、もっと細かい描写の中に現れる。

それは、あるあるネタ、自虐ネタ、揶揄の中に含まれるものだ。例えば群馬県を「サバンナ」と表現するのは、明らかに差別的。埼玉県人が病的に海を求めているという描写も埼玉県民を馬鹿にしている。

これ、単に、都民と県民ではなく、日本人とフランス人とか、日本人と中国人とかで置き換えて考えてみれば、どれだけひどい話なのかは簡単に想像できるはずだ。

この映画を笑って観ていられるのは、根底に「同じ日本人」という感覚があるからであり、でもその「同じ」にはまた違う暴力的な抑圧があるのであって、「同じ日本人」を単に肯定するのも違和感がある。日本人でもそれぞれ違う。それどころか、同じ県民でもそれぞれ違う。そう思えば、やっぱりこの映画が描いている差別は、ギャグだとしても、良くないんじゃないかなぁと感じざるを得ない。

そして、この映画、ラストではこれは実は「都市伝説」ではなかった、というオチになっていて、それはさすがにダメなのでは、と感じた。

まとめ

東京周辺には日本人口の3割ほどの人がおり、その大きな層の人が「あるある」と思えるネタをふんだんに仕込んだ映画として、多くの人が面白がれる作品であるのは、レビューサイトなどでの高評価を見ていてもよく分かる。

多くの人が自分ごととして楽しめる作品なのだから、話題にはなるだろうし、高評価も集まる。一方で、内輪ネタであるからこそ、ギャグ/冗談として覆い隠される差別的な構造もあり、そこに違和感を感じる人もいる。

内輪での盛り上がりや、今だからこそ分かる芸能人ネタを観ると、これはひとつの「お祭り」なのだろうという印象の作品。

関連作品

奇人たちの晩餐会 USA

「変人」との友情を描くコメディ作品

マッドマックス 怒りのデス・ロード

抑圧者を討ち滅ぼすお祭り映画

アス

強者/弱者の関係性をデフォルメして描いたスリラー作品

最強のふたり

身体障害者と介護人の友情をユーモアたっぷりに描いたコメディ作品

映画

アス -見捨てられた者たちの逆襲、説教ホラー映画-

概要

1986年、少女アデレードは両親とともにサンタクルーズの遊園地を訪れ、1人で入り込んだミラーハウスでのある出来事によりトラウマを負ってしまう。

その後、アデレードは成長し、夫と2人の子供を得て、ある休暇を家族でサンタクルーズで過ごす。過去のトラウマが頭をもたげ、落ち着かないアデレードは夫に帰りたいと話すが、その矢先、家の敷地に謎の4つの人影が立っているのを息子が見つける。

夫は彼らに退去するよう要求するが、人影は連携の取れた動きで家に侵入、アデレードらはその4人に捕まってしまう。家のリビングで対峙するアデレードら一家と謎の4人家族。風貌が似ており、自分たちの生き写しのような彼ら。

アデレードによく似たリーダー格の女レッドは、自分はアデレードの影だと言い、辛い身の上話をした後、自分と正反対に恵まれた生活をしてきたアデレードに復讐すると宣言する。

レビューの印象

高評価

  • 格差問題や弱者切り捨ての社会に対する批判性が高い
  • 奇妙で不気味な雰囲気や、ブラックユーモアが楽しめる
  • さまざまな小ネタや引用が散りばめられていて、ディテールを観る楽しさがある

低評価

  • テザードや地下施設の設定に無理があり、ツッコミどころが多い
  • 敵側であるテザードの最終目的が判然とせず、どう観ていいのか不明確
  • キャラクターの行動原理が一貫しておらず、ご都合主義な展開が多い

ナニミルレビュー

ストーリーとしてのリアリティや説得力は犠牲にしつつ、シンボリックな設定や小道具、台詞回しなどで社会批判を全面に押し出した作品、という印象の映画。

観終わった感想としては、正直あまり良くはない。納得できない点が多くあり、このストーリー内の世界や出来事に説得力がなく、その結果として、ストーリーを通して描いている批判自体も嘘くさくチープに感じてしまった。

リアリティやディテールの整合性を重視して作っていないのだと理解はできても、やはり、ストーリーを通して社会批判を描くためには、ストーリー自体にも説得力(≒リアリティ)を持たせなければいけないのではないか、と思った。

つまり、観客の解釈によって批判性を立ち上がらせればよい、という、よく言えば観客を信用した、悪く言えば都合の良い観客頼りなストーリーで、個人的にはあまり上手い作りだとは思わなかった。

ぼくの見方としては、まずストーリー自体に説得力があるからこそ、それを真剣に解釈したいと思うし、そのストーリーの説得力によって、解釈された内容にも重みが出るのだと思う。それによってのみ批判の質が上がるのだと思う。

一方、この映画のようにストーリーを「批判的シンボルを乗せるための入れ物」のように作ってしまうと、「なるほど、このシンボルによってこういうものを批判しているのか」というのは頭では分かるのだけど、それはもはや言葉で説明される(=説教される)のとあまり変わらない感覚で、ストーリーに仕立てていること自体が蛇足のように感じてしまう。

まず、ストーリーでグッと心をつかんで、その上で頭で理解を促す方が、批判的なテーマを持った映画としては良質だというのが、ぼくの意見。そういう見方でいくと、やっぱりこの映画を良い映画だとは言いづらい。

なので、全体的な評価は低いのだが、鑑賞中退屈したわけではなく、ちゃんとした映画だとは思う。

特に、不穏な演出や、敵役であるテザードの不気味な存在感などはとてもすごかった。映像は全体的に凄かったので、目で楽しいことは間違いない。

また、中盤以降、想像以上に話が広がっていくスケール感の変化もワクワク感があり、ゾンビ物的な展開で新鮮さがあった。

しかし、やはりストーリーの粗が多い。

まず、あまり怖くはない。いや、最初に家を襲撃されるシーンなどは、テザードの不穏さも相まって、非常に怖かったのだけど、恐怖感に関しては、最初が一番緊張感が高く、あとはダラダラとしていき、ホラー映画としてのテンションは下がり続ける。

最初に家に侵入されるシーン、テザードのリーダー格であるレッドの指示に従ってパパっと散開。手際よく主人公家族を追い詰めていくさまを見ると「やばそうだ」という期待感が高まるのだが、その期待感はその後、家族がテザードに反撃するシーンでことごとく崩れ、「いや、こいつら弱くね?」という印象を冒頭から残してしまう。

このテザードの「弱さ」は、ストーリー後半になるほど、映画全体のリアリティを下げる原因にもなっており、「いや、銃社会かつ武装した警察もいるアメリカで、このタイプの敵にここまで圧倒されることはないのでは?」と感じずにはいられない。だって、知性もなく武器はハサミ、ゾンビのように増殖するわけでもない。何より怪我をした父が1対1で戦って2連勝している。とにかく「弱い」というのが観客が抱く素朴な印象だろう。

前述の通り、この映画はそのような「リアリティ」を追い求めた映画でないことは明らかなので、このツッコミは野暮なのだけど、でもやっぱり、ストーリーを追う観客としては、このテキトーな設定の中、緊張感を保ち真剣に事態を見続けるのは難しい。

ということで、緊張感が途切れた後は、テザードとの戦いは、作り手のメッセージ(社会批判)を描くためだけの振り付けされた嘘くさい行為であって、もはやこの戦いの顛末はわりとどうでもよくなってしまう。

また、テザードの弱さに加え、主人公家族たちの行動のずさんさも目にあまる。最初こそ家族離れ離れにならないように慎重に行動しているのに、途中から母親が1人で行動する場面が増えたり、子供から目を離しすぎだし、父親もなぜか家族に対して無責任だったり、「この危機的状況でそんな言動、普通は取らないんじゃない?」と思わずにはいられない。それらの行動も「振り付けされてる感」を強めている。

なので、キャラクターにもリアリティがなく、結果的に家族のドラマとしても薄っぺらいし、とにかく全体的に嘘くさい。

作り手は、この映画の「設定」自体に描きたい社会批判のほぼすべてを込めており、キャラクターたちはその「設定」を開陳するための道具になってしまっている。だからストーリーやキャラクターはわりとどうでもよく、これみよがしに、「場面」を見せていく映画という印象になっている。

では、その「設定」とは何か。

実は、アメリカの地下には秘密施設があり、そこには地上で暮らしている人間のクローンが生活している(ある時アメリカ政府の実験によって作られ、今は破棄され地下に閉じ込められている)。クローンらは「テザード」と呼ばれ、人格が不完全で人間らしい生活ができていない。その不公平に対する不満を抱いたレッドという知性あるテザードの導きによって、地上の人間への襲撃事件を起こすに至った。

この基本的な設定に加え、「ハンズ・アクロス・アメリカ」や「旧約聖書のエレミヤ書第11章11節」「囚人服」など、批判を補強するためのシンボルがさまざまに配置されている。が、別にストーリーに直接関わってくる話ではないので、トリビア的なもの。

この映画で、ストーリー上必要な設定はとにかく、人間のクローンがひどい環境で生活しており、そのクローンたちが反逆を起こした、ということだけだ。

つまり、「同じ人間だが違う環境」という思考実験的なテーマを、政府のクローン実験という設定で具現化し、そこに格差問題、弱者切り捨てなどの社会問題を象徴させている。

その発想自体はとてもシンプルだし、言いたいことはよく分かるのだが、やっぱり、あまり上手いメタファーになってないと思う。

まず最大の問題点。

テザードは見捨てられた弱者の象徴なのだが、このホラー映画のストーリー上では、主人公たち地上の人間を襲う「加害者」として描かれている。もちろん「お前ら(地上の人間)が見て見ぬ振りしてきた弱者による裁きだ」という意味なのは分かる。

だが、果たして地上の人間たちは、テザードたちを「見て見ぬ振り」してきたのだろうか。映画冒頭で表示される文章からも分かる通り、地上の人々はテザードのことを知らない。

「知らない」ことと「見て見ぬ振り」には大きな差がある。それこそ、ここには善と悪を分けるほどの差があるのに、この映画のストーリーは、「知らない」も「見て見ぬ振り」もいっしょくたにする。

メタファーとして、ここに最大の問題がある。つまり、この映画における人間とテザードの関係は、現実社会の強者と弱者の関係からはズレており、このズレは、現実社会の問題の焦点をぼかしてしまうズレなので、それはイコール、この映画が描いている社会批判自体をぼかしてしまっている。

次に、弱者としてのテザードの描かれ方の問題。

テザードの虐げられた苦しみが、ほぼレッドの独白(うさぎの生肉を食わされた、欲しいオモチャがもらえなかった等々)のみで語られている点が残念だ。この説明台詞が説教臭さにつながっていて、せっかく映画なのだから、もっとグッと「これはひどい・・・」と観客が思わずにはいられないような演出をしてほしい。

もちろん、地下施設に閉じ込められていたのだ、という状況からテザードの苦難を想像することはできなくはないが、そのわりには地下施設のヴィジュアルは妙に整然としていて、不気味ではあるけど悲惨さはあまり感じず、そのような観客の想像も阻んでいる。また後述するが、あるテザードはうっかり地上に出てきており、それも「閉じ込められている」という不幸な状況を薄めてしまっている。

この映画を観ても、現実の弱者の痛みは伝わってこないし想像することも難しい。強者の加害的な振る舞いも描ききれていない(ストーリー上では単に被害者に見えてしまう)。テザードと主人公家族との関係は、現実社会の弱者と強者の関係からは程遠い。

「なるほど弱者の存在を見て見ぬ振りをしてはいけないと言いたいのだな」という主張を読み取ったとしても、それはすごく表層的な説教として理解されるだけであって、感情を揺さぶられる経験としてはない。だから、最初に書いたように、「ならストーリーにしなくてもよかったのでは」と思ってしまうのだ。

(以下ネタバレ含む)

さんざん悪口を言ってきたけれど、ひとつ素晴らしいと思った点もある。それはラストで明かされるある真実による主張だ。

それは、実は主人公である母親と、テザードのリーダーであるレッドは幼少期に入れ替わっており、実は主人公はテザードで、敵のリーダーが人間だった、という皮肉っぽい展開だ。

レッドが人間だったからこそ、意志のないテザードたちを束ねて反逆を企てられた、という設定上の整合性もここでは取れている。

しかしもっと重要なことは、この展開によって、単なる偶然によって運命を左右される理不尽さを、観客に一瞬で理解させていることだ。こういう説得力を持たせた理解を促す展開こそ、本当の意味で批判的だと思うのだ。

ぼくは、このラストの展開を見るまで、弱者の象徴であるテザードの描かれ方に対して強い違和感を持っていた。

それは、テザードが弱者の象徴だと考えた場合、知性が低く奇妙な振る舞いをするモンスターとしてのテザードの描写は、弱者を非人間的に描くという暴力なのでは、という違和感だった(もちろん、ホラー映画として機能させるための設定であることは分かった上で)。

また、幼少期のレッドがそうであったように、あの施設から出ようという意志があればテザードは地上に出られたわけで、彼らがそうしないのは彼らにその意志がないからだ。で、その「意志のない存在」を弱者の象徴として描くのはどうなのか、という違和感も当然ある。

しかし、地上に出て、人間的な環境で過ごしたテザードが、今や子供を必死に守る母親=人間になっているという設定によって、この違和感がひっくり返される。

つまり、テザードたちに知性や意志がなく非人間的なのは、そのようなものを得る環境が与えられていないからなのだ、という主張が、このラストの展開によってクリアに描かれている。

そしてそれは、「どこに生まれたか」という偶然によって運命を左右されてしまう不平等の恐ろしさを、デフォルメした形でハッキリと示している。

「いや環境だけでそんなに変わらんだろ」という反論は当然あり得るけれど、そういうリアリティの問題ではない。これは主張をメタファーとして上手く変換できているという良さ。

このラストの展開が良いのは、さきほど書いたような弱者/強者の雑な構図とは違って、作り手の主張を明確に、正確に設定に落とし込めているから良いのだ。この映画が批判する環境の不平等という問題を主張するための設定としては、とても分かりやすく、かつストーリーの展開としても面白い。

このラストの展開を見ると、映画の途中で、奇妙ながら嬉しそうに化粧をしているテザードなどに、人間的になっていく可能性を見ることもできなくはない。テザードは全く意志のない存在なのではなく、意志の対象を知らなかっただけなのかもしれない。

現実社会にいる弱者も、そもそも自分たちが何を奪われているのか理解できていないのかもしれないし、それを強者が「彼らは欲しがってないじゃないか」と判断することの問題、そういう現実にもありえる構造的な問題を、主人公である母親と、テザードたちのリーダーであるレッドの入れ替わりによって、端的に示している。そこがすごく良いのだ。

さらに言えば、さきほど書いた「知らない」と「見て見ぬ振り」に関する問題も、主人公だけに限れば、正当な強者批判なのかもしれない。というのも、主人公はテザードとして地下で過ごした経験があり、そういう意味では「知っていた」はずだからだ。知っていたけど、見て見ぬ振りをして(もしくは忘却し)、自分だけ地上で幸せに暮らしていた主人公は、たしかに弱者を切り捨てた強者として、上手いシンボルなのかもしれない。

総合的に見て、やはりストーリーがずさんだし、ドラマも薄いし、社会批判を全面に押し出すわりにはピントがズレているのではないかと思わずにはいられない映画だけれど、観るべきものがない映画ではない。そしてビジュアルは良い。ラストまで観て逆算すれば、いやいや良い映画だったのでは、と思えてしまう。そんな映画。

関連作品

イット・フォローズ

不穏な雰囲気が似ている、設定に一癖あるホラー映画。

トゥルーマン・ショー

思考実験的なテーマを具現化した映画。

マッドマックス 怒りのデス・ロード

搾取の構造をデフォルメしたシンボリックなストーリーの映画。

プレステージ

多大な犠牲の上に成り立つ栄光を描いた作品。

映画

ピラニア リターンズ -小ネタ、パロディ、バカバカしい-

概要

オープンを控え準備を急ぐプールテーマパーク「ビッグ・ウェット」とオーナーであるチェット。共同経営者である女子大生マディは、女性の裸を売りにしたパークの方針に反対するが、主導権を握るチェットに意見を聞き入れてもらえない。

そんな中、プールの設備を接続してその水を利用している湖で、マディと友人が謎の魚に襲われる。マディは生物学者カール博士に魚を見てもらい、それが殺人ピラニアであることをつきとめる。

プールの危険性をチェットに話すマディだが、聞き入れてもらえず、プールは予定通りオープンし、家族連れやセレブなど、多くの人がオープン当日のプールへやってくる。

レビューの印象

高評価

  • パロディや小ネタが多く、コメディ作品として楽しい
  • エロ、スプラッターが期待に答えるでき
  • くだらなすぎて笑える

低評価

  • 元ネタが分かれなければ楽しめないギャグが多い
  • シリアスなホラー要素がなくなり残念
  • 前作とあまり繋がりがなく、続編としてイマイチ

ナニミルレビュー

ポジティブ

前作の殺人ピラニアのアイデアを活かしながら、より明快にコメディに振り切った印象。馬鹿らしいアイデアなのだから、とことん馬鹿らしくしてやろうという思い切りが気持ちいい。

グロテスクな描写は前作よりマイルド。正義の主人公と強欲な経営者・悪徳警官というわかりやすい構図。主人公に長年片思いしている冴えない男の活躍。前作と比べても、全体的にポップで見やすいストーリーになっている。

前半こそ定型的ながらある程度は真面目(B級として)なドラマやサスペンスを展開するが、プールオープン後は完全にギャグに振り切り、「観客のツッコミ待ち」状態となっていく。

例えば、前作でピラニアと戦い足を失った警官が登場。前作では100%殉職した人物として描かれていたので、ここで登場すること自体がギャグになっている。そのうえで、義足の代わりに足に銃をはめてピラニアと戦うという『プラネット・テラー』展開が何の説明もなく挟まれ、そしてそのシーン以降はそれほど活躍しない。

こういった感じで、それほどメインストーリーと絡むこともなく、単にギャグとして描かれるシーンも多くなる。

そしてプールという場の性質上、プールサイドに上がれば本当は恐怖シーンは終わるはずなのに、なぜか長い間プールの中に人がいて助けを求めている。それに対して「プールから上がれば安全だ」というライフガードのセルフツッコミ台詞もある。

前作は、古代ピラニア襲撃という馬鹿げた事件を描きながら、そこにエセ科学で理由付けをしたり、家族や恋人の命を守りたいというドラマがあったり、ラストまである程度のシリアスさをキープしていた。

本作でも、前半では葛藤を抱えるマディを軸に、ある程度のシリアスさを保っている。だがクライマックスでは、「もはやそんな真面目さは不要だろう」という思い切りがあって、この馬鹿げたアイデアをとことんまで馬鹿らしく展開していこうという気持ちよさがある。

映画ラストでは、ピラニアがまさかの進化を遂げ、まったく悪趣味に犠牲者が増える。

「そんな馬鹿な!」という驚きがありつつ、古代ピラニア襲撃自体が「そんな馬鹿な」アイデアなのに、何を今更・・・、という皮肉たっぷりなユーモアが感じられる。

ネガティブ

もはやストーリーを真面目に描く気はないので、そういう面白さはほぼない。

主要キャラクターの性格がシンプルかつ明確であるのは、好感度が高まりにくかった前作のキャラクターたちより良い。

が、やはり主人公マディの行動にも無理があったり(夜に湖に潜るとか)、もはや、ハラハラシーンを描きたいだけであることを隠す気もないストーリーなのは、つまらなさを感じた。

また、前作では内容のおふざけっぷりとは裏腹のグロテスクな描写に衝撃があったが、本作の描写は前作より明らかにトーンダウンしており、特に驚きがないものになっている。そのぶん見やすいが、特に特筆しない部分がない。

まとめ

実質70分で終わるB級スプラッターコメディ映画として悪くない。特に強くオススメはしないが、前作が面白ければ、それなりに楽しめるはず。

レコメンド作品

ジュラシック・ワールド

テーマパークを舞台に、恐竜が人を襲う映画

ハッピー・デス・デイ 2U

ホラー映画の続編なのに、ホラーをやめてコメディになった映画

シリーズ作品

映画

ピラニア -人体が削れるグロ描写とエロ描写で押し切るB級パロディ映画-

概要

春の観光シーズン。アリゾナ州ヴィクトリア湖で地割れが発生。地底から古代のピラニアが大量に現れ、釣りをしていた男性が食われて死んでしまう。保安官ジュリーはこの異様な死体を発見し、調査に乗り出す。

同じ頃、休暇に浮かれる観光客の中、ジュリーの息子ジェイクは、アダルトビデオの撮影に来た監督に地元を案内するよう頼まれ、誘惑に負けて承諾する。

ジェイクは妹たちの子守をすっぽかし、撮影に出かける。ジェイクの幼馴染ケリーは撮影クルーの乗る船に乗り込むジェイクを見つけ声をかける。監督はケリーも同行するよう誘い、ケリーとジェイクは共に撮影クルーに加わることに。

保安官らはだんだんと殺人ピラニアの正体に近づき、湖で盛り上がる観光客に岸に上がるよう警告するが、誰も聞かず。ピラニアがちゃくちゃくと水中を進み人々の足元に迫っていく。さらに、ジェイクらが乗る撮影クルーの船にもピラニアが襲来し、船が座礁。ジェイクらは沈んでいく船の上で取り残されてしまう。

レビューの印象

高評価

  • 中盤以降のパニック展開、グロテスク描写に見応えがある
  • 『ジョーズ』のパロディとして面白く、かつコミカルな演出で楽しく観られる
  • エロ・グロ・悪ふざけに振り切っていて、B級感が楽しい

低評価

  • パニックが起こるまでが退屈
  • よく言えば王道だが、既視感のある展開
  • 全体的に下品
  • 登場人物の行動にツッコみたくなる場面が多い

ナニミルレビュー

ポジティブ

B級感満載で悪ノリしまくりなスプラッター映画として爽快な仕上がり。

とにかく、前半やたらエロ描写が多く(そもそもアダルトビデオの撮影が主人公を動かすキーになっているから)、エロいサービスショットの後、後半スプラッター展開ね、はいはい、というテンションで観ていると、スプラッターが想像以上の人体破壊ぶりで驚いた。

正直、誰も彼も定型的なキャラクターで、葛藤も薄っぺらくストーリーは弱い。

しかし、この映画において基本的にストーリーはエログロ描写を演出していくための下敷きでしかないと思う。そして、深いドラマを描こうという素振りを見せることもないので、そこにガッカリするとしたら、観客側の問題だろう。

ということで、とにかく最初から最後までサービスショット(エロモグロも)をつなぎ続けましたという印象の映画。

人体破壊描写に関して、爆発で体がバラバラになったり、体が切断されたり、内臓が出たりなどの描写をよく見るが、本作は敵がピラニアということで、体のいたる箇所の肉が食いちぎられて、「体が削れていく」という描写になっている。

個人的に、この描写は初めて見たので新鮮だったし、視覚的なショックも大きかった。

最初にピラニアの巣へと入っていった調査員が襲われ、そのうち1人を船の上に上げたところで、下半身がほぼなく、骨だけが残っている状態が描写される。ここがまず驚き。

そして、主要人物であるAV監督の最期もすごい。ピラニアに襲われながらも、なんとか救出されるのだが、腰から下がボロボロ。しかし、骨は残っている。この「骨とその周囲の肉だけが残っている身体」がなんとも痛々しくて、単に体がバラバラになったり、大量に出血する以上に悲惨なビジュアルになっている。

少しずつピラニアの驚異を見せ、だんだんと緊張を高めて、ピラニア襲撃シーンが始まると、水辺は阿鼻叫喚の凄惨な状態になる。

これでもかとスプラッターを重ね、見応えがある描写が続く。

岸は逃げ逃れる人と救助される人であふれ『プライベート・ライアン』的な悲惨でグロテスクな光景が繰り広げられる。しかし、このあたりまでくるとすでに目が慣れてきており、そこで起こる悲惨な事態はすっかりギャグに見えてくる。

運ばれている途中で上半身と下半身がちぎれてしまい、絶叫したあと眠るように絶命する女性の描写があったり、みんなで逃げ込んだ海上のステージが倒れて大勢が滑り落ちたり。ここはもはやドタバタコメディにしか見えなかった。

一方で、体の皮がめくれたりしながら苦しんでいる人々の寄りの描写にはしっかり「痛そう・・・」というショッキングさがあり、行き過ぎてギャグっぽくなるにしても、シリアス目に痛みを描くにしても、真面目に惨状を描写しているのが凄い。

期待していた以上にスプラッター描写がしっかりしており、想像を超える映像の凄さだった。ぼくは配信サービスで観たのだが、これは映画館で観なければ観たといい難い作品だとも感じた。

ネガティブ

まずピラニア襲撃までが長い。というのもストーリーが弱いので、結局「ピラニア襲撃が見たい」以外の期待感があまりなく、そこにいたるまでは長い前フリになっているから。

それをカバーするためにも、ひたすらエロいシーンが続くわけだが、うーん、やっぱり映画鑑賞としては退屈だった。

本当は、ジェイクとケリーのロマンスがもっと良ければ、そこを楽しんで観られたと思うだが、この映画のロマンス(というか人間関係全般)はあまり良くない。

なぜロマンスがいまいちかといえば、登場人物の行動にいまいち説得力がなく、結果として、あまり魅力的なキャラクターにもなっていないから。

さきにも書いたとおり、それほどストーリーがしっかりしている映画ではないし、それが大問題だというタイプの映画でもない。なので、ある程度は行動に説得力がなくてもそれはご愛嬌と思って観ていられる。

とはいっても、納得できない行動が続くと感情移入しづらい。そうするとアツいシーンもなんとなく冷めてしまうし、命の危機でもハラハラが弱まってしまう。

主人公ジェイクはやや弱気な好青年で、エロい誘惑につられて母親の言いつけを破り、クライマックスではケリーを巻き込んでしまった責任を感じ成長するという流れになっている。

ジェイクは「自分のせいでケリーを巻き込んだ」というが、実際はケリーは止めようとするジェイクを振り切って自分から危険に飛び込む形になっている。その上、AV監督にそそのかされるケリーに対し、ジェイクは常に軽率な行動をやめるよう注意している。

ジェイクは最初からずっとケリーに対しては責任感をもって行動していて、なので、ラストでのジェイクの後悔に説得力がなく、だから彼の「成長」も上辺だけのものにしかみえない。

ジェイクが終始真面目な男として描かれている。このしわ寄せがケリーの方にいっており、ケリーはだいぶお転婆で奔放に描かれている。

ここは好き好きなので、奔放だからケリーのキャラクターが弱いとか魅力的でないというわけではないのだが、この映画全体的に、女性は性に奔放な存在として描かれている(こういうジャンル映画的なステレオタイプ)。

その中でヒロインも奔放なキャラクターにしてしまうと、個性が埋没してしまい、いまいちヒロインの特別な魅力が感じられない。

映画冒頭こそ、調子のいいイケイケな男の誘いを断って、真面目なジェイクの方へ行く、という行動でケリーの性格付けがなされている。この時点ではジェイクとケリーの関係性には説得力がある。

だが、ケリーがだんだんと性的な遊びに乗せられていくと、ケリーの性格が曖昧になる。(個人的に、ケリーが乗せられていく過程は、口車に乗せられて性的な行為を求められる女性の姿を見ているようで、いや~な感じがした。)

いたずらっぽくてノリが良い女性の魅力を描きたかったのだと思うし、そういうキャラクターだって全然アリなのだが、このストーリーにおいては、まずキャラブレしていること、そしてジェイクの誠意を無視していることによって、やはりケリーは魅力的な人物には見えない。

よってジェイクの恋心にも説得力がない。だから、クライマックスの救出劇もいまいちアツくない、という感じになってしまっている。

映画クライマックスでは、スプラッター描写の中、いろいろと「アツい」展開も描かれる。だが、どれも記号的でグッとは来ない。

例えば、黒人警官が水辺に立って船のスクリューでピラニアを退治しながら、同時に食われてしまう英雄的な描写がある。たしかに、身を挺して敵にダメージを与える行為は英雄的だと思うけど、しかし、普通にもっと上手いやり方あっただろうし、その行為によって直接的に救われている被害者が描かれていないので、勝手に無茶な行為をして死んでいったように見えてしまう。

それにそもそも、そこまでのストーリーで観客がこの警官に感情移入する余地がなく、ちょい役が死んだくらいにしか見えないのに、画面上では彼の同僚が鎮痛の面持ちになっており、観客との感情のズレがあらわになっている。

英雄的行為による殉職と、仲間の死を痛む同僚たち、という記号的な感動描写をしているだけで、そこにも説得力がない。

また、主人公らが助かるかどうか、スリリングな救出劇が最後にあるのだが、ここもあまりにも行動に説得力がない。

ピンと張ったロープを伝って危険な船から安全な船へと移動するのだが、なぜかみんな同時にロープを渡りだす。それによってロープがたるみ、水面に近づいたことで犠牲が出てしまう。

いや、普通に1人ずつ渡ればいいだろ、と誰もが思うはずである。どう考えても、途中で犠牲者を出してスプラッターを描きたいがための行動であり、せっかくハラハラする場面なのに緊張を削いでいる。そして、その頃にはすでにスプラッター描写も見飽きているので、描写で驚くこともできず、すごく冷めた感情になってしまう。

作り手の都合を考えれば、ここでちまちま1人ずつ渡らせるシーンなんか撮ってたら、それこそモタモタして緊張感が削がれるだろ、というのは分かる。分かるのだが、それは映画の作り手の感情としてはリアルだが、命をかけてロープを渡っている登場人物たちの感情としてはリアルじゃない。よって、観客にとってもリアルではなく、「なんでみんなで一緒に渡ってるの?」としかならない。

その後、ジェイクとケリーを救うために船で2人を繋いだロープを牽引しようとするが船のエンジンがかからない、という展開になる。危機的状況で、なかなかエンジンがかからない。古典的だが効果的な演出だと思う。

一方、エンジンがかからずパニクっている間「いや、とりあえず手でロープ引っ張れよ」「ジェイクとケリーも待ってないで泳げよ」と思わずにはいられない。

また、ジェイクによるケリー救出劇は、ピラニアに「ある餌」を与えることで、時間稼ぎをして実行される(そんな都合よくピラニアがいなくなるわけないだろというツッコミは野暮)。なので、この場面ではタイムリミットが緊張感を演出している。「またいつピラニアが戻ってくるわからない!急がないと!」そういう場面なのだ。

そのわりに、ジェイクもケリーもモッタモタしており、熱いキスを交わしたり、なぞの装置を作ったりしている。いやもうその暇があったらさっさと泳げ。っていうか、ピラニアはいないんだから、そもそもジェイクが潜る必要性は本当はない。天窓から会話はできるんだから、「今のうちに上に上がってこい」と言うだろ普通。上に上がりさえすればとりあえず他の方法を考えられるんだから。

そして、ジェイクは最後に船に積まれていた謎のガスを使って大爆発を起こす。一応、ピラニアに一発仕返しをするスッキリシーンっぽく演出されているのだが、そもそもピラニアがどれくらいの数いるのか分からないのに、爆発に巻き込まれて死ぬリスクをおかしてそんなことする意味がわからない。

さきほどの黒人警官もそうだが、とにかく、ピラニア群の全貌が分からない状況で、目の前のピラニアをちまちま殺しても、観客は何の意味も感じられず、なんのカタルシスもない。

とにかく、クライマックスにかけて単に「そういう絵」が撮りたかっただけという展開ばかりになっていき、最後の印象が悪くなってしまった。

まとめ

いろいろとネガティブなコメントが出てしまい、かなり悪評感が出てしまったが、そんなんツッコんで観るような映画じゃないだろ、と言われたら、その通りだと思う。とにかく「削れた人体描写」の凄さを味わうだけでも価値のある作品。

とはいえ、やはり登場人物の魅力が薄いのは難点ではあると思う。この手の映画なら、出来事や設定がご都合主義で進んでいってもそれほど違和感はないが、人間の行動が違和感だらけだとどうしても興を削がれてしまう。とりあえず「こいつは助かって欲しい」「こいつは死んでほしい」と思わせてくれるぐらいの登場人物ではあってほしい。

とはいえ、90分を切る長さの映画なので、白ける前に見終わってしまう。スプラッター映画が好きな人におすすめできる作品であるのは間違いない。

レコメンド作品

ジョーズ

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大量発生した謎の生物に人々が襲われる、スリラーかつコメディ作品

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