映画

ノクターナル・アニマルズ -クリエイティブで鮮やかなリベンジ-

概要

アートギャラリーのオーナーとして成功を収めているスーザン。しかし夫との仲も冷え切り、仕事に対する情熱も冷め、満たされない日々を送っていた。

ある日、スーザンの元に20年前に離婚した元夫エドワードから小説原稿が届く。スーザンは、エドワードの作家としての才能を信じきれず、不倫の果てに彼の元を去っていた。

小説はバイオレントな内容で、妻と娘をならず者に殺された夫が、その復讐を果たすと言うものだった。この小説「夜の獣たち」にスーザンは一気に引き込まれる。

そして、感想を聞きたいと言うエドワードの頼みに応じて、スーザンはディナーの予約を入れる。

レビューの印象

高評価

  • 小説を使った復讐劇という題材自体が新鮮で面白い。暗い雰囲気ながら爽快感がある
  • 美しい映像で、物質主義を皮肉るストーリーを描いていて小気味いい
  • 劇中劇である小説のストーリーも緊張感があり、どんどんストーリーに引き込まれる

低評価

  • ショッキングな展開もあり、結末も後味が悪い
  • 復讐劇として納得がいかず、キャラクターたちの行動に共感できない
  • 構成が入り組んでいて、パッと理解できない

ナニミルレビュー

ポジティブ

夢を追いかけ続けた作家が、その夢を信じてくれなかった元妻に、小説を使って復讐するという設定自体の面白さがまずある。

それに加えて、「フィクションに思いを込める」という行為、それを誰かが「読んで解釈する」という行為の不思議さも感じることができる。

小説のストーリーとして描かれるスリラーの部分も丁寧な演出で見応えがあるし、トム・フォード監督ならではの映像美も素晴らしい。

端的に、「創作って凄いな、面白いな」と思わされた。

ネガティブ

小説内の事件の捜査が全体的にずさんに感じたのと、クライマックスでの主人公トニーと警官ボビーの行動が、やや無理矢理に感じた。

「そこで二手に分かれるか?」とか、「なんで手錠外したの?」とか、「さすがに無用心すぎるだろ」とか、いろいろツッコミどころが積み重なって、せっかくのラストがやや緊張感の欠けたものになってしまった。

創作という武器

小説を使った元妻スーザンへの復讐劇、というのが、この映画の大筋であり、最大の面白さだ。

ここには2つの面白さがある。

1つ目は、これが「作家」という職業に人生を賭けた主人公、エドワードならではの、絶妙な復讐方法であること。

2つ目は、エドワードが小説に込めた思いと、それを読んだスーザンの解釈にズレが生じており、それが2人のドラマを展開させていること。

エドワードならではの復讐方法とはどういうことか。

20年前のスーザンは、エドワードの作家としての才能を信じきれず、彼を裏切るかたちで離婚に至っている。

スーザンはその後、芸術への情熱を捨て、ビジネスパーソンとして成功するが、結局は空虚さに襲われて毎日を過ごしている。

そこに突然、エドワードから小説が送られてくる。スーザンはその小説に引き込まれ、スーザンが過去に下した評価とは裏腹に、彼が立派な作家に成長していることを知らされる。

空虚な毎日を送るスーザンに対して、20年かけて自分の道を歩み、自己実現を果たしているエドワード。

この小説は、「20年前の君は間違っていた」という事実をスーザンに叩きつける、有無を言わせない爽快なお返しである。

ここには、空虚なスーザンと、達成感に満ちたエドワードの対比がある。さらに、20年分のエドワードの努力と信念の重みがある。加えて、2人の間ではいわくつきの「小説」を使うというロマンチズムがある。

ロマンス、生き方の対比、時間の重み、象徴的なモチーフを絶妙に絡めていることで、この映画で描かれる復讐の面白さが際立っている。

このお返しの面白さに加え、お返しに使われるその小説の内容も、2人の思いのズレを表すものとして、上手く機能している。

エドワードは、スーザンへの怒りを直接的な方法で伝えるのではなく、その怒りを小説の中にメタファーとして込める。

普通、ケンカするときは「君はあの時こんなことをした」と具体的、直接的に相手を責める。

しかしエドワードは、自分の持つ最上の武器であるフィクションを作る能力によって、「君が僕にしたことは、これくらい酷いことだった」と、メタファーを使って責めているのだ。

そしてこのメタファーを使った間接的な主張が、2人のズレをあらわにし、それがドラマとして機能している。

20年前、スーザンはエドワードとの子を勝手に中絶し、さらに不倫の末、エドワードの元から去っている。エドワードはこの事実を小説内で「ならず者によって妻と子供が殺された」というメタファーによって表現している。

しかしこのメタファーを、スーザンは「自分がした仕打ち」だと解釈していない。だからこそエドワードの復讐心に最後まで気づかない。

なぜスーザンはエドワードの思いを正しく解釈できないのか。それはスーザンが20年前の出来事を、エドワードと同じようには考えていないからだろう。

エドワードにとってスーザンの仕打ちは、妻と子を殺されるほど苦しいことだった。しかし、スーザンにとってはそうではなかった。スーザンは小説を読むことでエドワードの苦しみ自体は追体験しながらも、その苦しみの元凶が自分であることには思い至らない。

「メタファー」と「解釈」の差に、2人の過去に対する認識のズレが表され、それが現在における2人のドラマへと展開している。

さらに面白いのは、この映画で映像として描かれる小説内の出来事(劇中劇)は、スーザンの頭の中にある映像だということである。

つまりこの映像は、エドワードによって書かれた内容ではなく、スーザンによって読まれた内容なのだ。

エドワードは、トニー(小説の主人公)を自分だとは言っていない。にも関わらず、映像の中で(=スーザンの中で)、トニーの姿はエドワードの姿で再現されている。これは作者であるエドワードの意図と合致している。

しかし、小説内で描かれる娘については、エドワードの意図は正しく解釈されない。それは、小説内で娘が殺された後、不安をかき立てられたスーザンが自分の娘(再婚相手との間にできた娘)に電話するシーンから分かる。

エドワードは、小説内の娘をスーザンが中絶した自分の娘のメタファーとして描いているが、スーザンは今生きている自分の娘の姿を重ねて小説を読んでいる。

ここでは、書き手であるエドワードが小説内に込めた意味と、読み手であるスーザンが行う小説の解釈がズレていることが示されている。 

面白いのは、確かに解釈がズレているとはいえ、「自分の娘」という共通項によって、その苦しみが共有されていることだ。

エドワードは、小説内の娘をすでに死んだ自分の娘だと考えているし、スーザンは、まだ生きている再婚相手との娘だと感じている。

自分の経験やその瞬間の関心によって、同じ物語でも、重ね合わせる現実が違う。にも関わらず、「子を失う親の苦しみ」という点では、感情が重なっている。

このこと自体が、フィクションを読むことの面白さを表している。

さらに、映画を観ている観客は、それよりさらにメタな視点でこの映画(フィクション)を観ている。

観客は、過去の回想シーンと小説内容を同時に見ているから、エドワードが小説に込めた意味を当たり前のように理解できる。スーザンがなぜ勘違いするのかも、彼女の生活を見ているとなんとなく想像がつく。

そういう意味で、観客もまた、この映画のフィクションの中に巻き込まれている。

映画のラストでは、小説の解釈が、現実に起こった出来事(デートの約束)によって深まり、スーザンはようやく小説の真意、そしてエドワードの苦しみを理解するのだ。

この映画は「小説による復讐」という、それ自体とても面白いストーリーを描きながら、さらに、フィクションを読んだり、それを解釈したりすることの奇妙さや不思議さをも同時に表現している。

人間がフィクションに思いを込めること。そのフィクションが現実で誰かの考えを変えたり行動を促したりすること。そして現実の方がフィクションの解釈を変えること。

痛快な復讐劇でありながら、フィクションの面白さにも想いを馳せさせるような凄いストーリーだ。

ちなみに蛇足。

この映画を復讐劇として解釈するのではなく、エドワードからスーザンへの励ましの物語だと解釈する人がいる。

エドワードはスーザンを想って、物質主義に堕落したスーザンを小説によって目覚めさせようとしている、という解釈。

監督のインタビューなどを見れば、この解釈は監督の意図とは違うことがわかる。

監督はこう語っている。

「これが君が僕にしたことだ。君は僕を殺した。僕を圧し潰し、僕の家族を壊した。でも見てみろ、僕は勝った。20年間自分を信じ続け、小説を書き続けた。しかも傑作の小説を。そうそうところで、君がこの小説を読んだら、君はまた僕に恋するだろう。でも残念、僕はもう君を乗り越えた。もう君をこれっぽっちも想ってない。」エドワードがこの小説でスーザンに訴えているのは、基本的に、そういうことだ。
(『ノクターナル・アニマルズ』メイキングインタビューより 訳:くたくた)

なので、エドワードの意図が、スーザンへの励ましだったという解釈は、監督の意図からはズレている。

でも、面白いのは、監督は上記の言葉の後こう語っている。

この映画すごく悲しい結末だよね。僕ちょっと変なのかも。でも実際、人生には悲しいことがあるし、人はそれを乗り越えて成長し、人生を豊かにしていく。スーザンに何が起きたとしても、彼女の人生はもともと袋小路に入っていた。彼女の内面は死んでた。その上で、この小説を読むという極めて苦しい経験は、彼女の人生を変化させる力を持つものだったはずだ。
(『ノクターナル・アニマルズ』メイキングインタビューより 訳:くたくた)

だから、「エドワードはスーザンを励まそうとしている」という解釈は、監督がキャラクターに込めた意図からはズレているのだけど、「監督はスーザンを励まそうとしている」という解釈は正しいと言える。

そういう意味で、この映画から、スーザンへの励ましを感じる人は、キャラクターの解釈を間違えながらも、かなり正確に監督の意図を読み取れている、ということになる。

ぼくたち観客がこの映画の解釈について云々するこの光景は、この映画内でスーザンがエドワードの小説の解釈をし間違えたり、その後正しいメッセージを悟ったりする光景と重なる。

だから、この映画は、観客まで含めて、何層もの入れ子構造になっている。

こういう映画を観ると、フィクションを解釈するという経験の豊さを実感できる。

トム・フォード監督は、『シングルマン』もそうだけど、いろいろ解釈できそうな雰囲気ながら、すごいド直球のストーリーを作る人、という印象がある。

だから、変に深読みせずに観るのが正しい気がするのだが、ここまでの文章で分かる通り、解釈について、「正しい」「間違い」を線引きするのは難しい。とはいえ、「どう解釈しようと自由」っていうタイプの結論はぼくは好きじゃない。

などなど、フィクションにまつわることをいろいろ考えさせられてしまう、しかもストーリー自体は説教臭くなくて普通に面白い。これはなかなか稀有な映画だと思う。

小説内のスリラー

この映画、実はほとんど何も起きていないようなシンプルなストーリーである。

映画内で起きているドラマらしい展開は、ほぼ、スーザンに小説が届き、エドワードと食事の約束に出掛ける、ということだけである。

にも関わらず、退屈せずに観られるのは、小説内のスリラーがしっかりと見応えのあるものになっているうからだ。

このスリラーは大きく2つのパートに分かれる。前半は事件、後半は捜査だ。

後半の捜査シーンも警官ボビーの描写など見応えはあるのだが、特に前半の事件パートは特筆すべきシーンになっている。

(ちなみに監督によると、ボビーが小説内の主人公に犯人への復讐を促す描写は、エドワードのスーザンに対する復讐心を体現しているそうだ)

この事件発生のシーンは、いやぁな感じが本当に上手く描かれている。

ここも、シンプルに言ってしまえば、3人家族が夜道を走っているところを、ならず者に襲われ、妻と娘を誘拐されてしまう、というだけのことだ。

このシンプルな出来事を、細かい描写の積み重ねによって、これ以上ないくらい疲労感と嫌悪感を感じさせるシーンにしている。

ならず者は、銃を持っているわけでもなく、最初から暴力を振るってくるわけでもない。

ちょっとヤンチャなただの田舎者なのか、人殺しをするような凶悪な人間なのか。これが分からないまま相手と交渉しなければならず、どう立ち回っていいのか分からない状況が、緊張を呼ぶ。

しかも相手の言うことに、いちいち筋が通っており、明らかに相手の方に悪意があるにも関わらず、どんどん言いくるめられ、自分の方に責任が加算されていく精神的苦痛。

さらに電波も入らず、仲裁を呼ぶこともできない。相手は男が複数人、こちらは女2人に男1人。武器もない。下手に抵抗したら何されるか分からない。

通りかかったパトカーが猛スピードで行ってしまうちょっとした描写が、絶望感を倍増させる。

この状況でじわじわと無防備にされ、車から出され、娘と妻から距離を離される。

無理矢理ではなく、こちらの意思でそうせざるを得ないように誘導されていくのがまた辛い。相手が暴力をふるってこないだけに、こちらも横暴に振る舞うことができない厄介な状況。

そして、相手が暴力を働き始めたら、もうどうしようもない。

ここの描写、本当に恐怖感、絶望感、無力感の表現が凄まじい。

満たされなさ

本作でのスーザンは、「社会的に成功しているけど満たされない人間」である。

これは、トム・フォード監督の前作『シングルマン』の主人公と似たキャラクター設定である。

前述した通り、監督はこの映画のラストシーンを「悲しいが、スーザンが再出発するシーンでもある」と、インタビューで話している。

前作『シングルマン』も、希望を失い空虚な毎日を送る男が、また新たな希望を見つける話だった。

それを考えると、「成功→空虚→新たな希望」というのが、トム・フォード監督が一貫して持っているテーマなのかもしれない。

『シングルマン』では、主人公の気品漂うファッションが、主人公の空虚感を表現していた。本作ではアート作品がその役割を担っている。

スーザンは、破産寸前の夫の面目を保つために「新進気鋭の画家をギャラリーに呼べば、誰も破産寸前だと気づかない」と言っている。

ここには「アートは単なる目くらましでしかない」という含みがあり、さらに「人々はそんなアートをありがたがっているのだ」という痛烈な批判がなされている。

映画序盤で、スーザンは「全てを手に入れても幸せじゃない」とかなり直接的なセリフを言っている。

スーザンは、周囲にいる友人たちに自分の苦しみを相談するが、誰も自分の苦しさの本質を理解してくれない。

「成功しているけど、アートなんてどうでもいい」と話すスーザンの相談に対して、周囲は「叶ってしまえば夢なんてそんなものだよ」という視点でアドバイスをする。

しかしスーザンは、スーザンは夢を叶えていない。だからこそ空虚なのだ。

芸術の夢を諦めてビジネスに舵を切ったからこそ、スーザンは現在の地位にいるのであり、周囲はそもそもスーザンの人生を誤解している。

スーザンは、ちゃんと自分の夢を追うことを選択しなかったからこそ、今現在、苦しんでいるのだ。

周囲の人は、その今のスーザンの外面だけを見て、「当然、夢を叶えているだろう」と判断している。しかしスーザンの内面は違う。このズレがスーザンの孤独感の原因になっている。

社交の場で周囲の無理解にスーザンが苦しむシーンは、『シングルマン』でいうところの講義のシーンに相当するだろう。

この満たされなさ、無理解の中で、エドワードの小説はスーザンを強く惹き込む。

これは復讐だが、エドワードの成功や成長は、スーザンが進むべきだった道を明確に示すものだ。スーザンもエドワードのように、自分の中の衝動や情熱を大事にする道を選択するべきだったのだ。

スーザンは20年前、エドワードを信じられなかった。同じように自分のことも信じることができなかった。

しかし、そのエドワードは作家として成功している。それなら、スーザンだってその可能性があるはずだ。

スーザンはここで再出発のチャンスを得る。だから、ラストシーンは悲しいながらも、希望がある。

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