概要
これまで園芸家として家族を顧みず働いてきたアール。しかし、ネット社会の流れについていけず園芸の仕事を辞めざるを得なくなる。
居場所を無くしたアールは、家族の元へ帰ろうとするが、それまでの身勝手を前妻や娘は受け入れず、行き場を失う。
そんなアールを見て、ある若者が運び屋の仕事を紹介する。
金のないアールは、深く考えずに仕事を引き受け、メキシコマフィアの麻薬を運ぶ運び屋としての仕事を始める。
常に安全運転で気のいいアールは、警官にも疑われることなく着々と仕事を完了させ、マフィアのボスも期待を寄せる有望な運び屋となっていく。
「マフィアの運び屋」というよくある設定の中に、「高齢で真面目な男」というキャラクターを当てはめた意外な面白さ。
家族との確執をドラマとして描きながら、どこか牧歌的な裏家業を描きつつ、クライマックスにかけて緊張感を高める。
オーソドックスな面白さなのだが、新鮮さがある運び屋映画。
!!これより下はネタバレの可能性があります!!
レビューの印象
高評価
- 主人公の言葉や生き方から、前向きなメッセージを与えられる
- それぞれのキャラクターの人間臭さや温かさが魅力的
- 高齢の運び屋という設定が面白い
低評価
- 「もっと気楽に」「家族を大事に」というメッセージ性に薄っぺらさを感じる
- マフィアの甘さや杜撰さ、DEAの捜査にご都合主義感がある
- クライム物としては淡々としており見応えが薄い
ナニミルレビュー
「高齢の運び屋」という意外性と説得力
クレジットのところでも説明されるが、この映画のストーリーの着想は現実のニュース(90歳のドラッグの運び屋がいたというニュース)から得られている。
ニュース自体にある意外性を、映画のキャラクターに流用しており、この設定自体に面白さがあるのは間違いない。
ただ、「意外である」ということは、説得力が薄い可能性があるということ。みんながそう思わないから「意外」なのであって、そこに説得力が伴わなければ、「思いつきでやってみた」という出オチのストーリーになってしまいそうだ。
しかしこの映画は、クリント・イーストウッド自身の存在感や、家族との関係を通して描かれる不器用で無頓着な感じ、切実な金銭的問題、また朝鮮戦争経験者という主人公の背景から、「このおじいさんなら、やりかねない」という説得力を感じられた。
その上で、このど素人のおじいさんが、確かに運び屋として優れている、という気づきも多くあり、彼がこの仕事で成功することにも納得感がある。
そもそも「ドラッグの運び屋」の先入観から大きく外れた風貌であること。対人的にも気のいい男で他人には好意的な印象を与える男であること。真面目な性格ゆえに無茶な運転をしないこと。
「なるほど、たしかにこの人物がこの仕事をすればうまくやるだろう」という納得感がすごくある。ドラマ『ブレイキング・バッド』で教師が麻薬製造で才能を開花させるのに似た面白さがあった。
犯罪に手を染めてしまった主人公が、家族や恋人との関係によって葛藤する(裏社会と表社会のあいだで板挟みになる)という展開もテンプレ的なパターンだ。
このテンプレパターンも、主人公が高齢であること、最愛の元妻もまた高齢であること。娘、孫という多層の人間関係の中にいることによって面白くなっている。
妻と娘にはめちゃ嫌われているけど、孫には好かれている、という設定も、なんだかありそうな家族関係で面白い。
さらに、家族とアールを結びつける最後の糸である孫の失望の言葉によって、クライマックスのアールの行動を生んでいるのもいい。
ヒューマンドラマで見るような展開を、クライム映画の中に位置付けると、こんな風になるのか、と思った。
なんだか、なんのジャンルの映画を見ているのか分からない浮遊感が面白かった。
貧困白人とリッチなメキシコマフィア、若者と老人
この映画には、明確な対比が2つある。
ひとつは人種の違い。もうひとつは年齢の差である。
ステレオタイプとして、白人が有色人種を支配し、年長者が若者を指揮する、という先入観がこれまであったと思う。
この映画ではこれが逆転させられている。
白人であり年長者である主人公アールが、メキシコマフィアの若者たちに指揮され、下っ端として働いている。
2050年ごろにはアメリカの白人(ヒスパニックを除く)の人口における割合は50%を下回ると予想されている。
白人ヒーローのアイコン的存在でもあるクリント・イーストウッドが、年老いた姿でメキシコマフィアの下っ端として働く姿は、そういう社会状況を背景にしてみるといろいろ考えさせられる。
アールが立ち寄った市場の駐車場で屯しているバイカーたちに出会う。
アールが何気なく「Son(兄ちゃん)」と声をかけると、実はそれは女性バイカーで「兄ちゃんって誰のこと?」と言い返される。
ちょっと戸惑ったアールが「ギャルか」と答えると、彼女は「ダイクスだよ」と答える。(ダイクス=dykeの複数形)
アールは去り際に「またな、ダイクス」と挨拶をする。
また、こんなシーンもある。
アールが運転中に、道中でパンクで立ち往生した黒人家族を助ける場面がある。
アールは、「最近の若いやつはタイヤの変え方もしらないのか」とぼやきながらも、タイヤ交換の方法を教えている。
しかし、アールが悪気なく「ニグロ」という単語を使ったことで緊張が走る。
黒人夫妻は「もうその言葉は使わない」と指摘する。アールは「そうか、わかった」と言って笑い、パンク修理を続ける。
アールは運び屋稼業の道中で新しい価値観に出会い、それに驚き戸惑うが、反発はせず笑って受け入れる。
一方で、白人だらけの町に立ち寄った際、アールを監視していた2人の男は、その見た目だけで白人警官から高圧的な尋問を受ける。
この映画は、クライム映画としてはテンプレなストーリーを追いながら、前に書いたように、主人公のキャラクターに意外性を持たせつつ、さらに現在的な問題を散りばめている。
大枠はテンプレでも、ちゃんと見応えも新鮮さもあるストーリーにできるんだ、ということを実感させてくれる。
クライム物ながらほのぼのした雰囲気
アールは自分を監視する若者に「もっと気楽に生きろ」と言っている。
(「気楽に生きすぎたから今、運び屋をする羽目になっているんだろ」と反論されているが・・・)
そのアールの言葉を体現するように、この映画はクライムものでありながら、だいぶほのぼのしている。
もちろん、クライムものと同時に家族ドラマを挟んでいるからだとは言える。しかし、それだけではない。
そもそも、突然の違法な仕事にふらっと乗ってしまうあたりが実はすでにゆるいのではないか。
仕事があると言われた先に行ったら、銃を持った強面の男たちに取り囲まれるなんていう状況になったら、もっとヤバさを感じる空気になりそうなものだ。
クリント・イーストウッドなので、なんとなく納得してしまうのだが、ここでアールがそれほどたじろがないことが、この映画の雰囲気を決定づけていると思う。
マフィアの男はケータイを渡してアールに指示をするが、アールがメールを使えないと知って呆然としている。(ここで後ろの男が「やれやれ」って感じで首を振っているわざとらしい演技が笑える)
本来なら強面で新人を教育するところで、ガクッと出鼻をくじかれる。仕方がないから電話でやりとりをすることにする。
ここはちょっと怖いシーンながら、アールに合わせるマフィアの男に優しさを感じてしまうシーンである。
その優しさもわざとらしいものではなく、アールが高齢でメールを使えないという状況から仕方なしに出てくる優しさだから、嘘臭さが少ない。
この時点で、この映画はわりとほのぼのしている。
ストーリーが進むと、この最初に出会った男たちとはだいぶ仲良くなり、メールの打ち方を習ったりしている。
そんなころ、監視役のフリオがやってくる。フリオはそんなやわな態度は許さないと怒鳴り、アールに厳しく接する。
しかしフリオもまたストーリーが進むとアールに魅了され、温かい人物として演出される。
そうやってフリオとの関係が良くなった後、今度はマフィアの内部抗争が起こり、新しい監視役がつく。
この監視役は、フリオのパートナーを殺してアールに見せ、現実の厳しさをアールに突きつける。
クライマックスでは、この新しい監視役の指示を無視してアールが家族の元で過ごすことでサスペンスフルな展開へと至っている。
結局アールは監視役に見つかり、絶体絶命のピンチとなる。
その次のシーンでは、その監視役がボスに電話している場面になる。
そこで、アールを追い詰めた男たちは、アールが癌だった妻の最期に立ち会うために姿を眩ませたのだと説明し、アールを許すようボスに語る音声が流れる。
ここで、この監視役たちもアールに魅了されてしまっている。
このように、この映画では「恐いと思った人物に実は温かさがある」という展開を3回繰り返している。
つまり、マフィアを温かく描いている。
クライム物ながらほのぼのとした空気が流れているのは、このせいだろう。
また、ラストもDEAに逮捕させることでアールは本当の意味での破滅を免れている。
そして、裁判のシーンでは、犯罪を犯していたアールに対して、家族は特に非難をしていない(個人的に、さすがにそれはどうなのとは思ったが)。
全体的に温かい映画なので、後味としてはそれに合わせて穏当に終わってよかったのだとも思う。
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